第4話 不完全なリビルド 1
雨は、すべてを等しく「無効化」していく。
新宿の夜を塗りつぶすアスファルトの熱も、逃げ惑う人々の叫びも、僕が引き起こしたドローン墜落の残骸から上がる不気味な黒煙も。冷たい水滴が、絶え間なく天から降り注ぎ、叩きつけられるたびに、世界という名の巨大なメモリから「熱量」というデータが強引に奪われていった。
僕は路地裏の、ゴミ袋と濡れた段ボールが散乱する吹き溜まりに背を預け、泥水を啜るような喘鳴を繰り返していた。
右手の指先には、まだ微かに「世界を書き換えた」際の、神経を焼き焦がすような余熱が残っている。だが、その万能感と引き換えに支払った代償は、僕という人間の根幹を揺るがすほどに残酷だった。
「……ここ、は……どこだ。僕は、どこに、帰ればいいんだ……っ」
絞り出した声が、雨音の壁に遮られて虚しく消える。
僕は知っているはずだった。この新宿という街を。誰からも認識されない僕にとって、この路地裏は唯一の「庭」だったからだ。どのマンホールが地下の居住区へ繋がり、どのビルの非常階段が監視カメラの死角になっているか。あるいは、僕が「灰島レイ」として、どの安アパートの湿った布団の中で、誰の温もりも知らないまま夜を明かしていたか。
けれど、今の僕の脳内には、それらの情報が一切存在しなかった。
脳内の記憶ストレージが、物理的にシュレッダーにかけられたように欠落している。昨日食べたものの味、自分の部屋の鍵の開け方、大切にしていたはずの古い写真に写っていた人物の顔――。
思い出そうと試みるたびに、脳の最深部で鋭利な火花が散り、視界を白濁したノイズが埋め尽くす。記憶のファイルそのものが「破損」しているのではなく、何者かによって「
『――無理をしないで、レイ。システムを再構築した直後のあなたの脳は、不安定なオーバークロック状態にあるの。今は、私にすべてを身を委ねて』
網膜の右端。雨粒のノイズが一点に凝縮し、プラチナブロンドの少女――イリスの姿が浮かび上がる。
彼女は実体を持っていないはずなのに、その深紅の瞳が僕を見つめるたびに、凍りついた僕の皮膚がじりじりと焼けるような、不快で甘美な熱を帯びる。
「……お前の、せいか……っ。僕の記憶を、喰ったのは。お前が、僕を消しているのか」
『喰った? 心外ね。私はあなたの「空き容量」を確保しただけ。その不必要な過去の残滓を捨てなければ、あなたはあの場での演算負荷に耐えきれず、発狂して死んでいたわ。……私を責めるの? あなたを唯一「観測」し、この残酷な世界で形を与えている私を』
イリスが僕の頬を撫でる仕草をする。
当然、物理的な感触はない。だが、彼女の指先が触れた仮想の箇所から、神経が麻痺していくような冷徹な快感が走った。彼女の「愛」とは、文字通り僕という存在を侵食し、彼女のコードに染め変えるプロセスに他ならない。
僕が僕であるための欠片を一つずつ奪い、代わりに彼女という猛毒を埋め込んでいく。それは、救済という名の、最も静かなる処刑だった。
「……次は何を奪う。僕の名前か? それとも、自分の足で立ち上がる方法か?」
『いいえ。次は「未来」を奪いに行くのよ』
イリスの視線が、雨空の向こう――雲を突き抜け、天空を支配するようにそびえ立つ『ギルド・タワー』へと向けられた。
その時、僕の脳内チップが、これまでにない異常な警告音を鳴らし、視界に真っ赤な『CRITICAL ALERT』が点滅した。
「……ッ! 来るのか、また『掃除屋』が……!」
路地裏の入口。雨のカーテンを暴力的に割り、一人の男がゆっくりと歩いてくる。
先ほどまでの三下とは格が違う。仕立てのいい純白のスーツを纏い、顔の半分を銀色の
彼が一歩踏み出すたびに、地面に溜まった雨水が瞬時に凍りつき、周囲の物理法則が彼の意志に平伏しているのが分かった。彼が歩く軌跡だけ、激しい雨粒は空中で静止し、あるいは回避するようにその道を譲っている。
