第七話:再演のトリガー(後編)
観測者が自らの都合に合わせてデータを改竄したとき、そのシステムは一時的な平穏を得る。
それは記述の矛盾を一時的に回避したに過ぎず、演算の負荷はすべて隠蔽という名の非線形なプロセスへと転嫁される。
嘘をつくことよりも、その嘘が暴かれないように振る舞い続けることの方が、遥かに自らを削る行為なのだ。
神社の境内から駅へ向かう帰り道。
白砂は僕の裾を掴む指先に、今までにないほどの熱を込めていた。彼女の吐いた「偽りの記憶」という嘘は、僕を守る盾であると同時に、彼女自身を縛り付ける鎖にも見えた。
「……行きましょう、玖島君。この街の空気は、あなたにとって毒でしかないわ」
白砂の声には、冷徹な独占欲が滲んでいた。
だが、駅前のロータリーで僕たちを待っていたのは、バスの到着を待つクラスメイトたちの喧騒、そしてその中心で泰然と佇む阿久津の姿だった。
彼女は僕たちの姿を認めると、取り巻きたちから静かに離れた。
傷ついた様子も、狼狽える素振りもない。そこにあるのは、嵐の前の静寂のような、圧倒的な「個」の存在感だった。
「白砂さん。……随分と、鮮やかな上書きをしたのね」
阿久津の声は、驚くほど透き通っていた。
白砂は僕の前に立ち、威嚇するように彼女を睨み据える。だが、阿久津はその視線を、まるで春風を受け流すように軽くあしらった。
「玖島君。……あなたの隣にいる彼女は、とても優秀な編集者だわ。あなたの過去を、不都合なノイズとして切り捨て、自分に都合の良い『物語』へと仕立て直してくれる。……でも、一つだけ彼女が計算違いをしていることがある」
阿久津は一歩、僕たちの方へ踏み出した。
白砂の背中が、微かに強張る。
「真実を偽りと定義しても、その事象が消えるわけではないの。むしろ、否定すればするほど、その否定という行為自体が『そこには隠すべき何かがある』という強固な論証になってしまう。……そうでしょう? 白砂さん」
「……黙りなさい。あなたの詭弁に、彼を惑わせる隙なんて与えないわ」
白砂が鋭く言い放つ。だが、阿久津はふっと、皮肉な、けれどどこか美しい笑みを浮かべた。
「詭弁ではないわ、論理よ。……玖島君、あなたが今抱いている既視感を『工作』だと信じ込むのは勝手よ。けれど、もしそれが本当の工作なら、どうして私は、あなたに思い出させる必要なんてあるのかしら?」
阿久津は僕の瞳を、射抜くような強さで見つめた。
「一度目の人生と同じように、ただあなたを孤立させ、破滅させれば済む話。……それを選ばず、わざわざあなたの『聖域』を揺さぶっている理由。……その不整合(バグ)を解決できるのは、彼女の嘘ではなく、あなた自身の直感だけよ」
彼女の言葉は、冷徹なまでの自信に満ちていた。
自分を拒絶し、嘘を真実だと言い張る僕と白砂の姿を、彼女は「絶望」するのではなく、むしろ「憐れみ」を持って見守っている。その精神的な優位こそが、彼女の持つ強さだった。
「バスが来るわ。……今日のところは、彼女の『優しい檻』の中でゆっくり休むといいわ。……でも、覚えておいて。鏡を隠せば隠すほど、あなたが自分の顔を忘れていくだけだということを」
阿久津はエレガントに背を向け、バスの列へと戻っていった。
その後ろ姿には、一度目のような「僕を陥れようとする悪意」ではなく、もっと重く、冷たい「確信」が宿っていた。
白砂の指が、僕の裾を白くなるまで握りしめる。
彼女の震えは、もはや恐怖ではなく、自分の構築した論理が阿久津という正解によって浸食されていくことへの、焦燥と、剥き出しの敵意だった。
「……玖島君。何も聴かないで。何も、信じないで」
白砂の囁きは、昨日よりもずっと、悲痛な祈りに近づいていた。
夕闇の駅前、バスの排気音に混じって、あの風鈴の音がどこからか聞こえた気がした。
阿久津という地雷は、まだ爆発していない。彼女はただ、僕たちが自らの嘘の重みで自壊する瞬間を、最も美しい席で待っているのだ。
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