第7話 南境交易都市《ラグナ》
街に近づくにつれて、空気が変わっていくのを感じる。
潮の匂いがする。
けれど、港町特有の荒さはない。
石畳はよく整えられ、建物の壁には南の国特有の色彩が残っている。
白い漆喰に、淡い青や赤。
古い装飾と新しい看板が、違和感なく並んでいた。
――ラグナ。
ノクスヴァイ王国の南端に近い、小さな交易都市。
南方諸邦ルミナスとの文化が、ゆっくりと混ざり合った場所だ。
人々の歩調は、城下町よりも少し緩やかだった。
急がない。
声が大きい。
笑う頻度が多い。
街そのものが、呼吸しているみたいだと思った。
私は外套の前を留め、周囲を見渡す。
視線の先で、香辛料を扱う露店があり、魚を焼く匂いが立ち上っていた。
遠くから、弦楽器の音が微かに聞こえる。
――ああ、南に来たんだ。
そう実感する。
ここに来たのは、視察のためだ。
名目は単純。
実態は、そうでもない。
凶作の影響は、南にも及んでいる。
特に交易量の調整で、いくつかの街が行き詰まりを見せていた。
ラグナも、その一つだった。
南の国との交渉が、うまく噛み合っていない。
条件は悪くない。
だが、互いに一歩を踏み出せずにいる。
だから、呼ばれた。
私は、王国宰務局の外交官補佐。
ここでは肩書きよりも、「話を聞ける人間」であることが求められている。
滞在は、およそ一か月。
前半の二週間が仕事。
残りは予備日――何も起きなければ、自由に使える時間だ。
そんな説明を受けながら、私は役人たちと歩いた。
会議は、拍子抜けするほど穏やかだった。
声を荒げる者はいない。
条件を突きつける者もいない。
ただ、皆が困っている。
それだけが、はっきりしている。
私は一歩引いた立場で、話を聞いた。
数字を整理し、言葉を整え、相手の不安を言語化する。
解決策は、特別なものじゃない。
小さな譲歩と、小さな保証。
その順番を、間違えないこと。
会議が終わる頃には、場の空気が少しだけ軽くなっていた。
「助かりました」
そう言われても、私はただ頷くだけだった。
ここでは、目立つ必要はない。
うまく回れば、それでいい。
午後、街の案内を受ける。
港へ続く道。
市場。
古い礼拝堂を改装した倉庫。
説明を聞きながらも、私は視線を走らせていた。
南の文化は、感情が外に出る。
踊り、歌い、笑う。
ノクスヴァイとは、正反対だ。
でも、不思議と嫌じゃない。
むしろ、落ち着く。
夕方、案内の最後に酒場へ通された。
天井は高く、梁がむき出しになっている。
壁には南の布が飾られ、灯りは柔らかい橙色。
香辛料の効いた酒の匂い。
低く流れる音楽。
客たちは皆、距離が近い。
肩が触れ合っても、誰も気にしない。
私は、自然と息を吐いていた。
――ここ、好きかも。
酒場を出ると、夜風が心地よかった。
潮の匂いに、昼間とは違う甘さが混じる。
石畳を歩きながら、ふと思う。
予備日が、あったはずだ。
もし、時間が許せば。
――また、来よう。
ひとりで。
誰の案内もなく。
そんなことを考えながら、宿へ向かった。
今はただ、ラグナの夜に身を委ねるだけでよかった。
*
それからの日々は、慌ただしくも規則正しく過ぎていった。
交易量の調整。
街道使用料の再交渉。
南の文化圏特有の、曖昧な言葉の裏にある本音を拾い上げる作業。
私は前に出すぎず、しかし引きすぎない。
誰かの功績を奪うことも、無理にまとめ上げることもしない。
必要な時に、必要な一言だけを伝える。
二週間後。
最後の調印が終わり、椅子から立ち上がる。
肩から、何かがすっと抜け落ちた。
「……終わった」
声に出したのは、それだけだった。
宿へ戻る道すがら、街の空気が違って感じられた。
同じ通り、同じ石畳。
なのに、音が軽い。
仕事が終わった。
それだけで、世界はこんなにも違って見える。
翌日からは、予備日だ。
名目上は待機。
実際は、自由時間に近い。
二週間の仕事を終えた夜だった。
肩に乗っていたものが、ふっと軽くなる。
街の灯りが、いつもより柔らかく見えた。
――明日は、少しだけ羽目を外してもいい。
そう自分に許可を出して、私は深い眠りに落ちた。
翌日。
疲れと開放感からか、目を覚ましたのは日も沈む時間帯だった。
ベッドから起き上がり歯を磨いていると、自分が酷く空腹であることに気がついた。
外套を羽織り、街へ繰り出してみる。
足は自然と、あの酒場へ向かっていた。
