「闇の奥より這い寄るもの」

 洋平からしてみると梨沙もまた、やけに静かな隣人だという感想を抱いているところだった。


 そう、まるで気配を殺してでもいるかのような。


 わりとしっかりした造りのマンションなので生活音などは聞こえてこない。


 そもそも隣室の異性の生活音を気にすること自体が、どこか陰湿で、そんな自分がイヤになりそうだ。

 そのうち洋平自身が周りのことをあまり気にしなくなっていった。


 ただ、梨沙の住む405号室には何も変わったことはないのか。それだけがまだ少し気になっている。


 そう。たとえば天井から水が滴り落ちてきていたりしないだろうか。

 何しろ洋平には自分が入居した翌日には「ペットを亡くした記憶」があるから。


 それを忘れられずにいるから、そう思ってしまうのかもしれなかった。

 天井から落ちる水は、まるですべての不吉の元凶のようにも見えていて。


 洋平は内容に興味もないバラエティ番組の音量を、やや大きめに上げた。

 芸人がくだらないことを言っては笑い合っている。


 そういう「外の世界の」どこか作られたような空気感がこの部屋にはどうしても必要だった。

 それこそ毎晩のことだ、テレビの音声であっても音や声なくして、この沈黙だけの部屋では息がしにくい。


 そうでもしないと、特に夜のこのマンションは一帯を含めてあまりにも静か過ぎる。

 そして五階に起因するだろう水漏れは実はまだ続いていたし、聞き間違いとも思えない足音もたまに聞こえていた。


 それらはなぜかリビング、寝室では発生しない。

 決まって玄関からの廊下あたりや、水回り周辺で見かけたり聞くことが続いていた。


 洗面所、トイレ、浴室内。単に自分が水道の蛇口をちゃんと締めていなかった、とかそういうのであればいいと何度も願った。


 だけどそういった「あたりまえの、普通の理屈」で納得するには「廊下の水たまり」にはどうにも説明がつかないわけで。


 だって、それはまるで手や足の平のカタチのシミのように見える。

 しかも、よく観察すると指に欠損があるように見えた。

 それ以来あまり視線を向けないようにしている。


 水滴の落ちる音には深夜に気がつくこともあれば、翌朝になってようやく気づくこともあった──知らないうちに付いている。


 とりわけイヤなのが「玄関から最初のドアまで続く廊下」だった。

 まるで何かが這いずったかのような水の跡を、これまでにもう何度も何度も見かけた。


 それは決まってドアの前までで止まっている。


 だから洋平はやや神経質なまでに室内すべてのドアや扉などの開閉するもの、空間を区切るものすべてを徹底的にチェックしては隙間すきまなく閉ざすクセがついてしまっていた。

 その後で「本当に閉まっているのか」を確認せずにはいられない。


 では、どうしてここまでするのか。

 実は一度だけだが洋平は、何だかおかしなものをはっきり見たことがあるからだった。


 それは真冬、今年の二月初めのことだった。


 めずらしく友人がふたり泊まっていた日で、だから少し油断していたのもあるし、かなり酔っていたのもある。


 洋平がソファから身を起こすと玄関のドアがわずかに開いていた。

 友人たちはコタツで眠っているがひどくうなされているようで、なぜだか眉根を寄せた苦しそうな表情をしていた。


 何かが起きている──そんなまさか。住人でない者がふたりもいる、このタイミングで?


 それから見た。

 リビングから玄関廊下へ続くドアの隙間から、そこによどんで沈む黒いなにかを。


 断定はできないが目が闇に慣れていたせいか、なんとなく把握できたのはその「黒いもの」は人の形をしていて、腹這はらばいになって倒れ伏し、足ではなく腕の力だけでドア方向へと──こちらのリビングのほうへ這って進もうとしているようだった。


 頭部らしきものはあるが、顔面は伏せられていてよく見えない。

 そもそも「この存在に」顔なんてものがあるのだろうか?


