スローライフを夢見て「お飾り女騎士団」の団長に転職しました。仕事は剣を振ることではなく、ポンコツな彼女たちの「お世話」をすることです

速水静香

第一話:初めてのお食事

 これほど空が青いと気づいたのは、いつぶりだろうか。

 王都の大通りを歩きながら、俺は肺いっぱいに空気を吸い込んだ。排気ガスなど存在しない異世界の空気は澄んでいて、少しだけ土と草の匂いがする。視界の端で、鳥が二羽、追いかけっこをするように飛んでいった。


 懐には、辞令の羊皮紙が一枚。

 それは俺にとって、長きにわたる地獄からの解放を告げる通行手形だった。


 俺は、この世界のとある下級貴族の三男として生を受けた。

 だが、頭の中には前世の記憶がある。日本という国で、会社という組織に属し、朝から晩まで働き詰めて過労で倒れた、しがないサラリーマンの記憶だ。

 だからこそ、この世界で生まれ変わったとき、俺は誓ったのだ。

 もう、あんな働き方はしない。

 出世も名誉もいらない。適度に働き、適度に休み、美味しいものを食べて、柔らかいベッドで眠る。そんな『スローライフ』こそが至高だと。


 しかし、現実は非情だった。

 実家は『筋肉こそ正義』を地で行く武闘派の騎士爵家。剣の才能が平凡で、魔力も並だった俺は、実家での居場所がなく、王都の騎士団へ経理として就職することになった。

 そこで待っていたのは、前世顔負けの過酷な労働環境だった。

 配属された王立グリフォン騎士団は、王国最強の精鋭部隊。だが、その実態は脳みそまで筋肉でできた戦闘狂たちの集まりだった。彼らが破壊した壁の修理費を計算し、遠征の食料調達に奔走し、貴族院への報告書を代筆する。

 もちろん、ただの経理である俺には剣を振るう暇などない。ただ、俺が振るっていたのはペンと、彼らの不始末を隠すための帳簿だけだ。


 朝日が昇る前に出勤し、日付が変わってから帰宅する日々。

 俺はもう、疲れたんだ。


「やっと、手に入れたぞ……俺の安住の地を」


 俺は立ち止まり、目の前にそびえる建物を見上げた。

 王都の北区画、貴族街の外れにひっそりと建つ石造りの洋館。

 優美な装飾が施された門には、バラの紋章が刻まれている。


 ――ヴァルキリー騎士団。


 通称、『お飾り騎士団』。

 所属しているのは、高位貴族の令嬢たち。率直にいえば、家柄が良すぎて最前線になど送れない『箱入り娘』たちだ。

 彼女たちは、王国の華。

 式典で煌びやかな鎧を着て微笑むのが仕事であり、泥にまみれて戦うことなど期待されていない。

 王立グリフォン騎士団の連中は『税金の無駄遣い』『おままごとの延長』と嘲笑していたが、俺にとっては理想郷だ。

 戦わなくていい。残業もない。予算は潤沢にあり、その使い道がなくて余っているという噂だ。


「ここなら、定時で帰れる」


 俺は口元が緩むのを抑えきれなかった。

 これからは、優雅にお茶でも飲みながら、書類にハンコを押すだけの毎日が待っている。窓際族バンザイ。給料泥棒と言われようが構わない。俺は平穏が欲しいのだ。

 そう確信し、意気揚々と門に手をかける。


 ガチャン。


 硬質な音がして、門はびくともしなかった。

 鍵がかかっている。

 まあ、防犯意識が高いのはいいことだ。俺は門柱に取り付けられた呼び鈴の紐を引いた。


 カラン、カラン、カラン。


 乾いた音が館の方へ吸い込まれていく。

 しばらく待つと、玄関扉が開き、一人の騎士が姿を現した。

 太陽の光を浴びて輝く、白銀の甲冑。腰まで届く長い金髪。その顔立ちは、美術館に飾られた絵画のように整っている。

 資料で見た顔だ。

 アイリ・フォン・アイゼンベルク。公爵家の令嬢にして、この騎士団の筆頭騎士を務める女性。

 彼女は門の向こう側まで歩いてくると、鉄柵越しに冷ややかな視線を俺に向けた。


「何用だ」


 鈴のような、しかし冷徹さを帯びた声だった。


「本日付けでこちらの団長に任命された、アルト・ノーマンだ。着任の挨拶に来た」


 俺は努めて明るく振る舞い、懐から辞令を取り出そうとした。

 だが。


 シャラッ!


