第五話:調律の終焉、あるいは僕たちの最高の選択(中編)
図書室を支配していた琥珀色の静寂は、もはや停滞した箱庭の象徴ではなかった。
僕が突きつけた「最高ではなかった」という一言は、静かに、だが確実に、彼女たちが守り続けてきた偽りの聖域を浸食し、崩壊させていく。
「……ねえ、律君。教えて」
瑠璃が、縋るように、あるいはその鋭すぎる知性で僕の深淵を暴こうとするかのように、低く問いかける。
彼女は窓枠に細い指をかけ、影の伸びた中庭を見つめていた。そこには、先ほどまで彼女に想いをぶつけていた、あの男子生徒の無様な残像が、今も消えずに焼き付いているようだった。
「あの中庭での一幕……あんな、論理のかけらもない無作法な『告白』が、どうして私たちの築き上げてきたこの時間を、否定する理由になるというの?」
僕は、彼女の視線の先にある闇を見つめ返した。
脳内で加速する「跳躍(リープ)」が、あの瞬間に感じた胸の疼きを、冷徹なまでに正確な語彙へと変換していく。
「……僕はね、瑠璃さん。あの中庭での光景を見て、ようやく『欠落』の正体を知ったんだ」
僕はゆっくりと、言葉を選びながら紡ぐ。
一つひとつの語彙が、自分自身の心臓を切り裂く刃になるのを自覚しながら。
「あの男子生徒は、君に愛を告げていた。それは、僕たちがここで繰り返してきた『依存』や『救済』といった、あまりに機能的なやり取りとは、決定的に質の異なるものだった。彼は君を救おうとも、管理しようともしていなかった。ただ、自分の内側から溢れる制御不能な熱を、君という一人の人間にぶつけていただけだったんだ」
瑠璃の肩が、微かに強張る。
「それを見て僕は、自分がどれほど醜い場所に安住していたかを理解した。……僕は、君たちに愛されることを当然の権利として享受し、傷ついた自分を癒やすための免罪符にしていた。……君たちが僕に注ぎ込む狂おしいほどの熱量に対し、僕は『受け取る』という最善の回答を返すだけで、自らの心を一歩も踏み出していなかったんだよ」
愛されるだけで、愛していない。
それが、僕たちの作り上げた箱庭が抱えていた、たった一つの、そして致命的な綻びだった。
瑠璃が僕を「救う」ことに心血を注ぎ、ほむらが僕を「観測」することに執着した。
それは、僕が彼女たちに「愛を与える」という責任から逃げ続けていたからこそ、彼女たちが自らを定義するために選ばざるを得なかった、歪な最適化の結果だったのだ。
「……君たちは僕という虚像を愛していた。そして僕は、愛されているという事実に溺れることで、君たちの本当の姿を見ようとしなかった。……愛し合うことから逃げるために、僕たちはこの箱庭を最高だと決めつけていただけなんだ」
僕の言葉は、夕闇の図書室に重く、どこまでも残酷に沈殿していった。
瑠璃の瞳に、初めて「聖女」としての仮面が剥がれ落ちた、一人の少女としての震えが走った。
静寂の中で、僕の言葉が二人の少女の胸の奥底を暴いていく。
愛したら、愛されたい。
そんな、子供でも知っているはずの、あまりに平易で、だからこそ僕たちが高度な知性で塗り潰し、見ないふりをしてきた根源的な欲求。
僕が彼女たちを「救済者」として祭り上げることは、彼女たちの人間としての体温を無視し、便利な機能として消費することと同義だったのだ。
「……律君。あなたは今、私を……一人の女として、見ているの?」
瑠璃の声は、今にも消え入りそうなほどに震えていた。
彼女はこれまで、僕を「守るべき無力な存在」として定義することで、自分と僕との間に超えられない一線を引いていた。僕を聖域に閉じ込め、その足元で献身という名の祈りを捧げることで、彼女は僕と「対等な一人の人間」として向き合う恐怖から、無意識に逃避していたのだ。
「見ているよ、瑠璃さん。……そして、東雲さんも」
僕は、逃げ場を失った二人の少女を、真正面から見据えた。
「君たちは僕のために、この学園というシステムさえ作り替えようとした。けれど、僕も同じなんだ。……君たちの愛を、ただ受け取るだけの器でいることに耐えられなくなるほどに、僕は君たちを……悍(おぞ)ましいほどに、求めてしまっている」
ほむらが、ゆっくりと眼鏡を外して机に置いた。
視界を矯正するフィルターを失った彼女の瞳は、剥き出しの情動を湛え、夕闇の中で濡れたように輝いている。
