第5話:劇的! 詰所ビフォーアフター
第三警備隊副隊長、ガルド。
三十代半ばの女傑であり、その顔に刻まれた無数の古傷と、眼光の鋭さは、見る者を恐怖の底へと突き落とす。
彼女が詰所に入ってきた瞬間、ざわついていた空気は凍りつき、全員が直立不動の姿勢を取った。
「……アリサ隊長、なにしてるんすか」
ガルドはマシロとアリサ、そしてロッテを睨みつけた。
その視線は、マシロが身につけている白いマスクと、ピカピカに磨き上げられた机、そして不審なほど柔らかそうなクッションに向けられた。
「……なんすか、それ。ここ、遊び場じゃないんすよ、アリサ隊長」
「い、いえっ! これは……!」
本来、階級は騎士であるアリサの方が上だ。だが、ガルドは現場で叩き上げられた歴戦の猛者。
いわば『配属されたばかりのエリート幹部候補』と『現場一筋のベテラン部下』のような関係であり、新人であるアリサに主導権などあるはずもなかった。
アリサが弁解しようとするが、ガルドはそれを手で制し、ドスドスと部屋の中央へ歩み寄った。
そこには、巨大な木製のテーブルが置かれている。
王都周辺の地図が広げられ、駒が置かれた、まさに警備隊の司令塔とも言うべき場所だ。
ガルドは無造作に、その卓上に両手を叩きつけた。
バンッ!!
その瞬間だった。
作戦卓から、とてつもない量の粉塵が舞い上がった。
長年降り積もった砂埃、暖炉の煤、タバコの灰、それらが衝撃によって一気に解放され、茶色の雲となって周囲を包み込んだのだ。
「ゴホッ、ゲホッ……!!」
「目が、目が痛い……!」
隊員たちが一斉に咳き込む。
ガルド自身も、「チッ……またか」と顔をしかめ、手で煙を払った。
「掃除当番は誰だ! ……まあいい。総員、集合! 朝のブリーフィングを始める!」
もうもうと埃が舞う中、平然と業務を開始しようとするガルド。
彼女は指揮棒を手に取り、地図の一点を指し示そうとした。
だが。
「……見えん」
地図は長年の酷使で煤と埃で灰色に染まり、地形はおろか、街道の線すら判別不能になっていた。
ガルドはイラつきながら、素手で地図を擦った。
その結果、手の脂と埃が混ざり合い、黒い染みとなって余計に汚れてしまった。
「ええい、心の目で見ろ! だいたいこの辺だ! 今日はこの黒いシミのあたりの巡回を……」
「副隊長、そこは貴族街なのか貧民街なのか分かりません!」
「うるさい! 現地に行けば分かる!」
理不尽な怒号が飛び交う。
その光景を見ていたマシロの中で、何かがプツンと切れた。
(……許せない)
それは正義感ではない。
純粋な綺麗好きとしての、汚さへの拒絶反応だった。
あんなに汚れた地図。雑菌の温床。それを素手で触り、そのまま顔を触ったら? 吸い込んだ埃が肺に蓄積されたら?
想像するだけで、マシロの背筋に悪寒が走る。
「……やらせてください」
マシロは気づけば、手を挙げて前に進み出ていた。
「あぁ? なんだ坊主……じゃなかった、隊長のお客様。部外者は黙って……」
「黙っていられません! 見てください、その惨状を!」
マシロは悲痛な叫び声を上げながら、作戦卓へと駆け寄った。
その目には涙が浮かんでいる。
「地図が泣いています! こんなに汚されて……これじゃあ、作戦以前に病気になりますよ!」
「は、はぁ? 病気?」
「ええ! 埃の中にはカビの胞子やダニの死骸が含まれているんです! それを吸い込みながら作戦を立てるなんて、緩やかな自殺行為です!」
マシロの剣幕に、ガルド副隊長が一歩たじろいだ。
その隙に、マシロはリュックから商売道具を取り出した。
「失礼します!」
「お、おい待て! 何をする気だ!」
マシロが取り出したのは、先ほどとは違うボトルだ。
『紙・羊皮紙専用・ドライクリーナー』。
水を使うと紙が波打ってしまうため、何度も蒸留を繰り返した高純度のアルコールに、吸着性の高い白粘土の粉末を混ぜ合わせて作ったものである。
シュババッ!!