 金属が擦れ合う鋭い音と共に、切っ先が目の前に突きつけられた。

 鉄柵の隙間から、銀色の剣身が伸びている。

 俺の喉元、数センチの距離でピタリと止まっていた。


「は?」


 俺は動きを止めた。

 アイリの碧眼(へきがん)が、敵を見る目で俺を射抜いている。


「ここは乙女の園である。男の立ち入りは禁ずる。即刻立ち去れ」

「いや、だから団長として……」

「知らぬ。我が騎士団に、男の団長など不要だ。どうせ実家が送り込んできた新しい監視役か、あるいは職にあぶれた下級貴族だろう。貴様のような輩に、我らの神聖な場所を汚させるわけにはいかん」


 取り付く島もないとはこのことか。

 噂には聞いていたが、プライドの高さは本物のようだ。公爵家の娘となれば、男爵家の三男坊など路傍の石ころ程度にしか思っていないのだろう。

 だが、ここで引き下がるわけにはいかない。

 俺の背後には、地獄のグリフォン騎士団に戻るというバッドエンドが待っているのだから。


「剣を収めてくれ。俺だって、好き好んでここに来たわけじゃない」


 俺は冷静に返した。

 命を狙われることには慣れている。グリフォン騎士団では、酒に酔った先輩騎士が剣を振り回すなど日常茶飯事だったからな。


「これは王命だ。俺の手にあるのは、国王陛下の印が押された正式な辞令書だぞ。これを拒否するということは、陛下への反逆とみなされるが、それでもいいのか?」


 俺は羊皮紙を広げ、紋章の部分を彼女に見せつけた。

 アイゼンベルク公爵家は、王家への忠誠を第一とする家柄だ。王命という言葉の重みは、誰よりも理解しているはずだ。

 アイリの眉がピクリと動く。


「……王命、だと?」

「確認しろ。偽造じゃないぞ」


 彼女は剣を引くことなく、隙間から羊皮紙を凝視する。

 数秒の沈黙の後、彼女は忌々しげに舌打ちをした。


「……チッ」


 貴族令嬢にあるまじき音が聞こえた気がしたが、聞かなかったことにする。

 アイリは乱暴に剣を鞘に納めると、懐から鍵束を取り出した。


「……開ける。だが、勘違いするなよ」


 ガチャリ、と重い錠前が外される。

 門が軋んだ音を立てて開いた。


「私は貴様を団長などと認めてはいない。書類上の形式として入れてやるだけだ。余計な口出しは無用。我々の邪魔をするな」

「善処するよ。俺も、お前たちの騎士ごっこに付き合うつもりはないからな」


 俺が肩をすくめて答えると、アイリは再び鋭い視線を投げてきた。

 どうやら、第一印象は最悪の部類に入ったらしい。

 まあいい。仲良しこよしをするために来たわけじゃない。俺は俺の平穏を守れればそれでいいのだ。



 案内された館の中は、外観の華やかさとは裏腹に、どこか寒々しかった。


 足を踏み入れた瞬間、俺は思わず天井を見上げた。

 吹き抜けだ。

 二階まで突き抜けた広大なエントランスホールの中央には、巨大なシャンデリアが吊り下げられている。かつては煌びやかに輝いていたのだろうが、今はクリスタルが埃を被り、鈍い光しか放っていない。

 正面には、二階へと続く優美な曲線を描く大階段。その左右に、回廊が伸びているのが見える。二階の廊下がホールを囲むように巡っており、そこにいくつもの扉が並んでいた。おそらく、あれが彼女たちの個室だろう。


