六話 わたしはまだ幸せを知らない

 上の部屋から物音はしない。

 深夜。

 静狩千景は机に向かって書類を書いていた。実家、静狩家に提出するための文書だ。


 対妖魔特殊制圧班〈裏店〉。

 その活動方針、隊士の顔ぶれ、能力といったものを説明しなければならない。

 千景自身を除く全員が半妖だ。半妖に寛容たれ、が家訓とはいえ前代未聞の部隊編成である。家族の目は厳しい。


「くそっ……」

「筆が進まないようですねえ」


 帝都の地図に妖魔の目撃報告を書き込んでいる横田一覚が声をかけてきた。


「こんな書類はさっさと書き上げて静狩家に持っていかなきゃならん。なのに、思うように考えがまとまらん」

「千景様は静乃さんに惚れてしまったのでしょう」

「はあ? 何を言っている」

「暇さえあれば真上を見ているではありませんか。静乃さんのお部屋はこの真上でしょう?」

「……静乃とは契約を結んだだけだ。それに会ったばかりだぞ」

「ですが、今まで受けてきた仕打ちを聞いて心が揺らいでいるはずです。村を守りたいという強い想いにも感銘を受けた」

「俺は、恋愛感情など……」

「なければ、そこまで気にしませんよ」

「お前は本当にはっきり言うな」

「千景様が自分のお気持ちに気づいていないようでしたので」

「…………」


 千景は手を止めて考え込む。

 一覚の言う通り、さっきから浮かんでくるのは静乃の顔ばかりだ。

 父親の苛烈な命令によって潰されかけていた娘。

 彼女のことは、〈裏店〉設立のため都合よく利用しているだけにすぎない。そのはずなのに、あの幸薄そうな表情が頭から離れない。


 ……静乃に惚れた? 会ったその日に? 馬鹿な、俺はそんな軽い男ではない……。


 自分に言い聞かせてみても、静乃の影を振り払えない。結果、時間だけが淡々と過ぎていく。


「よし、直接確認だ」


 千景は立ち上がった。


「どうしたんです、突然」

「俺が本当に静乃に惚れたのかどうか、確かめてくるんだよ」


     ☆


 静乃はなかなか寝つけなかった。

 しばらくまともに眠っていなかった影響なのか、まったく眠気がやってこない。


 ……気が張っているのね。またトネさんが呼びに来るような気がする……。


 トネさんに挨拶できないまま追い出されてしまった。静乃のことをいつも気にかけてくれた心優しい家政婦。七十を過ぎた体には深夜の仕事は応えただろう。それでも、父の呼びかけがあればそっと静乃を起こしに来てくれた。


「トネさん……」


 つぶやいた瞬間、ドアが開いた。思わず起き上がる。


「千景だ。起こしてしまったか?」

「ちょうど眠れなかったところよ。襲撃があったの?」

「そうじゃない。本当に任務のことしか頭にないようだな」

「だって、それが当たり前だったんだもの……」

「はっきりさせておくが、お前の生活は異常だったんだぞ」

「……そうみたいね」


 千景と話しているうちにだんだんわかってきた。


「用事があるのよね?」

「そうとも言う」


 千景はベッドに座った。


「入るぞ」

「なんで? 一緒に過ごす必要はないって、さっき……」

「ちょっとした気まぐれだ。安心しろ、手荒なことはしない」


 静乃は困ってしまった。家族以外と過ごした時間がなさすぎて、接し方がわからない。これは世間一般には当たり前のことなのだろうか? それすら曖昧なのだ。


「お前も横になれ」

「……ええ」


 千景から距離を置き、背中を向けて横になる。背後で千景も寝転がったのがわかった。


「触れてもいいか」

「…………」


 答えられない。断ってもいいのか。それは正常か、非常識か。何も教わらなかった。


「……好きにして」


 迷った末に、静乃は開き直ることにした。千景が現れなければ死んでいた身。恩人の願いは聞き入れるべき……といっても、消極的な考えではあったのだが。

 覚悟を決めて待っていると、千景が腕を回してきた。そっと、慎重な手つきだった。


 ……甘い香り……。


 千景からは優しい花のような香りがする。帝都で流行っているという香水だろうか。

 まだ動くのかと思ったが、千景は左腕で静乃を包み込むと、それ以上は何もしてこなかった。

 ひそやかに時間が過ぎていく。


 ……なにかしら、この不思議な感覚……。


 静乃はめまいを感じた。しかし、いつもの不快さはない。むしろ甘くしびれるような心地よいめまいだ。

 体が徐々に熱を帯びてくる。緊張も恥ずかしさもない。


 ……これが人の温かさ、なのね。不安が消えていく……。


 味わったことのない感覚だった。これは一体なんなのだろう。教わった言葉の中から、今の気持ちに合いそうなものを探してみる。


「安心、なんだ」

「どうした?」

「今、自分の感じている気持ちがなんなのか考えていたの。やっと言葉が見つかった。わたしは、安心を覚えているんだわ」

「…………」

「こんなに穏やかな気持ちになるのは初めて。だから、ちょっと戸惑ってしまって……でもわかった。これが安心なんだって」

「お前はきっと、誰かに抱きしめられたことなどないのだろうな」

「お母様はしてくれたわ。それもずっと昔のこと……」

「安心さえも、よく考えなければ理解できないのか。俺には想像もつかん」

「千景さんが助けてくれなかったら、この気持ちを知らないまま死んでいたのね。助けてくれたこと、本当に感謝しています」


 静乃は千景に向き直った。


「どうした、急に」

「もっと、温かくしてほしい」

「……できるだけ頑張ってみよう」


 千景の胸に頭を触れさせる。人肌の熱と甘い香りが静乃の心をとろけさせていった。


「もしかしたら、わたしは幸せを感じているのかもしれない」

「幸せ……」

「幸せがどういう感情なのかわたしはまだ知らないけど……これがそうなのかなって。契約だったとしても、千景さんは確かにわたしを温かくしてくれているわ」

「これだけでか」

「これだけで充分なの」


 目をつむって千景に身を任せていると、涙がにじんできた。かすかに呼吸が乱れる。


「大丈夫か?」

「嬉しくて泣くなんて、初めて……」


 千景は何も言わなかった。さっきより、少しだけ抱きしめる力を強めた。その温かさがたまらなく心地よい。

 自然と眠気が近づいてきて、静乃の意識は暗闇に溶け込んでいった……。

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