第三話:不協和音の正体、あるいは揺らぐ平穏(前編)

「律君、昨日の放課後のこと……東雲さんから聞いたわ」


 登校路の並木道。僕のすぐ隣を歩く西園寺瑠璃が、不意に歩調を緩めて僕を覗き込んできた。春の柔らかな日差しが彼女の髪を透かし、その白い肌をいっそう際立たせている。


「東雲さんの膝で、少し眠ってしまったのでしょう? 彼女、すごく嬉しそうに話してくれたのだけれど……」


 そこまで言って、瑠璃はふいと視線を逸らした。心なしか、その耳たぶがほんのりと赤く染まっている。彼女は僕の制服の袖をぎゅっと掴むと、そのまま僕の耳元に顔を近づけてきた。洗いたての石鹸のような香りが鼻腔をくすぐる。


「……ずるいわ。私も律君を支える役目なのは同じなのに。いつか……私にもさせて下さいね? あなたを、私の腕の中で、何も考えられないくらい深く眠らせてあげる。……約束ですよ?」


 囁き終えた彼女が顔を上げると、その頬は熟した果実のように赤らんでいた。上目遣いで僕を見るその表情は、恋する少女の純粋な可憐さに溢れていて、僕は心臓が跳ねるのを抑えることができなかった。



 ――そんな二人の姿を、少し離れた街路樹の影から見つめる鋭い視線があった。


「……ちっ、朝からやってくれるぜ。おい、ちょっと一発カマしてこようぜ」


 松崎の取り巻きの一人が、苛立ちを隠さずに腰を浮かせた。だが、その肩を松崎が沈黙のまま、強く掴んで制した。


「……よせ。今はいい」


 松崎の声は低く、拒絶を許さない威圧感に満ちていた。彼は目を細め、仲睦まじく歩く僕と瑠璃の背中を、無機質な目で見つめている。


「でもよ、松崎。あんなにデレデレされてっと……」


「外で騒ぐな。面倒が増えるだけだ」


 松崎は短く言い捨て、取り巻きの腕を放した。


「いじめは教室でやれ。あそこは密室だ。撮影も部外者の目もない。空気一つで誰が『正解』か決められる……俺たちの舞台なんだよ」


 松崎は深く制服のポケットに手を突っ込み、再び歩き出した。  


 彼が律への攻撃を教室の中に限定し、致命的な一線を越えないよう制御している理由。それは、学園というクローズドな組織の構造と、そこを支配する「空気」の機微を、彼が誰よりも正確に読み取っているからに他ならない。


 

 並木道を歩く僕たちの穏やかな時間と、それを陰から見守るように存在する松崎たちの悪意。  


 一見すれば相容れないはずのそれらが、まるで一つのパズルのピースのように、奇妙なほど滑らかに日常の景色へと収まっていく。


 僕は瑠璃のぬくもりに意識を向けながらも、背後の影から漂う得体の知れない「整合性」に、ごく微かな、けれど確かな不協和音を感じ始めていた。


 教室の引き戸を開けるという行為は、日常という名の舞台の幕を上げる動作に似ている。  

 一歩踏み込めば、そこにはいつもどおりの「密室」が広がっていた。窓から差し込む朝の光さえ、ここでは何らかの演出意図を含んでいるかのように、ひどく白々しく感じられる。


「……よう、久遠。今日も幸せそうだな」


 松崎の声が響く。それは怒声ではなく、ごく自然な、挨拶のようなトーンだった。  だが、その一言を合図に、教室内を漂う「空気」が一変した。談笑していたクラスメイトたちが一斉に口を閉じ、無言の観客へと変貌する。


「松崎君。おはよう」


 僕はあえて淡々と応じ、自分の席へと向かった。  

 机の上には、昨日とは違う――けれど、同じだけの手間を感じさせる細かな嫌がらせが施されている。教科書は一見無事だが、一ページごとに丁寧に水が霧吹きで吹きかけられ、波打つように膨張していた。乾けば使い物にならなくなるが、今はまだ湿り気を帯びて生々しい。


「悪りぃな、掃除の業者が間違えたらしいぜ」


 松崎が、僕の背後から肩を強く、けれど決して骨を折るほどではない絶妙な圧力で掴んだ。そのまま、僕の顔を波打つ教科書へと押し付けていく。  


 冷たい。紙の湿り気と、微かな埃の匂い。


「どうした、返事しろよ。……これ、乾くの待つのが楽しみだよな?」


 松崎の指が僕のうなじに食い込む。痛みはあるが、それは僕が叫び声を上げる手前でぴたりと止まっている。  

 この「絶妙な加減」こそが、僕の思考を蝕んでいた。松崎の暴力は、決して僕を再起不能にはしない。ただ、僕が「誰かの救い」を切実に求める程度の深さで、正確に刻まれるのだ。


 ――脳の深淵で、抽象的な記号が整列を始める。


 頸椎への圧力の正確な調整 / 呼吸を妨げない程度の拘束 / クラスメイトたちが『見て見ぬふり』を完遂できるための、適切な暴力の持続時間――。


「――そこまでにしなさい。松崎君」


 その声は、張り詰めた教室の空気を、鮮やかに切り裂いた。  

 扉の傍らに、隣のクラスのはずの西園寺瑠璃が立っている。彼女は僕を案じるように、けれど毅然とした態度で教室へと足を踏み入れた。


「西園寺……。またお出ましかよ。まだ何もしてねえよ」


 松崎は不機嫌そうに、けれど僕のうなじから手をゆっくりと離した。逃げるような引き際ではない。まるで、あらかじめ決められた「出演時間」を終えた役者が、満足げに舞台を降りるような、不可解な余裕。