 一階に目を向ける。

 ホールの右手には、大きな両開きの扉。隙間から覗く長テーブルの端から察するに、あれが食堂か。

 左手の奥まった場所にも扉がある。浴場か、あるいは別の設備か。

 建物全体は、中庭を囲むようなコの字型の構造をしているようだ。窓の向こうに、手入れされていない庭木がちらりと見えた。


 グリフォン騎士団での経験が、自然と俺の目を動かしていた。

 施設の構造を把握するのは、管理者の基本だ。どこに何があるか、動線はどうなっているか。それを知らずして、効率的な運営などできるはずがない。

 ……もっとも、今の俺が求めているのは『効率的な運営』ではなく『効率的なサボり方』なのだが。


 だが、そんな分析も、目の前の惨状を見れば吹き飛んだ。

 高価そうな調度品は、どれも薄っすらと白く曇っている。

 空気が澱んでいる。長期間、窓を開けて換気をしていない部屋特有の、埃っぽい匂いが鼻につく。


「……おい、掃除はしているのか?」


 俺は思わず口に出していた。

 建物の管理も団長の仕事だ。この状態は看過できない。


「使用人はいない。予算の使い込み疑惑により調査が入り、全ての支出が凍結された。使用人も先月解雇されたままだ」


 アイリが前を歩きながら淡々と答える。


「我々は騎士だ。掃除婦ではない。最低限のことは自分たちでやっている」

「最低限、ねえ……」


 俺は手すりを指でなぞった。指先に灰色の粉が付着する。

 これで最低限とは、随分と低い基準をお持ちのようだ。


 ホールを抜けて廊下を進むと、二人の人影があった。

 階段の手前で、俺たちを待ち構えていたようだ。


「アイリ姉様! その男、誰ぇ? 敵? 噛み付いていい?」


 元気な声を上げたのは、小柄な少女だった。

 ふわふわとした銀色の短髪。頭頂部には大きな獣耳があり、お尻からはふさふさの尻尾が生えている。

 シャルロット・ガルム・ファング。獣人族の族長の娘だ。

 彼女は俺を見るなり、ウーッと低い唸り声を上げて威嚇してきた。野生動物そのものだ。


「あらあら……。珍しいお客様ですねぇ。迷い込んだ仔猫ちゃんですかぁ?」


 もう一人は、ゆったりとしたローブを纏った女性。

 ウェーブのかかった栗色の髪に、とろりとした蜂蜜のような瞳。

 セシリア・ル・メルクリウス。高名な魔導貴族の令嬢だ。

 彼女は壁に寄りかかり、今にも眠りそうな顔で微笑んでいる。


「シャル、セシリア。警戒を解け。一応、王宮から派遣された新しい団長だそうだ」


 アイリが不承不承といった様子で紹介する。


「えーっ! こんな弱そうなのが新しい団長なのぉ? 私が腕相撲したら一秒で折れちゃいそうだよ」

「ふあぁ……。またすぐに逃げ出すんじゃないですかぁ? 前の人みたいにぃ」


 容赦ない言葉が飛んでくる。

 どうやら、ここには俺の味方は一人もいないらしい。

 アイリが俺に向き直り、仁王立ちになった。


「聞いた通りだ。我々は貴様を必要としていない。だが、入ったからにはルールを守ってもらう」


 彼女は指を三本立てた。


「一つ。我々の訓練や活動に口を出すな」

「二つ。二階の女子居住エリアには許可なく立ち入るな」

「三つ。我々に指一本触れるな。もし破れば――」


 アイリが腰の剣に手をかける。

 シャルロットが鋭い爪を見せつける。

 セシリアが杖の先を向ける。


「――その時は、全力で排除する」


 三者三様の殺気。

 普通の人間なら、ここで縮み上がって逃げ出すところだろう。

 だが、俺は安堵のため息をついていた。


「なんだ、そんなことか」

「……なに?」

「安心しろ。俺はお前たちに興味はない。訓練? 勝手にやってくれ。居住エリア? 用もないのに行くか。指一本? 触るわけがないだろう」


 俺は彼女たちの顔を見回して言った。


「俺が興味あるのは、平穏な睡眠と食事だけだ。お前たちが俺の邪魔をしない限り、俺も干渉しない。俺はただの施設の管理者だと思えばいい」


 俺のドライな反応に、三人は拍子抜けしたように顔を見合わせた。

 もっと嫌らしい目で見られるか、あるいは偉そうに命令されると思っていたのだろう。

 残念ながら、俺の性癖はスローライフだ。美少女よりも、ふかふかの枕の方に魅力を感じる。


「……ふん。口だけなら何とでも言える」


 アイリは鼻を鳴らした。


「ついて来い。貴様の部屋は一階の空き部屋を使えばいい。その前に、食堂へ案内する。昼時だ、我々も食事にする」


 そう言って、彼女は踵を返した。

 向かったのは、さっき目をつけていた右手の大扉だ。

 やはり食堂で間違いなかったらしい。



 食堂の扉が開かれた瞬間、俺は眉を寄せた。

 広い。体育館ほどもありそうな広大なスペースだ。

 だが、そこもやはり薄汚れていた。

 窓ガラスは曇り、外の光を十分に透過していない。床の隅には綿埃が転がり、テーブルの上には誰かがこぼした染みが残ったままだ。

 ここで食事をするのか?

