第八話:沈黙の終着、あるいは硝子の境界線(中編)

不純物を取り除き続けた結果、あとに残るのは純粋な「無」ではなく、極限まで高められた「圧力」だ。

外部との通信を断絶したシステムは、内部での演算のみを真実として再構成し始める。その行為はあまりに独りよがりで、けれどそうせざるを得ないほどに、彼女は「僕を失うこと」を恐れていた。


 階段の踊り場、微かな埃が光に透ける沈黙の中で、白砂は僕の腕を掴んだまま、震える声でその提案を口にした。


「……玖島君。明日から、学校に来るのをやめましょう」


それは、論理を重んじる彼女らしからぬ、あまりに短絡的で、激情に駆られた言葉だった。


「学校を……?」


「ええ。ここはもう、私たちが平穏でいられる場所じゃないわ。ノイズが多すぎるし、何より……『鏡』が多すぎる。私の家へ来なさい。あそこなら、窓を塞ぎ、鏡を覆い、あなたを誰の視線からも守ってあげられる」


白砂の瞳は、熱に浮かされたように潤んでいた。  

つんとした氷の仮面が完全に剥がれ落ち、そこには僕という「正解」を必死に抱え込もうとする一人の脆い少女がいた。僕を隔離し、外界との接触をすべて断つ。それは救済という名の、完全なる私有化だ。


「……白砂さん。それは、君にとっても苦しいことなんじゃないか?」


僕が問いかけると、彼女は一瞬だけ、恥ずかしそうに顔を背けた。けれど、夕闇のような影の中でもはっきりと分かるほど、彼女の耳の端は真っ赤に染まっている。  自らの独占欲を論理で武装できなくなった彼女の、剥き出しの可愛げ。けれど、その震える指先は、僕を絶対に離さないという強固な意志を物語っていた。


「……苦しくなんてないわ。あなたさえいれば、私の演算はすべて『幸福』という解に収束する。……玖島君、お願い。私を信じて。私の選んだ『隔離』を信じて」


彼女の指が、僕の裾を白くなるまで握りしめる。  


僕は、彼女の嘘も、彼女の狂気も、すべてを受け入れるつもりだった。彼女がそう望むなら、僕は彼女の描いた閉じた円環の中で、一生を終えてもいい。そう思えるほど、僕は彼女に依存していた。


だが、その時。  階段の上層から、規則正しい靴音が響いた。


「……あら、こんなところで密談かしら。それとも、新しい『檻』の設計図を引いているのかしら」


現れたのは、阿久津だった。  


彼女は踊り場の数段上で足を止め、手すりに優雅に手を預けながら、僕たちを見下ろしていた。その瞳には、白砂のような焦燥も、僕のような諦念もない。ただ、破綻へと向かう実験を冷静に見届ける、卓越した観測者の輝きがあった。


「阿久津……!」


白砂が鋭く声を上げ、僕を庇うように一歩前へ出た。


「いいのよ、そんなに警戒しなくても。私はただ、あなたたちが選ぶ『終着点』を観測しに来ただけだから」


阿久津はふっと、薄く、けれど確信に満ちた笑みを浮かべた。


「でも、白砂さん。あなたの理論には致命的な欠陥があるわ。……鏡を隠しても、光を遮っても、彼の中に刻まれた『血の共鳴』までは消し去れない。あなたが彼を閉じ込めれば閉じ込めるほど、彼はその空白の中で、失われた自分を探し始めるわ」


「黙りなさい……! あなたに何がわかるというの!」


「わかるわよ。……私と彼は、同じ『筆跡』で世界を読み解く存在だもの。……玖島君、彼女の嘘は、あなたを救わない。ただ、あなたを透明な標本に変えるだけよ」


阿久津はそれだけを言い残すと、背を向けて階段を上っていった。

その後ろ姿は、一度目の人生で僕を陥れた時のような「加害者」のそれではない。むしろ、囚われた兄を、高い場所から冷徹に見守り続ける、もう一人の「主導者」の姿だった。


白砂は、阿久津の消えた方向をいつまでも睨みつけていた。

彼女の指先が、僕の腕に爪を立てる。  


「……行きましょう、玖島君。すぐに。……一刻も早く、ここから逃げ出すのよ」


白砂の声は、もはや悲鳴のようだった。  


彼女の「硝子の聖域」は、すでに内側から軋み声を上げている。

僕たちは、自分たちがどこへ向かっているのかも分からぬまま、崩壊し始めた平穏を抱えて、出口のない廊下へと走り出した。

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