第3話 飼育のための貯蓄、守られているという快感
外の風は冷たくて、砂っぽくて、文明の気配が一切しなかった。
どこまで行っても荒野……のはずなのに、ふと振り返ると。
「……ん?」
そこだけ異質だった。
荒野の真ん中に、不自然極まりない豪邸が建っている。
石造りの三階建ての屋敷。そこそこ手入れされた庭。
どこをどう見ても、文明から切り離されたこの場所には不釣り合いだ。
「……これ、どうやって建てたんだ?」
「転移魔法で資材を運んで、魔法で組み上げたのよ。百年くらいかけて、コツコツとね」
イリスお姉さんは、さらりととんでもない月日を口にした。
百年。
サキュバスという種族の寿命が長いのはなんとなく知っているが、準備期間だけで大半の人間の寿命を超えている。
「……なあ、お姉さん。失礼を承知で聞くけど、今いくつ……?」
「ん? なぁに?」
「い、いや、なんでもない」
振り返ったお姉さんの笑顔が、あまりにも深淵だったので、引き下がるしかない。
「数百年……かしらね?」と誤魔化されたが、その瞳の奥には、俺ごときが触れてはいけない歴史の闇が見えた気がした。
ひとまず話題を変えることに。
「と、ところで! こういう屋敷って、他にも作れるのか? 拠点増やすなら必要だろ?」
「無理よ」
「即答!?」
「お金がないもの」
なんとも世知辛い理由だった。魔王を目指す身としては不安になる台詞だ。
だが、お姉さんは悪戯っぽく唇に指を当てた。
「だって、もしミアが愛玩動物ルートを選んだ場合、ここから一歩も出さずに、百年くらい飼い殺すための生活費が必要でしょう? そっちに回しちゃったの♡」
「……え」
冗談には聞こえない。
俺は背筋に冷たいものを感じながら、屋敷の地下にある貯蔵庫へと案内された。
そこには、食料、衣服、生活用品、そして換金できそうな貴金属が、山のように積まれていた。
「これが、ミアを百年ほど可愛がるための備蓄よ」
……ドン引きだ。
この人、本当に俺を百年飼育するつもりで準備していたのだ。
魔王ルートを選んでいなかったら、俺はこの地下倉庫の物資が尽きるまで、太陽の下に出ることなく愛でられ消費されるだけの存在になっていたかもしれない。
「それに、見て」
お姉さんが指差した先には、壁に埋め込まれた青く光る石があり、そこから澄んだ水が絶えず流れ出ていた。
「これは?」
「魔道具よ。魔道具ってのはね、魔力を使って、本来なら手間がかかることを簡単にしてくれる便利な道具なの」
「……つまり、文明の利器?」
「そうね。水を引く、火を起こす、温度を保つ……そういうのを一つ一つ魔法で代行してくれる。ただし、とっても貴重だけど」
なるほど。
確かにこれがあれば生活はだいぶ楽だ。
百年くらいかけて屋敷を建てたということは、他にも便利で貴重な魔道具があるに違いない。
「地下水脈から水を汲み上げて、浄化して循環させてるの。水道も熱々のシャワーも完備よ♡」
「……文明レベル、高すぎだろ」
荒野のど真ん中で、水洗トイレと温水シャワーが使える屋敷。
快適すぎる。
この環境に慣らされたら、野宿して冒険するのはかなりの苦痛だ。
少しずつ外堀から埋められている気がする。
「さあ、設備確認は終わり。次は畑仕事よ」
地上に戻り、屋敷の庭に出る。
これからここを耕して、新鮮な野菜を作るらしい。自給自足は大事だ。肉体の鍛練にもなる。
やる気を出して鍬(くわ)を持とうとした俺に、お姉さんが一着の服を差し出した。
「はい、これを着て♡」
「……布面積、足りてなくないか?」
それは、服というより紐だった。
あるいは、踊り子が着るような際どい何か。
へそどころか、少し動けばいろいろ見えそうだ。
「サキュバスだもの。太陽の下で肌を晒して、健康的に誘惑するのも修行のうちよ?」
「農作業なめんな! 虫に刺されるわ!」
俺が全力で拒否すると、お姉さんは「ちぇっ」と舌を出した。
「冗談よ。……半分くらいは」
「残り半分が本気なのが怖いんだよ」
結局、渡されたのは丈夫そうな作業着だった。農家のおっちゃんが着ていたようなやつ。