 いったい衛生観念はどうなっているんだ。


 三人は慣れた様子で、中央の長テーブルに腰を下ろした。

 テーブルの上には、すでに人数分の食事が用意されていた。

 俺は自分の席らしき場所に近づき、そこに置かれた『物体』を凝視した。


「……なんだ、これは」


 深皿になみなみと注がれた、灰色とも紫ともつかない粘度のある液体。

 湯気は出ていない。表面には油膜のようなものが浮き、得体の知れない固形物が沈んでいる。

 その横には、凶器になりそうなほど硬く焼き締められた黒パンの塊。


 俺はスプーンを手に取るのも躊躇われた。

 鼻を近づける。

 古い雑巾のような臭いと、焦げた野菜の臭いが混ざり合った、生理的嫌悪感を催す香りが鼻腔を刺激する。


「……まさか、これが昼食か?」


 俺が問いかけると、アイリがスプーンを握りしめたまま、苦渋の表情で頷いた。


「そうだ。文句があるなら食べるな」

「文句しかないが……お前たちは、これを食べているのか?」

「……食べるしかないだろう。食材は私たちで調達しているが、調理となると……誰も経験がないのだ」


 アイリの声が、少しだけ弱々しくなった。

 横を見ると、シャルロットが涙目で皿を睨んでいる。


「うぅ……またこれぇ? 泥の味がするよぉ。沼の底の味がするよぉ。お肉食べたいよぉ」

「我慢なさい、シャル。栄養はあるはずです……たぶん」

「ふあぁ……。噛まなくていいから、顎が疲れなくていいんじゃないですかぁ……?」


 セシリアが虚ろな目で呟き、スプーンで灰色の液体をすくう。その液体は、どろりと糸を引いて落ちた。

 それを見た瞬間、俺の中で何かが切れる音がした。


 同情ではない。

 怒りだ。

 この施設の管理者でもあるこの俺に、こんな残飯以下のものを食わせようとしたことへの、純粋な怒りだ。

 食は生の根源だ。一日の活力であり、精神の安定剤だ。

 こんなものを食べていては、スローライフなど夢のまた夢。胃袋が荒れ、心が荒れ、やがて俺の安眠さえも脅かされるだろう。

 許せるか、そんなこと。


「厨房はどこだ」


 俺は低い声で言った。

 アイリが怪訝な顔をする。


「あちらだが……何をする気だ?」

「決まっている。作り直す」


 俺は上着を脱ぎ捨て、椅子にかけた。

 袖をまくり上げる。


「待て! 勝手な真似は許さん! そこは我々の神聖な……」

「なら、お前は一生その泥をすすってろ」


 俺はアイリの言葉を遮り、鋭く言い放った。

 普段は事なかれ主義の俺だが、飯のこととなれば話は別だ。

 呆気にとられる三人を置き去りにして、俺は厨房へと続く扉を蹴り開けた。



 厨房の中は、予想通り……いや、予想以上の惨状だった。

 広いだけで、調理器具は埃をかぶっている。かまどには冷え切った灰が積もったままだ。

