ウラジミール

星野 淵(ほしの ふち)

第1話 時間加速理論

2045年 夏 アドリア連邦

アドリア連邦の夏は母国ナザレと比べて暑い。しかし、北部のドリア地域はナザレと同様に過ごしやすかった。ウラジミール・ミロフスキーは、太陽を見上げた。山岳部にあるナザレとは違い、平地のドリアでは太陽がよく見える。応用物理学研究所の中庭を歩きながら、空はこんなにも広かったんだなと、ウラジミールは今更のように感じた。


「ー教授、ミロコフスキー教授!」


呼ばれて振り返ると、一人の男が駆け寄ってきた。必死の形相に、ウラジミールは何かあったなと感じて声をかけた。


「どうしたんだい、モリ博士。そんなに息席切って」


落ち着かせるようにゆっくりと話しかけたが、コウゾウ・モリ博士は興奮冷めやらぬ表情で、ウラジミールに告げた。


「試験成功です!10分間の未来予測に成功しました!理論は間違っていませんでした!」


「なんと!」


落ち着かせようとしてたウラジミールも興奮を隠さなかった。時間加速理論が実証されたのだ。理論上可能、実質上不可能と言われた理論を実践したのだ。この研究に10年かけたウラジミールの喜びはひとしおだった。そして、彼は号泣するモリ博士の肩に手を置いた。


「私の理論を信じてついてきてくれたモリ博士がいなかったら、この研究が完成することはなかっただろう。なんと言葉にすればこの想いが伝わるのかわからないが、スパシーバ。ありがとう、同志」


応用物理学の権威であるウラジミールには長年の夢があった。それは人間は時間という壁を越えられるのかという問いを解明するというものだった。理論的な可能性については、すでに証明されていた。過去へ戻ることはできない。だが、未来なら可能性がある。ウラジミールは、それに賭けた。応用物理学を選んだのも、そのためだ。


しかし、卒業研究の段階で指導教官に却下されてしまった。「我々は物理学者であって夢想家ではない」代わりに与えられたテーマが、ウラジミールを量子コンピューティングの権威に押し上げた。量子コンピューティング分野で引用数の高い論文を発表し続けながらも、ウラジミールは夢を諦めなかった。天の采配か、量子コンピュータの計算力は時間加速理論の欠落を洗い出し、洗練させることが可能だった。夢に向かって一歩ずつ、歩みを進めた。


時間加速理論の完成が見え始めたとき、ウラジミールは実現の課題、工学分野の知識の壁にぶつかった。理論が完成しても、それをどう現実に落とし込むか。これは工学の高度な知識と技術が必要だった。時間加速理論は相変わらず荒唐無稽だと思われている。そのような理論の実現に協力してくれる共同研究者など思い当たらなかった。だが、実現のためには協力者が必要だ。ウラジミールは、一人の若手研究者に注目した。新進気鋭の工学博士。量子コンピューティング領域で数々の新たな発想の技術を実装している青年。コウゾウ・モリ博士。彼しかいない。ウラジミールは自分の夢と現在の理論の完成度、実装されるべき想定をまとめ、モリ博士にメールを送った。無視されて当たり前。だが、他に手はない。


モリ博士からの返信は短かった。ネット通話で話したい。こちらの時間に合わせて、日時が指定されている。ウラジミールは、柄にもなく緊張しながらその日を待った。


「初めまして、ミロコフスキー教授。コウゾウ・モリです」


画面に現れたのは、大学生かと見まごうような若い青年だった。引き締まった表情は彫像のようだったが、視線には強い意志を宿していた。ウラジミールの内面を見据えるような強い視線。ウラジミールは年齢差を意識せず、姿勢を正して答えた。


「初めまして、モリ博士。ウラジミール・ミロコフスキーです。本日は時間を作ってくれたことに感謝しています。なんでも聞いてください」


「ミロコフスキー教授。率直に言って、この研究は荒唐無稽だと学界では言われるでしょう。実現の可能性も低い。予算はつかない。どうやって研究を進めるご予定ですか」


当然の質問だった。膨大な予算が必要になる。ウラジミールは簡潔に答えた。


「私が自分で用立てます。幸い、起業による収入は安定しています。あなたの雇用費も研究費も全て、この収益から捻出します」


「予想収益から逆算すると、収益は0か赤字になります。あなたは安定した地位と豊富な資金がある。それにもかかわらず、資産をすべて失っても研究をされるという意味ですか」


「そうです。これは私の夢の実現に向けた投資です。私の資産をすべて注ぎ込んでも後悔はありません」


モリはしばらく黙り込んだ。しかし、強い視線は相変わらずウラジミールに向いている。測られている。ウラジミールは感じた。モリは一つ頷くと口を開いた。


「わかりました。依頼をお引き受けします」


モリのあっさりした言葉にウラジミールは驚いた。


「いいのですか、モリ博士。なんの成果も得られなかもしれない。あなたのキャリアを充実させるオファーがあるでしょう」


ウラジミールの言葉に、モリは苦笑した。


「確かに、そう言ったオファーがないとは言いません。ただ、面白くない」


「面白くない?」


おうむ返しに聞いたウラジミールに、今度ははっきりとした笑顔でモリは答えた。


「私のキャリアを賭けるなら、夢は大きい方がいい。オファーは私でなくとも実現可能です。だが、このオファーは私でなくては実現できない。少なくともミロコフスキー教授はそう思われた。違いますか?」


「いえ。その通りです。工学系の論文はすべて目を通しました。しかし、発想を飛躍させ、不可能を可能にする研究を推進できるのは、モリ博士以外いなかった」


「私がオファーを引き受けるのは、その評価で十分です」


モリは短く答えた。


「いつから始めますか?」


モリの疑問にウラジミールは身を乗り出した。


「すぐにでも。場所は確保してあります。必要な設備はすぐに揃えます」


「では来月にそちらに伺います。こちらに残した仕事を片付けなければいけませんので」


「ありがとうございます、モリ博士」


頭を下げるウラジミールにモリの苦笑した声が返ってきた。


「ミロコフスキー教授、あなたは私の上司だ。頭を下げるのは私の方です。よろしくお願いします」


そう言って通話は切れた。しかし、ウラジミールはまだ何も理解していなかった。

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