第四話:真空の平穏と、アンカーの定義(中編)

 均衡とは、複数の力が互いを相殺した結果生じる静止状態を指す。  


 僕たちが手に入れたこの「平穏」もまた、自然発生的なものではなく、何らかの意志によって精密に調律された結果であることに、僕は気づき始めていた。


 放課後の図書室。  

 開け放たれた窓から吹き込む風が、古い紙の匂いと春の埃を運んでくる。ここでもまた、僕たちの周囲には不可視の境界線が引かれていた。他の生徒たちは、僕たちが座るテーブルから少なくとも三つは離れた席を選び、私語を交わす際も声を極限まで押し殺している。


 それはもはや「無視」ではない。  

 神域に触れることを禁じられた敬虔な信徒のように、彼らは僕たちの領域を侵さないよう、細心の注意を払って「配慮」していた。


「……不自然だと思わない?」


 隣で参考書を解いていた白砂が、唐突にペンを止めた。  

 彼女の視線は、僕ではなく、図書室の入り口近くで静かに本を選んでいる阿久津へと向けられていた。


「何が?」


「この静寂よ。三十人以上の人間が、一週間もの間、一切の綻びもなく特定の二人を疎外し続ける確率は、統計学的に見て極めて低いの。誰か一人は好奇心に負け、誰か一人は同情を寄せ、誰か一人は無意識に境界を越えるはずだわ」


 白砂は僕の袖の裾を、確かめるように指先で強く捻った。


「それが起きていないのは、この隔離環境を維持するための『圧力』が、外側からかかっているからよ」


 僕は阿久津の方を見た。  

 彼女はこちらを見ようともせず、ただ棚から一冊の文芸書を抜き取り、カウンターへと向かっている。その歩調はゆったりとしていて、優雅ですらあった。  

 阿久津は一度目の人生で僕を社会的に抹殺した時も、このようにして「空気」を操っていた。だが、今回はその方向が逆だ。彼女は僕を排除するのではなく、むしろ白砂と二人きりの「檻」を壊さないよう、外側から補強しているように見える。


「……彼女、何が目的なんだろう」


「わからないわ。でも、確かなことが一つだけある」


 白砂は立ち上がり、僕の耳元に顔を近づけた。冷たい髪が僕の頬を撫で、微かな石鹸の香りが鼻腔を突く。彼女の瞳は、阿久津という不確定要素に対する、純粋な殺意に近い拒絶を湛えていた。


「彼女は、私と同じことをしている。……あなたを、この『真空』に閉じ込めておこうとしているわ」


 その時、図書室の静寂を破るように、受付のカウンターから小さな音が響いた。  阿久津が貸し出し手続きを終え、図書カードを財布に仕舞おうとして、誤って小銭を床に落とした音だった。


 反射的に、僕は体を動かそうとした。だが、それよりも早く、僕の体には奇妙な「感覚」が走った。  

 床に転がる百円硬貨。その動きを追い、拾い上げる際の手の角度、膝を折るタイミング、そして拾い上げた後に一瞬だけ空を仰ぐ癖。


 ――僕が、全く同じ状況で取るであろう動作のすべてを、十メートル離れた阿久津が「再現」していた。


 彼女が拾った硬貨を眺める横顔。その唇が、微かに動いた。

 それは僕だけに聞こえるはずのない、けれど僕の頭の奥で再生される、特定の「思考の残響」のように思えた。


 白砂の手が、僕の腕を痛いほどに掴んだ。

 彼女の鋭い視線は、僕の顔と阿久津の顔を、幾度も往復している。彼女の知性は、そこに存在する「説明のつかない相似」を、決して見逃さなかった。


「……玖島君。行こう」


 白砂の声は、どこか震えていた。

 彼女は僕の答えを待たずに、半ば強引に僕を席から立たせた。阿久津はこちらを一度も振り返らなかったが、背中越しに、彼女が満足げに目を細めているような幻覚が脳裏に張り付いて離れなかった。


 僕たちは図書室を出て、夕闇が忍び寄り始めた廊下を急ぐ。

 白砂の指先は、僕の裾を離さない。いや、離せなくなっているようだった。


 僕の思考の深淵に潜む「何か」を、僕自身よりも早く、白砂という観測者が暴こうとしていた。

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