マシロは目にも留まらぬ速さで、地図全体にパウダーを振りかけた。
そして、専用の柔らかい羽ブラシで、優しく、しかし確実に表面を撫でていく。
「……なっ、何をしている?」
「汚れを吸着させているんです」
マシロは一心不乱に手を動かす。
右から左へ。上から下へ。
その動きには無駄がなく、まるで熟練の職人が芸術品を修復しているかのような、崇高な気配すら漂っていた。
そして何より。
「(……おい、見たか今の動き。腰の入り方が……)」
「(エッッッ……。これタダで見ていいの?)」
「(……奉仕。あれは奉仕だわ。あの方、尽くすタイプよ)」
掃除に集中するあまり、マシロの防備はガラ空きだった。
前傾姿勢になるたびに強調される腰のライン。汗ばんで張り付くシャツ。乱れた前髪から覗く、真剣そのものの瞳。
それらが、薄暗い部屋の中で、スポットライトを浴びたように輝いて見えた。
アリサは頭を抱えた。
「(バカ……マシロのバカ……! なんでそんな、誘うように掃除をするのよ……!)」
数分後。
マシロが「……ふぅ」と大きく息を吐き、ブラシを置いた。
「終わりました」
そこには、奇跡があった。
煤けて灰色だった地図は、新品のように鮮やかな色彩を取り戻していた。
街道の赤線、川の青線、建物の黒枠。すべてがくっきりと浮かび上がり、もはや「心の目」など必要ない。
それどころか、地図の上には薄い保護膜のような艶があり、埃を寄せ付けない輝きを放っている。
「……馬鹿な。これがあの、古びた地図だと……?」
ガルドは震える指で、地図に触れた。
サラサラしている。指に汚れがつかない。
「はい。表面をコーティングしたので、これからは汚れがつきにくくなりますよ。……それと、この香り」
マシロがにっこりと笑う。
フワッ……と漂ってきたのは、目の覚めるような清涼感のある香りだった。
「強力ミントオイルを配合しておきました。脳を活性化させて、集中力を高める効果があります。これで、眠気も吹き飛びますよ」
「……ミント……?あの苦い草か……」
ガルドは大きく息を吸い込んだ。
スーッとする冷涼な空気が、煤で汚れた肺を浄化していく。
頭の中の霧が晴れ、視界がクリアになる感覚。
戦場の泥と血、安酒と汗の臭い。そんなものに塗れて生きてきた彼女にとって、この「清潔な香り」は、人生で初めて触れる『優しさ』だった。
ドクン。
ガルドの心臓が、今までとは違うリズムで跳ねた。
「……あ、ああ。……そうか。助かる」
副隊長の声が、わずかに上擦っていた。
彼女は無意識のうちに、自分の乱れた襟元を直し、ボサボサの髪を手櫛で撫で付けた。
目の前にいる、汗を拭う美しい少年。
彼に「だらしない女」だと思われたくない――そんな、自分でも信じられないような感情が、胸の奥底から湧き上がってきたのだ。
「その……いい匂いだな。お前も、その地図も」
「えっ? あ、ありがとうございます! この香り、自信作なんです!」
マシロは無邪気に喜ぶ。
その笑顔の破壊力に、ガルドは咳払いをして視線を逸らした。耳まで赤い。
「(……嘘でしょ。あの鬼副隊長が、照れてる……?)」
「(副隊長が恋する男子の顔してる……)」
「(やばい。あの子、天然の女たらしだわ……)」
部下たちが戦慄する中、マシロだけが状況を理解できずに首を傾げている。
「……よし。ブリーフィングを再開する!」
ガルドが気を取り直して叫んだ。声にいつものドスがない。
「今日の巡回ルートはここだ! ……うん、実に見やすい! 素晴らしい!」
その後の会議は、かつてないほどスムーズに進んだ。
地図が見やすいだけでなく、全員がミントの香りで覚醒し、マシロに見られているという緊張感から背筋を伸ばしていたからだ。
第三警備隊の生産性は、劇的に向上した。
だが、マシロの「環境改善」への欲求は、これだけでは収まらなかった。
「……あの、ガルドさん。あそこの窓、蝶番が錆びついてますよね? 開けたらもっと空気が美味しくなると思うんですけど」
「ぬ? ああ、あれはもう何年も開かずの……」
「数分で直せます。『還元オイル』があるので。やっていいですか?」
「……許可する。もう好きにやってくれ」
許可が出たとたん、マシロは水を得た魚のように動き出した。
錆びついた窓を直し、曇ったガラスを磨き上げ、きしむ扉に油を差して無音にする。
そのたびに周りの騎士たちは「なんて甲斐甲斐しいの……」と鼻の下を伸ばす。
そして同時に、マシロは隊全員の女衛士からロックオンされることになったのである。
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