 だが、俺の目はある一点に釘付けになった。

 奥にある巨大な食料庫だ。

 どうやら彼女たちが自分で買い出しに行っているらしい。高級食材を選ぶ目はあるようだが、それを料理に変える術がないのだ。

 扉を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。


「……宝の山じゃないか」


 俺は思わず声を漏らした。

 赤身と脂身のバランスが美しい霜降りの厚切り肉。

 土がついたままの新鮮な根菜類。

 庶民には手が出ない高価な香辛料の数々。

 そしてなんと、木箱に入った東方の国からの輸入品、貴重な『味噌』と『米』まである。


 これだけの食材がありながら、なぜあの泥スープが生まれるのだ?

 資源に対する冒涜だ。食材たちが泣いているのが聞こえるようだ。

 俺は深く息を吐き出し、気持ちを切り替えた。

 やるしかない。俺の胃袋のために。

 前世では一人暮らしが長かった。グリフォン騎士団でも、誰も俺の世話などしてくれなかったから、自炊から身の回りのことまで一通りこなせるようになっていた。


 まずは掃除だ。

 不衛生な場所で美味いものは作れない。

 俺は手近にあった布を水で濡らし、調理台を一気に拭き上げた。

 まな板を洗い、包丁を研ぐ。

 かまどの灰をかき出し、新しい薪を組む。

 手際よく環境を整えていく。社畜時代に培った効率化のスキルが、こんなところで役に立つとは。


「さて、メニューはどうするか」


 あの泥スープで冷え切った心と体を温める必要がある。

 そして、前世が日本人としての俺の魂を慰めるもの。

 決まりだ。

 

 俺は米の入った袋を開けた。

 真っ白な粒が、光を受けて輝く。

 大きな釜に米を入れ、水を注ぐ。

 シャカシャカというリズミカルな音が、静まり返った厨房に響く。

 研ぎ汁を流し、新しい水を注ぐ。水加減は指の第一関節。感覚が覚えている。


 かまどの前に立ち、指先を薪に向ける。


「――『着火(イグニス)』」


 指先に灯った小さな炎を薪に移す。攻撃魔法はからっきしだが、こういう生活魔法だけは得意なんだ。

 火加減を調整し、釜を火にかける。

 『初めちょろちょろ中ぱっぱ』。この世界の人間は知らない、米炊きの極意だ。


 次は汁物。

 豚汁だ。

 立派な豚肉のブロックを取り出し、まな板の上に置く。

 包丁を握る。手に馴染む重さだ。

 肉を一口大に切る。脂身からいい出汁が出るんだ。

 大根、人参、ごぼう。根菜類をささがきやいちょう切りにしていく。


 トントントントン!


 軽快な包丁の音が、音楽のように厨房に響き渡る。

 背後で扉が開く気配がした。アイリたちだろう。

 だが、振り返らない。今は食材との対話に集中する。


 鍋に油を敷き、豚肉を投入する。


 ジュワアアァァッ!