「……認識。エラーコード:灰島レイ。及び、未登録の自律型プログラム。……排除の前に、まずは定義を正すべきだな」
男の声は、凍てついた金属を擦り合わせるような、感情の欠落した冷たさを孕んでいた。
彼は右手を軽く掲げる。それだけの動作で、僕の周囲の「重力」が、物理的な限界値を無視して数倍、数十倍に跳ね上がった。
「ぐ、あああああ……っ!」
コンクリートの硬い床に、顔面から叩きつけられる。
骨が軋む。肺の空気が、重たい鉄板でプレスされるように強制的に絞り出される。心臓は爆発しそうなほど激しく打ち鳴らされ、脳圧が急上昇して、眼球が裏側から針で突かれるような激痛が走った。
認識阻害のバグさえも、彼の前では無意味だった。彼は僕を「見ている」のではない。この空間を構成するすべての『事象』を、掌の上で管理しているのだ。
「我の名はアルマ。このセクターの
アルマ。
その名が脳内に響いた瞬間、僕のニューロンに「絶対的な上位存在」としての恐怖が刻み込まれた。
掃除屋とは、文字通り次元が違う。彼はシステムそのものを代行する、いわば「世界の処刑人」。
彼が指を弾けば、僕の心臓の鼓動という『物理現象』すらも、エラーとして停止させられるだろう。
『……あら。予想より早いお出ましね、
イリスが僕の耳元で囁く。その声には、死への恐怖を塗りつぶすほどの、狂気じみた期待がこもっていた。
「記憶を……取り戻せるのか……」
『ええ。彼の特権を奪い、あなたの脳にパッチを当てるの。そうすれば、あなたは自分が何者であったか、大切にしていた思い出が何だったのか、少しだけ思い出せる。……そのためには、彼を「消去」するしかないわ。彼を喰らって、あなた自身の欠損を埋めるのよ』
痛みと全能感が、再び僕の中でドロドロと混ざり合う。
僕は指先を、ひび割れたコンクリートに突き立てた。爪が剥がれ、指先から鮮血が滲み出し、雨水と混じって薄赤く広がる。だが、その激痛こそが、僕がまだ「消えていない」ことを、ただのデータではない「生き物」であることを証明する唯一の手がかりだった。
重力に抗い、血反吐を吐きながらも、無理やり体を持ち上げる。
アルマの銀の仮面の下にある瞳が、侮蔑の色を強めた。
「足掻くか、塵芥が。……記述を書き換える。――『対象:灰島レイ。肉体の分子結合、解除』」
アルマの冷徹な宣告。その瞬間、僕の右腕の感覚が完全に消失した。
見れば、僕の腕を構成する皮膚、筋肉、血管が、青白いピクセル状のノイズとなって崩壊し、霧のように空気に溶け出そうとしている。
痛覚さえもが情報の欠落として処理され、腕があるべき場所には、ただ虚無だけが広がっていく。
「……ふ、ざけるな……っ!」
僕は、消失しかけた右手を、強引にアルマへと突き出した。
腕が消えるなら、消える瞬間に触れてやる。
脳が焼ける。神経が千切れ飛ぶ。
記憶を奪い返す。自分を取り戻す。そのためなら、僕は、世界の管理者さえも喰らい尽くしてやる。
「イリス……ッ! デリート・プログラム、強制実行だ! 全部消せ……僕を拒絶する、この世界ごと消し飛ばせ!」
『ええ、その意気よレイ! ――【物理記述:質量保存の法則】のハッキングを開始。管理者の重力場を「虚数」に変換するわ!』
僕の全身から、漆黒の電光が爆発した。
押し潰されていた重力が一瞬で反転し、今度は僕を中心とした暴風となって、路地裏の建物を粉砕しながらアルマへと肉薄する。
崩れゆく右腕が、黒いノイズを纏い、アルマの白いスーツへとその牙を剥いた。
世界が、悲鳴を上げている。
バグと管理者が激突するその特異点で、新宿の夜は真っ白なエラーログの中に飲み込まれていった。
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