中は相変わらず賑やかだった。
南の旋律に、北の拍子が混ざる。
誰かが笑い、誰かが杯を鳴らす。
私は端の席に腰を下ろし、店主の勧めるカクテルを注文した。
色の淡い酒だ。
甘くて、少し酸味がある。
喉を通るたび、身体の奥がゆるんでいく。
音楽が変わったのは、その時だった。
軽やかな弦の音。
それに合わせて、自然と立ち上がる人影が増える。
見ているだけで、足が勝手に動きそうになる。
「踊らないんですか?」
穏やかな声だった。
顔を上げると、人当たりの良い笑顔を浮かべた男が立っていた。
背は高いが、威圧感はない。
整った服装だが、どこか旅人の空気がある。
「君みたいな可愛い人が、座ってるだけなんて勿体ない」
迷いのない、まっすぐな言葉。
一瞬、言葉に詰まった。
「……突然すぎない?」
「事実なので」
困ったように笑うその表情が、ずるい。
少しだけ躊躇してから、私は立ち上がった。
「一曲だけよ」
「十分です」
手を取られる。
指が、驚くほど綺麗だった。
踊りは、思っていたよりずっと楽しかった。
決まった型はない。
ただ、音に身を委ねるだけ。
最初はぎこちなかった足取りも、
気づけば自然と合っていた。
曲が終わる頃には、息が少し弾んでいた。
音楽が一段落し、酒場に少しだけ静けさが戻った頃。
二人はカウンター近くの席に並んで座っていた。
「上手でした」
「……慣れてないだけよ」
リラは笑って答える。
頬にまだ熱が残っているのを、自分でも感じていた。
「慣れてなくて、あれなら十分です」
また、さらっと言う。
「名前、聞いてもいいですか」
「リラよ」
「シグです。シグ・レイグラード」
響きが、ノクスヴァイとは違う。
「北の方?」
「ええ。少し遠い国から」
「ここには、旅で?」
「仕事も、半分」
曖昧に笑う。
短い沈黙。
その間にも、二人の距離は自然と近づいていた。
話は、自然と弾んだ。
国の違い。
考え方。
価値観。
不思議と、言葉に詰まらない。
ふと、彼が思考を巡らす時に、指輪をなぞる癖に気づいた。
「……シグ」
名前を呼ぶと、彼が顔を上げた。
「貴方の指、綺麗だから目に入る」
一瞬だけ、驚いた顔。
すぐに、柔らかく笑った。
「光栄です、リラ。職業柄、手は大事にしていますし……それに、そう言ってもらえるのは、素直に嬉しい」
飾らない言葉だった。
だからこそ、空気が揺れた。
シグは視線を外し、少し考えてから言う。
「……ところで」
「うん?」
「明日の予定は?」
リラは一瞬だけ考え、首を横に振った。
「特には。
予備日だから、自由よ。どうして?」
その答えを聞いて、シグは小さく頷いた。
「それなら――
よろしければ、明日もご一緒しませんか。
この街で、リラに紹介したい場所があるんです」
押しつけがましさはない。
断られても受け止める、そんな余白を残した誘い方だった。
「……面白い場所?」
「ええ。きっと、リラは気に入ってくれると思います」
少しだけ自信のある声。
リラは、迷わなかった。
「いいわ。行きましょう」
*
翌日、昼過ぎ。
約束の場所で合流すると、シグは昨日と変わらない穏やかな表情で手を振った。
簡単な昼食を取ることにした。
屋台の軽い料理だが、香辛料の使い方が南らしい。
「こういう味、嫌いじゃないでしょう」
「ええ。仕事中は避けるけど、今日は別」
気取らない食事。
歩きながら、他愛ない話。
街の喧騒が少しずつ遠ざかり、道が細くなっていく。
「ここです」
シグが立ち止まったのは、街の奥まった一角だった。
目立たない雑貨屋。
看板も控えめで、通り過ぎてしまいそうな店。
中に入った瞬間、空気が違う。
――静か。
整然と並ぶ品々。
どれも、派手さはない。
静かで、澄んでいて、妙に落ち着く。
視線が、自然と奥の棚へ引き寄せられる。
そこに並ぶ、小さな品々。
派手さはない。
だが、作りが異様に良い。
中でも——。
リラの目は、ひとつの指輪から離れなくなっていた。
細く、控えめな銀。
装飾はほとんどない。
なのに。
胸の奥が、ざわつく。
「……これ」
「分かりますか」
シグが、穏やかに言う。
「北の国の、魔導具。
その中でも、こういった物は〈思記具〉と呼ぶんです」
「魔法を使えない人間が、
自分の記憶を正確に留めるための道具です」
記憶を、留める。
曖昧になりがちな記憶を、
そのまま、確かに。
――欲しい。
理屈より先に、そう思っていた。
「高いですよ」
