第四話:純粋な執着、あるいは箱庭の理由(後編)

 放課後の喧騒が、遠くの波音のように引いていく。  


 いつもなら、この時間は僕にとって最も甘美な「救済」への序奏だった。終礼が終わり、鞄を手に取り、図書室へと続く廊下を歩く。そこで西園寺瑠璃と合流し、図書室の奥で東雲ほむらが待つ円卓に着く。それが、この世界の最も正しい運行周期(サイクル)だった。


 だが、その日は最初の数秒から、世界を繋ぎ止めるネジが一本、不自然に脱落していた。


「――東雲さん、少しだけ図書委員の集計を手伝ってもらえるかな。急ぎなんだ」


 教室を出ようとしたほむらが、担任に呼び止められた。  


 ほむらは足を止め、無機質な眼鏡の奥で微かに瞳を揺らした。彼女の視線が、僕を掠めて時計を追う。それは、数ヶ月間一度も狂ったことのない「律を救うためのタイムスケジュール」が、初めて外力によって歪められた瞬間だった。


「……はい。すぐに」


 彼女は一言だけ、絞り出すように答えた。去り際、僕に向けられた視線には、明らかな困惑と、予期せぬ空白への怯えが滲んでいた。


 ほむらが教室を去り、静寂が訪れる。  


 その隙間を埋めるように、僕の椅子の背もたれが乱暴に蹴り上げられた。


「おい、久遠。……今日は随分とお見送りが早いじゃねえか」


 松崎の、低く濁った声。  


 彼は僕の襟首を掴み、無理やり引き起こした。いつも通りの暴力。いつも通りの、周囲の無関心。だが、彼の握力には、いつもの「役をこなす」ような余裕が欠けていた。


 松崎の脳裏には、数日前に友人が漏らした言葉が、毒のように回っていた。


『あいつの前に立つだけで、隠し事が―――』

『関わった奴はみんな―――』    


 松崎にとって、律はいじめることでクラスを安定させるための「装置」だったはずだ。だが、装置にすぎないはずの律が、不気味なバケモノに見え始める。その恐怖を打ち消すには、より強い力で、目の前の存在を叩き潰すしかなかった。


(……来ない。瑠璃さんも、来ない)


 いつもなら、この絶妙なタイミングで扉が開き、凛とした彼女の声がすべてを塗り替える。  

 松崎自身も、どこかでその「中断」を待っている節があった。彼女が現れることで、自分の悪意は「教育」や「正当な罰」として昇華され、この学園の調律された空気の中に安全に収まることができたからだ。


 だが、扉は沈黙を続けた。  


 救済という名のブレーキが消失した空間で、松崎の苛立ちは限界に達した。


「おい、久遠……。何だよ、その目は。何を見透かしてるつもりだ!」


 松崎の拳が、僕の横腹を抉った。  


 これまでの、傷跡に残らない程度の「演出された痛み」ではない。加減を見失い、恐怖を振り払うために放たれた、剥き出しの衝撃。


「……っ、が……あ」


 僕は床に崩れ落ち、肺の空気をすべて吐き出した。  

 咳き込む僕の視界が、火花を散らすように明滅する。


 救済者は、現れない。


 僕を中心に、完璧に調律されていたはずの箱庭。  


 瑠璃の愛。ほむらの献身。松崎の役回り。  


 それらを美しく、そして残酷に繋ぎ合わせていた「理由」そのものが、僕たちの制御を離れて、暗い奈落へと滑り落ちていくような感覚。


 僕は床に這いつくばりながら、混濁する思考の端で、言いようのない寒気を感じていた。  


 あんなに温かかったはずの調律(せかい)が、たった一箇所の綻びから、これほどまで冷酷な「ただの現実」へと変貌していく。


 僕はまだ、気づいていなかった。  



 この救いのない暴力の静寂こそが、僕が封印したはずの最悪の才能――「真実を暴く」ためのトリガーになることを。


 

 視界の端で、夕日に焼かれた埃の粒子が、無機質なダンスを踊っている。  


 腹部を抉る衝撃。肺から絞り出される悲鳴。それらすべてが、僕の意識を冷徹な覚醒へと引き戻すための、不快なノイズとして機能し始めていた。


「おい、どうした神童! 何か言ってみろよ!」


 松崎の叫びは、もはや悲鳴だった。  


 彼は僕を殴りながら、何度も入り口を振り返る。自分を止めてくれる「救済者」を求めて、縋るように視線を泳がせる。彼にとってのいじめは、適切なタイミングで「聖女」に断罪されることで完結する、安全なレクリエーションだった。だが、その安全装置が外れた今、彼は自らの暴力の質量に耐えきれず、底知れぬ恐怖の淵へと追い詰められている。


 僕は床を這い、重い頭を窓枠へと向けた。  


 何故、世界はこれほどまでに静かなのか。何故、調律は止まってしまったのか。



 その答えは、中庭にあった。



「……え?」


 夕闇の入り口、金木犀の影が長く伸びる中庭。  


 そこに、西園寺瑠璃が立ち尽くしていた。  


 彼女の前には、見覚えのない他クラスの男子生徒。彼は必死な形相で、彼女に何かを訴えかけている。その仕草、その距離感。それが「告白」という極めてありふれた、けれどこの箱庭においては「不可能な事象」であることを、僕は瞬時に理解した。