 脂が爆ぜる音と共に、肉の焼ける香ばしい匂いが一気に立ち上り、厨房の空気を支配した。


「ひっ!?」

「な、なんという香り……! これは、暴力的なまでの……」


 背後から悲鳴のような声が聞こえる。

 シャルロットが鼻をひくつかせ、口の端からよだれを垂らし始めた気配がする。野生動物が餌を前にした時の反応だ。

 野菜を投入し、さらに炒める。全体に油が回ったら、水を注ぐ。

 あくを丁寧に取り除きながら煮込む。このひと手間が味を決める。


 最後に、秘密兵器の『味噌』だ。

 お玉の上で味噌を溶き入れると、ふわりと豊潤な香りが広がった。

 大豆の発酵した、どこか懐かしく、安心感を誘う香り。


 同時に、隣の釜から白い蒸気が勢いよく噴き出した。

 シュウウウウ、という音とともに、炊きたての米の甘い匂いが漂ってくる。

 豚汁の香りと、ご飯の香り。二つが合わさった瞬間、そこはもう異世界の厨房ではなく、俺の知る『食卓』になった。


「よし、できたぞ」


 俺は火を止め、振り返った。

 入り口付近で固まっている三人は、まるで強力な魔法を食らったかのように呆然としていた。



 食堂に戻り、俺はそれぞれの前に料理を並べた。

 湯気を立てる白米。一粒一粒が真珠のように輝き、ふっくらと立ち上がっている。

 具だくさんで、茶色く輝く豚汁。表面にはうっすらと脂の膜が張り、熱を閉じ込めている。中には煮込まれた野菜と肉がゴロゴロと入っている。

 シンプルだが、さっきの泥スープとは次元が違う『食事』だ。


「……これが、食事?」


 アイリが震える声で呟く。

 彼女の手は、銀色のスプーンを握りしめている。

 普段なら洗練されたテーブルマナーで使いこなすはずのカトラリーだが、未知の料理を前にして、その手は微かに震えていた。

 視線は、目の前の皿に釘付けになっている。


「毒見は俺がした。文句があるなら食わなくていいが」

「た、食べます! いただきます! 絶対食べまぁす!」


 最初に動いたのはシャルロットだった。

 彼女は獣の本能に従って、スプーンを鷲掴みにし、まずは豚汁をすくった。

 フーフーと息を吹きかけ、口に運ぶ。


 ズズッ。


 汁を吸い込んだ直後、シャルロットの動きがピタリと止まる。

 頭の上の犬耳がピンと立ち、瞳孔がカッと開く。


「……んあ?」


 彼女は信じられないものを見る目でスプーンを見つめた。

 そして今度は、具の豚肉と大根を一緒にかき込んだ。


「ん、んんっ!?」


 シャルロットの尻尾が、目に見えない速さでブンブンと振られ始めた。

 風圧が起きそうな勢いだ。椅子がガタガタと音を立てる。


「おいひい! これ、おいひいよぉ! お肉がとろとろで、お野菜が甘くて、なんか汁が身体の中にじゅわーって染み込んでくるぅ!」

「落ち着いて食え。喉に詰まるぞ」

「だってぇ! こんなの初めてだもん! 口の中がお祭り騒ぎだよぉ!」


 シャルロットは涙を流しながら、今度はフォークを使って白米を口に放り込む。

 ハフハフと熱そうにしながらも、咀嚼するたびに幸福そうな声を漏らす。白いご飯の甘みが、塩気のある豚汁と出会い、口の中で至高のハーモニーを奏でる。

 その姿を見て、セシリアもおっとりとした動作でスプーンを差し入れた。


「……ふぅ。……あら、まあ」


 一口含んだ彼女は口元に手を当て、頬を桃色に染める。


「温かいですぅ……。なんだか、お母様のお腹の中にいるみたいに、ぽかぽかして……ポーションよりも元気が出そうですぅ。身体の隅々まで、熱が巡っていくのがわかりますぅ」


 彼女のまとっていた気だるげな雰囲気が、春の日差しのように和らいでいく。

 さて、最後は。

 俺は正面のアイリを見た。

 彼女はまだ、スプーンを持ったまま固まっていた。

 騎士隊長としてのプライドか、それとも警戒心か。

 いや、彼女の瞳は潤んでいた。その手は、期待と恐怖がないまぜになったように震えている。


「口に合わないか?」

「……い、いや。そういうわけでは。ただ、この香りが、私の知っている食事とはあまりに違いすぎて……夢ではないかと」

「なら食え。冷めるぞ」


 促され、アイリは覚悟を決めたように豚汁を一口すすった。

 そして、ゆっくりと息を吐き出した。

 その瞬間、彼女の纏っていた『氷の女騎士』の鎧が、音を立てて崩れ落ちたように見えた。


 張り詰めていた肩の力が抜け、眉間の皺がきれいさっぱり消える。

 その瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


「……なんだ、これは」


 彼女の声は震えていた。


「今まで食べていたものは、なんだったんだ。これが……本来の、食事の味なのか? 野菜とは、これほど甘いものだったのか? 肉とは、これほど旨味のあるものだったのか?」

