ゼノチェイン

@TTaasss__

第1話 傷と血


死ぬということ。

死ねるということ。


生物である限り、皆必ず持っているという権利。

だが、この権利をこの世で使えるのは、一人一回までと決まっている。


だが……。

この世に一人だけ、いやたった一体だけ、この権利を剥奪された者がいるという。


その者は、ある人が言うには、雪のような美しい吸血鬼。

ある人が言うには、氷のような心を持つ怪物。

はたまた、人間を喰らう人間。


人は、その者を「化け物」と呼ぶのだろう。


そして、俺が彼女と出会ってしまったこと。

それこそが、俺にとっての終わらない地獄の日々の始まりだったのかもしれない。


          *


ここは大阪の街中。

今日は2週間ぶりの晴れだった。


ここ大阪は、梅雨というには早すぎる5月だが、この2週間もの間、街を灰色に塗り潰すように雨は降り続けた。

アスファルトから立ち昇る湿った匂いと、急激な気温上昇による不快な熱気。

久しぶりの太陽を仰ぎ見て、道行く人々は「やっと晴れた」と安堵の息を漏らす。


だが、俺にとっては、雨だろうが晴れだろうが、大した違いはなかった。


家族も誰もいない、広すぎる家。

俺はベッドに寝ころんだまま、自室の時計を見た。


時刻は、午後2時20分。


「……はあ」


ため息が漏れる。

今から家を出ても、学校に着く頃には6限目の授業も半分が終わっているだろう。

内申点が、受験が、教師の目が。

普通ならそんな強迫観念に突き動かされ、必死にペダルを漕ぐはずだ。


でも、俺は動かない。

このベッドの上でただゆっくり天井の木目を数える。だいたいもう1日が終わるんだから、今更行く必要もないだろう。


世界は、「正義」という名の便利な定規で測られている。

ふとそんな考えが頭に浮かんだ。


人によって長さも目盛りも変わる、あやふやな価値観。

結局のところ、この世界のルールを決めているのは、その時々の「多数派」が振りかざす、勝手気ままな正義の基準でしかない。


人間は、自分たちの都合で虫を踏み潰し、動物を解体して喰らう。

それを「生きるため」という免罪符で、当たり前のように正当化する。

そのくせ、いざ人間が殺される側になると、途端に彼らは被害者の仮面を被り、声高に「悪」を糾弾するのだ。


正義なんてものは、その人間に都合のいいようにしか働かない。

正しいとか正しくないとか、そんなことは誰も決めることができない。

この世で真に正しい人間なんて、たった一人を除いて見たことはない。


矛盾している。

馬鹿馬鹿しい。


(結局、同じじゃないか)


「人間を食べるのが正義」という生物がいたとして、誰がそれを悪だと決めつけられる?

結局人間は、地球上で上位の生物だから、こんな傲慢な考えがまかり通ってしまう。


だが……そんなことを考える自分自身にも、反吐が出る。


「……行くか」


それでも、急ぐつもりはない。

ただ、行かなければ「面倒なことになる」という、消去法のような理由で、俺はカバンを掴んだ。


          *


ガララ……ッ。


教室のドアを開ける音が、静寂を切り裂いた。

午後の気怠い日差しが差し込む教室。

黒板に向かっていた数学教師が、チョークを止めて振り返る。


クラスメイト30人分の視線は、みな机のノートに向けられたまま動かない。

それはそうだ。この学校は「私立 北楽ほくらく学園」。

中高一貫の進学校であり、ほぼ多数が内部進学組。

みな、木場凪人などという落ちこぼれには興味などないのだ。


教師は、呆れ返ったように眼鏡の位置を直した。


「木場。……また遅刻か」


俺、木場 凪人きば なぎとは、教師の視線をのらりくらりと受け流し、自分の席に座る。

特段、制服を改造したりピアスを開けたり補導をされたりしているわけではない。ただ、学校へ行かず勉強ができない典型的な落ちこぼれ。勉強をやらないじゃない、できないだ。


