第五話:無意識の同期(後編)

 均衡が崩れるのは、常に内部からの「変数」によるものではない。

 観測者がその場を離れた瞬間、系全体のエントロピーは急激に増大し、守られていたはずの秩序は熱力学的な崩壊を始める。そして、一人が席を立ったことで生じたその小さな隙間は、招かれざる「真実」が滑り込むには十分すぎるほどの空間だった。


 白砂が教室を出てから、わずか数分。

 彼女の指先の熱が消えた僕の左袖は、ひどく心許なく、冷気に晒されているような感覚があった。彼女という「アンカー」を失った僕の存在は、この真空の教室の中で、行き場を失い浮遊している。


 ふと、視界の端で何かが動いた。


「……綺麗な、数式だったわ」


 鈴の鳴るような、けれどどこか湿り気を帯びた声。

 顔を上げると、そこには阿久津が立っていた。彼女は僕の机から一定の距離を保ち、聖域を侵食しないというポーズを取りながら、けれどその瞳だけはまっすぐに僕を射抜いていた。


「阿久津さん。……何の用かな」


 僕は努めて平熱の声を出す。白砂との約束——「能動的な無知」を守るために、僕は彼女をただのクラスメイトとして、あるいは一度自分を陥れた舞台装置として処理しようとした。


「いいえ、ただ。……あの小テストの解答、最後の最後で、あなたは『論理を一段飛ばした』でしょう? ……あれは、誰かに教わったもの?」


 阿久津は僕の問いには答えず、ただ確認するように首を傾げた。その仕草、その視線の動かし方。やはり、僕の中に棲む「僕自身の癖」とあまりにも重なりすぎる。


「……直感だよ。効率を考えたら、ああなっただけだ」


「直感。……ええ、そうね。私たちにとっては、それが一番効率的だものね」


 彼女は「私たち」という言葉を、何でもないことのように口にした。

 その響きに、僕の脳裏で火花が散る。一度目の人生での憎悪。二度目の人生での違和感。それらが「血」という名の太い鎖で編み上げられていくような、不快な予感。


「……変なことを言わないでくれ。僕と君に、共通点なんてない」


「今は、そうかもしれないわ。……でもね、玖島君。あなたが今、無意識に左手で机の端をなぞっているそのリズム。……私が子供の頃、隣で誰かがずっと刻んでいたリズムと、全く同じなの」


 僕はハッとして左手を見た。

 言われるまで気づかなかった。僕は、思考を整理する際、無意識に特定のテンポで指を動かしていた。それは誰に教わったわけでもない、僕固有の、無機質な習慣。


「それは……」


「思い出さなくていいわ。あなたがそれを望まないなら。……ただ、これだけは覚えておいて。鏡をいくら隠しても、光が差せば、反射する像は消せないのよ」


 阿久津はそれだけを言い残すと、僕が反論する間も与えず、風のようにその場を去った。彼女が去った後には、微かな花の香りと、耐えがたいほどの既視感だけが澱(よど)みのように残された。


 僕は一人、静まり返った教室に取り残される。


 白砂はまだ、戻らない。


 左袖の虚無感が、かつてないほど重く、僕にのしかかっていた。


 ---


 同じ頃。  

 校舎の北側、陽の光が届かない資料保管室の片隅で、白砂は埃っぽい空気の中に立ち尽くしていた。


 彼女の目の前には、長年放置されていたであろう古い地域広報のバックナンバーや、統合前の学校から引き継がれた断片的な資料が散らばっている。


 彼女の指先が、ある一点で止まった。


 それは、十数年前の地方紙の、ごく小さな「家族の移動」を記録した短信、あるいは何らかの事務的な通知の写しだったのかもしれない。

 白砂はその記述を、何度も、何度も、壊れた機械のように反芻した。


「……ありえないわ」


 彼女の唇から、乾いた声が漏れる。


 論理が、導き出した答えを拒絶していた。


 玖島と、阿久津。  


 二人の間に存在する、統計学的な偶然では説明のつかない「一致」。その根源にある、致命的なバグ。  白砂はその「答え」を脳内で定義した瞬間、かつてないほどの激しい嘔気(おうき)に襲われた。

 彼女が最も嫌い、避け続けてきた「鏡」の正体。


 それが、今、彼女の手の中にあった。


「……これは、ノイズよ。あってはならない、ただの不具合(エラー)だわ」


 白砂は、見つけた資料を指が白くなるほど強く握りしめた。


 彼女は気づいている。この真実が公になれば、自分が作り上げた「二人だけの聖域」は、血という名の濁流に飲み込まれて消えてしまう。


 玖島が自分だけを見て、自分だけを必要としてくれる、この真空の平穏。


 それを守るためなら、たとえ神が定めた設計図であっても、彼女はそれを「間違い」として破棄するだろう。


 資料を握りつぶし、白砂は暗がりの中で一人、冷徹な笑みを浮かべた。

 彼女の瞳には、愛する者を隔離し続けるための、深淵よりも暗い決意が宿っていた。    


 白砂はその日、結局教室には戻らなかった。    


 放課後の教室で一人、存在しないはずの裾の感触を求めて空を切る僕の手。


 その無防備な背後を、阿久津の残した言葉だけが、毒のように蝕み続けていた。

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