「そうだよ。あんたらの味覚が死んでただけだ。素材はいいんだから、ちゃんと扱えばこうなる」

「美味しい……。本当に、美味しい……」


 アイリは、そこから無言になった。

 ただひたすらに、スプーンとフォークを動かす。

 貴族令嬢としての上品さを保とうとしているが、そのペースは明らかに早い。

 米をすくい、豚汁を飲み、また米を口へ運ぶ。その無限のループ。

 途中で、米粒が一つ、彼女の口元についた。

 普段なら指摘してやる場面かもしれないが、俺は見なかったことにした。

 今の彼女は、ただの腹を空かせた一人の女の子にすぎない。騎士隊長という重圧から解放され、ただ『美味しい』という事実に打ち震えている。


 やがて、三つの器はきれいに空になった。

 シャルロットに至っては、名残惜しそうに皿を舐める勢いだ。


「ぷはぁー! 生き返ったぁ!」


 シャルロットが満足げに腹をさする。その顔は、戦場での勝利よりも深い達成感に満ちている。

 セシリアは満足感からか、すでに船を漕ぎ始めている。

 アイリは、ナプキンで口元を拭うと、居住まいを正した。

 その顔には、先ほどまでの険しさはない。あるのは、満ち足りた安らぎと、そして――少しの敗北感と、大きな敬意だった。


「……アルト、殿」


 彼女が俺の名前を呼んだ。初めて、まともに名前で呼ばれた気がする。


「悔しいが、認めよう。貴殿の腕は本物だ。剣では私には勝てぬだろうが、料理においては、貴殿は我々を完全に圧倒した」


 彼女は真っ直ぐに俺を見た。


「礼を言う。久しぶりに、生きた心地がした」

「……仕事をしただけだ。俺も、あんな泥スープを食うのは御免だからな」


 俺は淡々と返した。

 ここで恩に着せたりはしない。俺は自分のためにやったのだ。

 だが、彼女たちの満足そうな顔を見て、悪い気分ではなかった。

 少なくとも、あの殺伐とした門前のやり取りよりは、ずっとマシな空気だ。


 しかし。

 これで終わりではない。

 食は満たされた。だが、俺のスローライフを脅かす要素はまだ残っている。


 俺はテーブルに肘をつき、三人の顔を見回した。


「さて、飯はなんとかなった」


 俺は視線を、食堂の隅に溜まった埃や、曇った窓ガラスへと向けた。


「だが、俺はあんな埃っぽい廊下や、薄汚れた食堂の横で寝るのは御免だ。埃を吸い込んで寝ても、疲れは取れないからな」


 俺の言葉に、三人がキョトンとする。

 嫌な予感がしたのか、シャルロットの耳がピクリと動いた。


「今から、寝る場所を確保するための大掃除を行う」


 俺が宣言すると、三人の動きが凍りついた。


「え……?」

「い、今からですかぁ? お腹いっぱいで、眠いんですけどぉ……」

「そうだ。今からだ。この館の共有スペース、全てをピカピカにする」


 俺は立ち上がり、仁王立ちになった。


「俺を団長と認めなくていいと言ったな。だが、『施設の管理者』としての言うことは聞いてもらうぞ。これは命令だ」


 アイリが口を開きかけたが、俺はそれを手で制した。


「嫌なら、今日の夕食は抜きだ。あの泥スープに戻ってもらう」

「ッ!?」


 その言葉の威力は絶大だった。

 泥スープの記憶と、今の豚汁の味が脳内で比較され、彼女たちの戦意を一瞬で挫いたのだ。

 アイリがガクリと項垂れる。

 シャルロットが悲鳴を上げる。

 セシリアが涙目になる。


「……わかった。やればいいのだろう、やれば」

「うぅ……だんちょーの鬼ぃ……」


 観念した彼女たちの様子を見て、俺はニヤリと笑った。

 どうやら、胃袋を掴むというのは、最強の統率術らしい。


 さあ、第二ラウンドの始まりだ。

 俺の安眠できる城を築くために、徹底的に働いてもらうとしよう。


 窓の外では、太陽がまだ高く輝いていた。

 俺のスローライフへの戦いは、まだ始まったばかりだ。

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