「信じられない……」


隣の席の少女、橘 静香たちばな しずかが、こめかみを押さえながら俺に向かって小さな声でつぶやいた。


彼女は俺の小学生からの幼馴染である。俺とは対照的に、部活ではエースでキャプテン、勉強でも学年一位はお手のもの。

さらに風貌も、整ったボブヘアにきちんと着こなしている制服、真っ白な靴下と靴。いかにも完璧な優等生だ。


「何限目から来れば気が済むのよ。もういっそ学校に泊まったら?」

「おはよ、静香。ちゃんと6限目には間に合っただろ。褒めろよ」

「どの口が“ちゃんと”って言うのよ……。ほんと、どうしようもないわね、凪人くんは」


彼女だけが、俺を叱る。

グラウンドではボールを追う連中が叫んでいる。

隣では静香がカリカリとノートを取っている。


明日もこんな感じかな。


          *


そうして、やっときた放課後。

俺たちは当然のように二人で下校していた。


「ねえ凪人くん、これからの進路はどうするの?  私は、内部進学しようと思ってるんだけど……」

「うーん、進路ねぇ」


俺は気の抜けた返事を返す。


「別に焦る必要ないだろ。今を生きてるんだから、何とかなるって」

「そんな適当にって……ならないよ!  みんな真面目に生きてるんだから、凪人くんだけ置いて行かれるよ」


静香の真剣な目が、俺を射抜く。

その「必死」さが、今の俺には眩しく、そして少しだけ鬱陶しかった。


「うーん、俺には無理だよ。静香みたいに真っ直ぐ生きることなんて」

「そんなことないよ。私だって……」

「あ、そうだ。それより買い物行こうぜ、ショッピングモール」

「はあ!?  なんで今そんな話に――」

「いいからいいから。なんか欲しいモンあったんだろ?  付き合うよ」


強引に話を変え、俺は歩き出す。

静香は「ちょっと!」と抗議の声を上げながらも、結局は呆れたように後を追ってきた。

彼女がこうして構ってくれることが、俺にとって日常と非日常を繋ぐ、唯一の細い糸だったのかもしれない。


ショッピングモールへ向かう途中、俺の家の前で静香は足を止めた。

彼女はもう慣れたものだった。


門のすぐ脇。

敷地とも道ともつかない曖昧な場所に、ぽつんと一つだけ、小さな石碑が立っている。


俺は無言で石碑の前にしゃがみ込み、静かに手を合わせた。


(今日も、生きてるよ)


誰にともなく、心の中で報告する。

いや、ただの生存報告だ。


(……まあ、生きてるって言っても、ただ息してるだけだが)


意味なんて、ありはしない。

どうせ最後は、みんなここに行き着くのだ。

早いか、遅いか、それだけの違い。

何をそんなに必死になる必要がある?  進路?  将来?