 身長は低いがどうも子どものようではなく、そこにあってうごめく黒い人影はひとりではない──いや、ひとりだけではなかった気がするだけか。


 そのときの洋平は、一瞬の間は金縛りのようになっていた。

 だが友人ふたりが部屋にいることにかろうじて後押しされて、なけなしの勇気を振り絞ることができたのか。


 顔のすぐ横にあったスマホを震える手でなんとか操作し、そのバックライトで廊下を照らす。


 澱んだ漆黒は強い光には照らされず、そこには水に反射する光のようなものだけが見えた──つまり、もう何者もそこにはいなかった。


 ただ水だけが残った。人間の四肢の形のまま。


「……洋平?」

「うァあッ‼」

「あ、いきなり悪いな。電気けるぞ」


 友人ふたりはその時点で目覚めていたようだった。

 そのうちのひとりがリビングの照明のスイッチを操作して、ようやく部屋は光に満たされる。


「お、おまえらいつから起きてたんだ──⁉」

「いや。何か眠りが浅いっつーか、ひでえ夢を見てた気がする。おまえスマホのバックライト使っただろ? たぶんそれで目が覚めた」


 もうひとりの友人も頷くが、こちらは明らかに震えていた。

「おまえも何か、変な夢でも見たか──まさかな? だってあれは……」

「夢じゃねぇよ。あれは……違うって」


 このふたりは今の大学野球サークルでは内野手をしていて、洋平とは同じチームを組む仲だ。


 度胸のあるヤツだと、いつも思わされていた。

 特に試合のピンチなんかでは──だけど今はまるで子どものような目をしている。


「洋平。おまえも見たのかよ、あれを」

「あれって? 何のことだ、あの水の跡か?」


「違う、なんか人間みたいな影。子どもみたいな大きさの、だけど老人みたいな動き方で──、いや。なに言ってんだろうなオレ……夢だったよな。オレが自分でそう言ったんだ」


 洋平は思う──おれが見たのは確かに人影に酷似こくじしていた。

 だけど、ただの目の錯覚じゃないのか?

 こうして明るくなれば、実際にはもう、何も見えてはいないのだから。


「いや。おれは見てないけど、たぶん……それが?」


 これが嘘だとはすぐにバレていただろう。

 だけど今は真っ白に明るく照らされたリビングから、積極的に動こうとするヤツは誰もいなかった。


「酒さ、まだあったよな、洋平。おまえビールを箱買いするタイプだしさ」

「……ああ、まだあるけど」


「朝まで飲もうぜ。オレはもうダメだ、ホントにもうなんかイヤなんだ……正直、帰りてえんだけど、それも洋平には気の毒な気がするからさ。いや、もっと正直に言えば、たぶんいま『ここから脱出しようとすること自体が危険』っていう、そんな気がするんだよ」


 何が「嫌」なのか、そしていま洋平自身だってを感じてさえいる。

 それを具体的に聞くまでもなく、洋平は知らず頷いていた。


 何しろ自分ですら、この部屋にいてここまでの怪異に遭遇したことがなかったからだ。


 友人ふたりにスナック菓子などのツマミと冷えた缶ビールを手渡して、そのふたりが何もなかったかのようにテレビをつけてどこか演技っぽく騒ぎ出したのを合図に、廊下をひそかに確認しにいく。


 だけどそう、なにもなかったかのようにそこには何もなくて。


 ただナメクジでも這ったような、ヌラヌラした質感の水──粘液? だけが残っていた。

 そうしてそこからは、うっすらと腐った土の臭いがしていた。


 この事件後、野球サークルの友人がこの部屋を訪れることはなかった。


 はっきりした陰口を洋平に分かるようなところで広げているような気配は感じていなかったが、冗談めいて「あのマンションって心霊スポットなんだろ?」と聞いてくる奴らはサークル内では増えに増えて、いまはたぶん新入生にすら知らされているんだろうなと思う。


 もちろん誰もが本気で信じているわけではなさそうだったが、あのときあの部屋にいたふたりが語る口調にはどうにも「真実めいた空気と、確信めいた恐怖」があったみたいだった。


 そうしてサークル内では誘ってもこの部屋に来る奴は誰もいなくなった、というわけだ。


 実は洋平はいまも管理人夫婦のことを信じきれていないし、それも当然のことだと思っている。


 なにしろ水は「必ず上から」来るのだから。

 503号室が無人だというのなら、これはどういう現象だというんだろうか。


 無人の空室から水が降ってくるなど、ありえないのではないのか?

 無人の部屋から足音が聞こえてきたりするものか──?

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