「久遠君、大丈夫? ――ひどいわ、こんなこと」


 瑠璃が僕の元へ駆け寄り、濡れた教科書を悲しそうに見つめる。  

 彼女の介入は、松崎の嫌がらせが僕の精神を最も磨り減らした瞬間、まさに「最適」な一点で行われた。


「……うん。瑠璃さん、いつもありがとう」


 僕は彼女の差し出した手を取りながら、立ち上がる。  


 松崎たちは、瑠璃に睨まれながらも、どこかやり切ったような表情で自分の席へと戻っていった。その引き際の「美しさ」が、僕の胸の中に澱(おり)のような違和感を残す。


「放課後、ちゃんと図書室へ行きなさいね。東雲さんも、あなたのことを心配していたわ」


 瑠璃が僕の制服の襟を整えながら、慈しむように囁く。彼女の瞳には、恋する少女の可憐さと、僕という存在を全肯定する圧倒的な包容力が同居していた。


「……分かった。図書室へ行くよ」


 僕は彼女の救済に身を任せながら、自分の足元に広がる「舞台」の底知れなさに、意識の端で震えていた。  


 松崎の「壊さない暴力」と、瑠璃の「完璧な救済」。  


 二つの異なるベクトルの力が、僕という中心点で合致し、一つの「日常」という幾何学模様を描き出している。    


 おかしい。  


 この教室という密室は、僕を虐げる場所ではない。  


 僕を「彼女たちの元へ届けるため」に、精巧に設計されたベルトコンベアなのではないか。


 その不吉な仮説が、僕の脳裏を一瞬だけ、閃光のように過った。


 思考の泥濘(でいねい)に足を取られながら、僕は放課後の廊下を歩いていた。  脳裏に過ったあの不吉な仮説――この世界が僕を彼女たちの元へ運ぶための装置だという疑念――が、毒のように僕の胸を刺す。


(……最低だ、僕は)


 強く拳を握りしめ、僕はその思考を力任せに振り払った。  


 瑠璃がどれほど献身的に僕を助けてくれているか。今日も、彼女がいなければ僕はあの教室で尊厳を粉々にされていただろう。彼女の純粋な慈愛を「演出」などという冷徹な言葉で疑うのは、恩を仇で返す以上の冒涜だ。    


 僕の悪い癖だ。何でもない事象に不遜な「正解」を見出し、他人の善意さえも論理の檻に閉じ込めようとする。今の僕は、ただの無力な被害者でしかない。救済を疑う権利など、どこにもないはずなのに。


 僕は自分への嫌悪感を押し殺すようにして、図書室の扉を開いた。  

 そこには、いつも通りの「静寂」が待っていた。窓から差し込む夕日は書架の影を長く伸ばし、空気中を舞う埃さえも、特定の秩序に従って浮遊しているように見える。


「……待っていたわ、律君」


 カウンターの奥。影の中から、東雲ほむらが静かに声を上げた。  

 彼女は開いていた本を閉じ、音もなく僕の元へと歩み寄る。白檀の香りが、僕の鼻腔を優しく、けれど確実に包み込んだ。


「今日も、大変だったのね。西園寺さんから聞いたわ」


「……うん。でも、大丈夫だよ。瑠璃さんが助けてくれたから」


「そう。……よかった」


 ほむらは短く応じ、僕の腕にそっと自分の指を添えた。彼女の指先はいつも少し冷たく、それが火照った僕の思考を鎮めてくれる。    

 いつもなら、僕は彼女に促されるまま、窓際の「いつもの席」へ向かう。そこは死角になっていて、彼女に膝を借りて眠るための、僕たちの聖域だ。    

 だが、今の僕の中には、自分でも制御しきれない「淀み」があった。瑠璃への罪悪感と、拭いきれない違和感。それらが奇妙な化学反応を起こし、僕の足を、無意識のうちにルーチンから逸脱させた。


 僕は彼女の手を優しく解き、いつもの席ではなく、入り口に近い、遮るもののない一般閲覧用の長椅子に腰を下ろした。


「……律君?」


 ほむらが、微かに小首を傾げた。  

 驚愕でも怒りでもない。ただ、長年解き続けてきた数式の途中に、見慣れない記号が紛れ込んだのを見つけたような、ごく自然な戸惑い。


「今日は、ここで本を読もうかと思って。まだ、帰るまで少し時間があるから」


「そう……。今日はそういう気分なのね」


 ほむらは穏やかに微笑むと、僕の隣に、いつもの距離感で腰を下ろした。  

 激しく問い詰めることも、無理に立たせることもしない。ただ、彼女の肩が僕の腕にわずかに触れる。その控えめな接触に、僕は自分の「反抗」がひどく子供じみた、無意味なものに思えてくる。


「でも、ここの椅子は少し硬いわよ。……向こうの席なら、もっと楽に本が読めるのに。気が変わったら、いつでも言って」


 彼女はそう言って、再び自分の本を開いた。  


 その態度はどこまでも平穏で、日常の一部として僕の逸脱を許容しているように見える。    


 けれど。  


 彼女がページを捲(めく)る音の、異常なほど一定なリズム。  

 僕の横顔をなぞる、瞬きさえ忘れたような静かな視線の温度。    


 その「さりげなさ」こそが、かえって僕の胸の奥にある不協和音を、より深層へと沈めていく。彼女がこうして隣にいてくれるだけで、僕の疑念は「僕自身の精神の不調」という箱の中に、再び丁寧に梱包されていくようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る