 瑠璃の表情は、驚きに凍りついていた。  


 あらゆる事態を手のひらで転がしているはずの彼女が、計算不可能な数式を突きつけられた学者のように、当惑し、立ち竦んでいる。

 彼女が誰かの告白を受けるはずがない。そもそも、彼女という存在の磁場は、僕以外の異性を寄せ付けないほどに、完璧に「調律」されていたはずなのだ。



 ――脳の奥で、カチリ、と音がした。



 封印していた「跳躍(リープ)」が、僕の意志を無視して再起動する。    


 思考が、爆発的に加速を始める。


 記号。数式。因果の連鎖。  


 西園寺瑠璃。演算停止。想定外の感情。  


 東雲ほむら。物理的遮断。日常のノイズ。  


 松崎。役割の逸脱。  


 救済。依存。箱庭。偽物。  


 愛している。愛されている。  



 違う。    



 決めたのは。  


 望んだのは。    


 三角形。調和。均衡。

 僕が救われるための地獄。  

 彼女たちが愛するための絶望。

 一センチ。ズレ。  

 一ミリ。誤差。  

 不協和音。  


 白檀。石鹸。血の匂い。



 最善。



 最高。



 論理の飛躍。

 意識の解像度が跳ね上がる。


 世界が、剥き出しの「構造」となって僕の脳内に流れ込む。    


 加速。加速。加速。    


 意味。無意味。真実。  


 僕を縛っていた枷が、音を立てて千切れ飛ぶ。    





 ――辿り着いた。




 松崎は、振り上げた拳を止めた。いや、止めることしかできなかった。

 

 先ほどまで床に這いつくばり、無様に喘いでいたはずの少年が、まるで行使すべき引力を自ら選別しているかのように、音もなく、ゆっくりと立ち上がったからだ。


 律の背中は、夕闇の逆光に縁取られ、異様なほど大きく見えた。  

 彼は松崎を見ることさえせず、ただ静かに窓の外――中庭で立ち往生している西園寺瑠璃を見下ろしている。その立ち姿には、恐怖も、痛みも、憎悪すらも欠落していた。


「……おい、久遠」


 松崎の喉が、引き攣(つ)れたような音を立てる。  

 脳裏に、数日前の友人の震える声が蘇った。


『あいつの前に立つだけで、隠し事が全部暴かれる』

『あの事件の時も、あいつのせいで―――』


 これまで、松崎はこの「神童」という記号を、自分を際立たせるための便利な舞台装置だと思い込んでいた。どれほど鋭い刃であろうと、折れてしまえばただの屑鉄だ。そう信じて疑わなかった。  

 だが、今、目の前に立っているのは、そんな通俗的な解釈に収まる存在ではなかった。


(……間違えた)


 松崎の指先が、微かに震え始める。  


 自分は、見極めを誤った。  


 西園寺瑠璃という盾が消えたから、好き勝手にできるのではない。  


 西園寺瑠璃という「檻」が外れたことで、本当に解き放たれてしまったのは――この少年の方だったのだ。


 ふわり、と律の首が動いた。


 視線が、松崎を捉える。  


 それは射抜くような鋭い眼光ではない。むしろ逆だ。  


 深い霧の奥底から、自分の存在そのものを透過して、その背後にある構造のすべてを無機質に「検分」されているような、絶対的な観測者の瞳。


「ひ……っ」


 松崎の口から、情けない漏斗音が漏れた。  


 律の瞳に映る自分。それは、クラスを牛耳る支配者でも、粗暴な加害者でもない。ただ、この精緻に作り上げられた「箱庭」という舞台装置の一部として、愚かにも役割を逸脱し、システムの修復不可能なエラーを引き起こした、無価値な不純物。


 律の唇が、ゆっくりと動く。





 そして――。





 

 放課後の廊下。  


 部活動に励む生徒たちの声も、窓を叩く風の音も、今の僕にはただの記号にしか聞こえない。


 僕は、一人で歩いていた。  


 一歩、足を踏み出すごとに、脳内で火花を散らしていた思考の断片が、整然とした論理の壁へと組み上がっていく。


 瑠璃の愛。ほむらの献身。松崎の暴力。  


 それらは、僕を「律」という一個の人間として扱うためのものではなかった。    


 彼女たちが愛していたのは、僕という素材を使った「救済」という名の芸術だ。  そして僕が縋っていたのは、自分を定義することを放棄した「依存」という名の安楽だ。


 僕は、僕自身が望んだ地獄の中にいた。  


 最高だと信じ込み、思考を停止させ、ただ「正解」を与えられるのを待っていた。


(……でも、もう終わりだ)


 図書室の重厚な扉が、視界の先に見えてくる。    


 扉の向こうには、きっと彼女たちがいる。  


 焦燥に駆られ、あるいは僕を再び「調律」しようと、完璧な言葉を用意して待っているはずだ。


 僕は、扉の取っ手に手をかけた。    


 かつてのバケモノと呼ばれた「僕」が、冷徹な微笑を浮かべて僕の内側で囁いている。    


 最善の答え合わせは済んだ。  


 次は、僕が「最高の選択」を突きつける番だ。

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