死んで灰になれば、偏差値も学歴も関係ない。


数秒の黙祷。

立ち上がった俺の表情は、いつもと何も変わらない、虚無を貼り付けた顔だったはずだ。


「よし、行くか」

「……うん」


静香は、それ以上何も聞かなかった。

二人は並んで、モールへと向かう坂道を下り始めた。


そして俺たちは暫くショッピングを楽しんだ。

俺はクレーンゲームに挑戦したが、一つも取れない。

その後、俺たちはフードコートで食事をとることにした。


「静香、買い物長すぎだろ。俺が誘ったのにほとんど静香が買ってんじゃないかよ」

「そんなの当たり前でしょ。だって凪人くんから誘ってきたんだから」


静香はおとなしめな性格だが、案外こういうところは強引だ。


「誘ったって言ったけど、俺だって買い物したかったんだぞ」

「だから、買ってたじゃん」

「まあ、買ったけどさ。そのー……こんな時間まで」

「ほんとだ。もう18時。もう帰らないと補導されちゃうよ」


そういうことでこんな時間と言ったわけじゃない。

彼女の真面目さが出る。まあ、中学生があんなに買い物袋を持つこと自体がそもそもだと思うが。


まあ、まだ春だ。この時間でも暗くなっている。


「ん、じゃあ帰るか」

「そうだね。ご馳走様でした」


そして外へ出る。夜はまだ肌寒い。小学生の頃は半袖もいたけど中3にもなればみんなまだ長袖だ。


「あ!」


出口に差し掛かった矢先、隣でいきなり買い物袋を漁る静香。


「どうした?」

「スマホ忘れた。……多分フードコートだ」

「んじゃあ取ってこいよ。ここで待っといてやるよ」


モテる男はここで取りに行ってあげるんだろうな。


「分かった!  凪人くんちょっと待っておいてね」


俺は出口の外、夕暮れの冷たい風が吹き抜ける広場で壁に寄りかかり、時間を潰すことにした。

空が、鮮やかなオレンジから、インクを垂らしたような紫へと、ゆっくりと色を変えていく。


また明日が来る。

また、意味のない一日が始まる。

暇を持て余し、足元のタイルの模様をぼんやりと眺めていた。


そうして2分ほど経っただろうか。

そろそろフードコートに着いた頃だろう。あの買い物袋は流石に置いて行かせたが、あの真面目がモール内を走るわけがない。


ドガァァァァァァン――!!


遠くで激しい轟音が響く。

初めて聞くような大きな音。工事現場で機材が倒壊したみたいな音をもっと大きく、不快にしたみたいな音。


俺は普段、こういう時は気にならない。

だが今回は、何かに誘われているような、そんな嫌な感じがする。


ショッピングモール内は先ほどまでの喧騒が嘘のように、人々が悲鳴を上げて逃げ惑っている。

買い物かごやベビーカーが、持ち主を失って無造作に転がっている。


(どうしてだ。何が起きた?)


「静香は……?」


……!!! 


何か、匂う。

鉄を多く含んだ、生臭い匂い。俺はこの匂いをどこかで嗅いだことがある。


(この匂いは……血の匂い?)


匂いが濃い方向へ、歩いていく。

血の匂いはフードコートの方向からだ。俺は全速力で走った。


いやな予感しかしない。走れ。

静香は無事なのか。最悪な光景が頭の中に流れる。


そしてフードコートに続く踊り場に着いた。

限界だ。運動もしてない俺が、走りすぎだ。


だが、息を切らして顔を上げた俺の目に飛び込んできたのは、地獄だった。


屋根には大きな穴。

粉塵の舞う中、静香が倒れている。

ピクリとも動かない。その周囲には、赤い水たまりが広がっていた。


そして、その先に。


美しい女の人が立っている。

綺麗だ。


雪のように白く、月光を編み込んだかのように輝く、美しい銀色の髪。

肌は透き通るような白磁。

紅い宝石のようにクッキリと光る瞳。

身長は高く、そこらの大人の女性を圧倒する。

これをモデル体型というんだろう。


穴から射し込む月光が、彼女を照らす。


そして、全身にこびりついた血液。

美しいドレスは、赤く染められている。

おそらく、あの女性も怪我をしたんだろう。


「限界じゃ。小娘一人しか仕留められんのか」


女が呟く。

その声は鈴を転がすように美しかったが、そこに含まれる感情は、純粋な「食欲」のみだった。


女が、倒れている静香の髪を掴み、乱暴に持ち上げた。


「まあよい、小娘一人でも気休め程度にはなるじゃろう。波導を回復せねば」


女が、静香を食べようとしていた。


「やめろォォォォォォォ――!」


柄にもない。考えるよりもはやく体が動く。

非力な拳が、女性の体にぶつかる。


……ッ!?


気づけば、俺は吹き飛ばされていた。


(痛っ……!  何が起きた?  さっき俺は殴ったよな?)

(俺は殴られたのか?  いつ?)