「……傲慢ね、律君。……私たちにこれほどの執着を強いて、私たちの生活も、思考も、すべてを自分一人のために塗り潰させておきながら。今度は、自分も同じ重さで私たちを愛すると言うの?」
「ああ。最高に傲慢な、僕の我がままだよ」
僕は一歩、彼女たちが座る円卓へと踏み出した。
「これまでの『最善』は、このまま君たちの愛に溺れて、思考を止めて死ぬことだった。それは論理的に導き出された、最も痛みの少ない共依存の終着駅だ。……でも、僕が選ぶ『最高の選択』は違う」
僕は彼女たちの震える指先に、自らの手を重ねた。
「君たちが僕に注ぎ込んできた、その過剰で、歪んで、狂気に満ちた愛を、僕がすべて飲み込む。その上で、それ以上の熱量を持って、僕が君たちを……君たちの人生そのものを、愛し抜くことだ」
愛されたい。
その本能的な叫びが、ようやく彼女たちの本当の想い――「救済」という高潔な仮面の下に隠されていた、寂しくて、震えていた少女たちの素顔に辿り着く。
彼女たちは、僕を救いたかったのではない。僕を救うことで、自分たちの「居場所」を、愛する「資格」を、必死に繋ぎ止めようとしていただけだった。
「瑠璃さん。ほむらさん。……僕は、君たちを愛している」
夕闇の図書室に、僕の告白が響いた。
それは、この物語の中で僕が初めて発した、論理でも演算でもない、血の通った「真実」だった。
僕の告白を受けた二人の反応は、対照的であり、同時にこれ以上なく「らしい」ものだった。
瑠璃は、崩れ落ちるようにその場に膝をついた。
完璧だった聖女の仮面は完全に剥がれ落ち、その大きな瞳から大粒の涙が溢れ出す。彼女は震える両手で自分の顔を覆い、嗚咽を漏らした。
「……あ、ああ……。律君……律君……っ。それを、それを、どれほど、待っていたか……っ!」
彼女が真に求めていたのは、救うための「偶像(アイコン)」ではなく、自分を一人の人間として見つめ、自分と同じ熱量で愛を返してくれる「対等な存在」だったのだ。彼女が執着した「救済」は、僕に愛される資格がないと思い込んでいた、彼女なりの哀しい防衛本能の裏返しに過ぎなかった。
一方で、ほむらは震える手で机の端を強く握りしめていた。
彼女は僕の愛の言葉を、まるで精密な解析にかけるように、何度も何度も脳内で反芻し、その意味を咀嚼している。眼鏡を外した彼女の瞳は、剥き出しの狂気と歓喜が混ざり合い、異様な光を放っていた。
「……愛すると言ったわね、律君。……それは、私というバケモノをあなたの人生の一部として受け入れ、私のこの底知れない執着さえも肯定するという、呪いのような盟約よ。……分かっているの?」
「分かっているよ、ほむらさん。……君が僕のすべてを記録するように、僕も君という人間のすべてを、僕の脳に刻み付け、一生離さない」
僕は、泣きじゃくる瑠璃の背中にそっと手を置き、立ち尽くすほむらの冷たい手を取った。
これこそが、僕が選んだ、三人にとっての「最高の選択」だ。
調律された穏やかな箱庭を自ら壊し、剥き出しの感情で愛し合うこと。
救う側と救われる側という、あらかじめ用意された便利な役割を捨て、互いの魂を削り合うような、後戻りのできない関係へと堕ちていくこと。
この息苦しい学園での孤独も、すべてはこの瞬間のための前奏に過ぎなかった。僕たちはもう、誰かに与えられた「最善」の正解なんて探さない。
「愛されるだけで、愛していなかった……。僕が臆病だったせいで、君たちにこんな歪な役を押し付けてしまった。……でも、もう、そんな綻びは僕がすべて埋めてみせる」
僕の宣言に、瑠璃が顔を上げ、濡れた瞳で僕を見つめる。ほむらが、僕の手を砕かんばかりの力で握り返した。
世界が僕たちをどう裁こうとも、この図書室の闇の中で、僕たちは自分たちだけの「最高」を、何度でも選び直していく。
「……行こう。この箱庭の外へ。……君たちが僕を愛したように、今度は僕が、君たちを愛し抜く番だ」
二人の少女が、僕の手を、服の裾を、狂おしいほどの力で掴み返した。
琥珀色の闇は、今や僕たちを祝福する、温かな炎のように揺らめいていた。
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