「……分かってる」
値札を見て、思わず息を呑んだ。
……高い。
宝石がついているわけじゃない。
装飾もない。
ただの銀の指輪にしか見えない。
それなのに、この値段。
南の街で、家賃なら何年分。
仕入れなら、店が一つ回る額だ。
――普及させる気が、最初からない。
そう直感した。
もしこれが、誰でも手にできるものだったら。
記憶を正確に留められる道具が、
魔法を使えない人間にも行き渡ったら。
それは、武器になる。
争いの場でも、交渉の席でも。
言葉の重みも、責任の所在も――変わる。
北の国は、それを分かっている。
だからこそ、安くしない。
簡単に持たせない。
欲しいと願い、価値を理解した者だけが、手にする。
……そういう類の道具だ。
それでも。
それでもなお、視線が離れなかった。
「それでも?」
「…うん」
私は、少しの時間迷ってから頷いた。
「これは、僕が」
「駄目よ」
即座に否定する。
「高いし、理由がないわ」
「理由ならあります」
静かで、はっきりした声。
「君に会えたことに、感謝している」
言い切る。
譲らない。
結局、私は受け取った。
――ずるい。
別れ際。
「明日、この街を発ちます」
「……そう」
「また会えますよ」
疑いのない声音。
私は、小さく笑った。
「……気が向いたら」
彼は、それで十分だと言うように頷いた。
*
それは、彼女が南に滞在していた一か月のあいだの出来事だった。
城下町から少し離れた場所にある、古い応接室。
窓は閉め切られ、昼だというのに灯りが落とされていた。
「……それで?」
低い声が、室内に落ちる。
向かいに座る男は、落ち着かない様子で椅子に浅く腰掛けていた。
足首には、まだ包帯が巻かれている。
「そこに、国の人間がいたそうですね」
男は急かさない。
ただ、相手の反応を待つ。
「……助けてもらった」
ようやく、そう答えが返る。
「感謝している」
「それは結構」
男は頷いた。
「しかし、少し妙な話だと思いませんか?」
声は低い。
だが、言葉は丁寧だ。
「事故の前に、そこにいたこと」
「事故の最中に、動いたこと」
「結果として、命は助かったこと」
ひとつひとつを、並べるだけ。
「疑う必要はありません。
ただ――」
男は、一歩だけ距離を詰めた。
「事実を、事実として残すことは大切です」
室内の空気が、わずかに張りつめる。
上質な服。
整えられた身なり。
そこから発せられる、柔らかな口調。
だが、その視線は鋭い。
「運が悪かった。
それだけだ」
「本当に?」
男は、責めるでもなく、疑うでもなく問い返した。
指先で机を軽く叩き、思案する素振りを見せて、言葉を紡ぐ。
「もし、あれが偶然でなかったとしたら」
「もし、誰かの判断で起きたことだったとしたら」
「それは、個人の問題ではない。
国の問題です」
「それは……」
「分からない」
男の言葉を遮らず、しかし導くように続ける。
「分からない、というのは――不安になりますよね」
柔らかい声。
理解を示す言葉。
「それを確かめるのは、あなたじゃない」
「正しい場所で、正しい手順で、判断されるべきです」
沈黙。
しばらくして、男は立ち上がった。
「考えておいて頂けますか」
そう言って、書類を一枚、静かに机の上へ置いた。
「あなたが、感じた違和感を」
「そのまま、伝えるだけでいい」
男は、書類を見つめた。
震える手。
迷い。
感謝している。
助けられた。
それでも――。
あの瞬間の違和感が、消えない。
「……少し、考える」
絞り出すような声。
男は、穏やかに微笑んだ。
「もちろんです」
立ち上がり、扉へ向かう。
「急ぐ話ではありません」
「ですが……噂というものは、放っておくと、勝手に形を持つ」
扉の前で、振り返る。
「真実かどうかは別として、話は歩き出します。
貴方が悪いと言っているわけではありません。
ただ――」
一瞬、口元が歪んだ。
「正しいかどうかは、別の話だ」
扉が閉まる。
応接室に残された男は、書類を前に、動けずにいた。
助けられた。
感謝している。
――それでも。
暗がりの中で、男は外套を整えた。
その横顔に、灯りが差す。
鼻を鳴らす、癖。
「フン……」
男の名は、
エリオ・カーディス。
彼の視線は、すでに“次”を向いていた。
#第一部
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