安堵した俺はため息をつきながら着替える。
サイズはぴったりだ。俺の体の採寸は完璧に行われているらしい。
鍬を振るい、土を耕す。
今の体は非力な少女に見えるが、魔族としての補正があるのか、人間だった前世と同じかそれ以上に動ける。
これなら思ったよりも楽にいけるかもしれない。
そう思って油断した、その時だった。
「グルルル……!」
近くの岩陰から、低い唸り声が響いた。
振り返ると、そこには体長二メートルはあるオオカミのような魔物がいた。
目は赤く血走り、口からは涎を垂らしている。
殺意の塊だ。
「くっ……!」
俺は咄嗟に鍬を構えた。
前世は平和な場所で暮らしてた一般人だ。喧嘩の経験すらない。
だが、やるしかない。
「こ、来い……!」
魔物が跳躍した。
速い。
俺の目は動きを捉えていたが、転生したばかりだからか、体がついていかなかった。
「ぐっ!?」
衝撃のあと押し倒され、背中が地面に叩きつけられる。
肺から空気が強制的に吐き出された。
視界いっぱいに、魔物の牙と爪が迫る。
(──死ぬ)
鍬の柄でなんとか牙を食い止めているが、腕の力が持たない。
圧倒的な質量差。
細い腕がミシミシと悲鳴を上げる。
魔物の爪が振り上げられた。
それが振り下ろされれば、俺の顔など潰れたトマトのようになるだろう。
「……ぅ、あ……!」
恐怖で声が出ない。
お姉さん、助けて。
無意識にそう願った瞬間。
──パシュン。
気の抜けた音がした。
そのあと、俺の上にのしかかっていた魔物の上半身が弾け飛んだ。
血飛沫が舞う──はずだったが、それすらも蒸発して消えた。
「え……?」
重みが消え、俺は呆然と空を見上げた。
そこには、指先から硝煙のような魔力の残滓を漂わせたお姉さんが立っていた。
冷酷なまでに無表情で。
一瞬、別人かと思うほど。
けれど俺と目が合った瞬間、とろけるような甘い笑顔に変わる。
「怖かったわよねぇ。ごめんね、間に合ってよかった」
お姉さんはへたり込む俺を抱き起こし、その豊かな胸の中に顔を埋めさせた。
「さあ、深呼吸して?」
「え、あ、うん……」
言われるがまま、俺は息を吸い込んだ。
鼻腔を満たすのは、血の匂いなんかじゃない。
お姉さんの甘い、どこか脳が痺れるような芳香。
「すぅ……はぁ……」
不思議だった。
さっきまで死の恐怖で震えていた心臓が、急速に落ち着いていく。
怖いのに、安心する。
この腕の中にいれば死なないという絶対的な安全。
守られているという快感。
このまま密着していることが当たり前な感覚。
「……っ!?」
俺はハッとして、体を離そうとした。
これはまずい。
薬物を打たれたような、異常な安らぎだ。
生物としての本能が、この人に飼われていれば安全だと誤学習しようとしている。
「あら、もういいの?」
「だ、大丈夫だ。助かった……」
震える足で立ち上がる。
お姉さんは、そんな俺を愛おしそうに見つめて言った。
「ミアはまだ生まれたてだもの。弱くて当たり前よ」
そして、ねっとりと視線を絡ませる。
「強くなりたいなら、お姉ちゃんが教えてあげる。……じっくり、ねっとりと、体に覚え込ませてあげるわ♡」
「……お手柔らかに頼むよ」
引きつった笑顔で返すのが精一杯だった。
俺の脳裏に、とある一つの疑念が浮かんでいたからだ。
あの一撃。
魔力の塊をぶつけただけと思わしき単純な魔法。詠唱も予備動作もなかった。
だったら──もっと早く助けられたんじゃないか?
俺が押し倒され、恐怖に顔を歪め、助けてと願うその瞬間まで、あえて待っていたんじゃないか?
「ふふ、汗と土でベタベタしてる」
お姉さんは俺の疑念など気にも留めず、楽しそうに手を繋いだ。
「ある程度進んでるし、今日の作業は終わり。一緒にお風呂に入りましょう?」
「……え」
「背中、流してあげるわね♡」
拒否権はない。
あの圧倒的な暴力を見せつけられたあとで、一人で入るなんて言えるはずがなかった。
俺はただ、引きつった笑顔で頷くしかなかった。
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