殴ったはずの拳が痺れている。

腹部に、焼けるような痛み。

目で追うことすらできなかった。

圧倒的な力の差。


理解した瞬間、全身の血が凍るような、本能的な恐怖が俺を襲った。

これは、駄目だ。

勝てるとか、勝てないとか、そういう次元の相手じゃない。


「わしの食事の邪魔をするでないぞ。人間」


そう言い、女は顔を上げる。

その瞳には、何の感情も宿っていなかった。


ただ、全てを凍てつかせるような、絶対零度の冷気だけがそこにあった。

まるで、美しい氷の彫刻が、ただそこにあるかのように。


「……お前、は……一体、何者だ」


震える声で、絞り出すのが精一杯だ。

逃げ出したい、あいつの目は人間の目ではない。


美女は、心底つまらなそうに、血糊のついた銀髪をかき上げた。


「うぬには関係のない存在じゃ。今日見たことは忘れ、明日を生きよ」


その冷たく凍った瞳が、俺を玩具のように一瞥する。


「そうすれば、うぬは死ぬことも無い。儂は、この娘だけで十分じゃ」

「……」

「それともなんじゃ?  うぬも喰われたいのか?  このわしに」


(助かる……?  俺は、死ななくて、いい……?)


恐怖に支配された頭で、本能が叫ぶ。

「生き残れる」。

だが、その思考は、コンマ数秒後、強烈な自己嫌悪に塗りつぶされた。


視界の端に、動かない静香が映る。


(静香は……静香は、俺と違って、必死に生きてた。進路のことだって、真剣に……)


なのに、俺は。

自分が助かると聞いて、安堵した。


(俺は、クズだ)


「さあ、早う立ち去るんじゃ。次は無いぞ」


美女が、無慈悲に宣告する。


(そうだ、逃げるんだ)


足が震える。


(駄目だ、だから静香が、静香が死ぬんだよ)

(でも嫌だ、嫌だ、嫌だ、死にたくない、まだ生きたい、あんなこと言ってたけど痛いのは嫌だよ!)


思考がぐちゃぐちゃになる。

生きたい。

死にたくない。

でも、静香が。

俺の、唯一の……。

脳裏に、静香の笑顔が浮かんだ。 『凪人くんは、どうしようもないわね』と、呆れながらも世話を焼く、あの顔が。


俺は無我夢中で走った。

恐怖から逃げるように。

――だが、その足が向かった先は、出口ではなかった。


銀髪の美女が、その凍った瞳を、わずかに見開いた。

驚愕ではなく、予測外の虫の動きを見たかのような、微かな戸惑い。


俺は、美女の真正面で、勢いよく膝をつき、タイルの床に額を叩きつけていた。


土下座だった。


「頼む……!」


瞳からは、恐怖と悔しさで涙が溢れていた。


「この俺の命一つで許してくれ……!」


叫ぶ。


「骨の髄まで、全部食っていいから……!  だから、こいつだけは、静香だけは見逃してくれ……!」


空っぽだった。

ずっと、どうでもよかった。

だが、今、この瞬間、俺は初めて心の底から「必死」になっていた。

死ぬために。静香のために死ぬために。


「俺の持ってるもの全部やるから……!  これで、お前を助けてやるから……!」


静寂が落ちる。

美女は、目の前の光景が信じられないとでもいうように、俺を見つめていた。


やがて。


「フハハハ……ハハハハハ!」


甲高い笑い声が、静まり返ったモール全体に響き渡った。


「阿呆か、うぬは。自ら“導魔どうま”に“波導はどう”を差し出す人間など、初めて見たわ」

「……!」

「身の程を弁えろ、脆弱なる人間よ」


導魔と名乗った美女は、しかし、心底面白そうに口角を吊り上げた。

その凍った瞳に、初めて「興味」という色が浮かぶ。


「……じゃが、面白い。実に面白い。」


導魔が、俺の顎に手をかける。

ぞっとするような冷気が、肌を伝った。


「よい。その命、喰ってやろう。……後悔は、ないな?」


「ああ……勿論だ」


俺の顔に、ふっと笑みが浮かんだ。


それは、絶望でも、自己犠牲でもない。

ただ、空っぽだった自分が、生まれて初めて「意味」を見つけたことへの、安堵の笑みだった。


「――感謝するよ。」

銀色の髪が、凪人の視界を覆い尽くす。

意識が、冷たく、深い闇に引きずり込まれていく。

それが俺の人生最後の記憶となった。

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