第三話:綻びを愛でる(後編)
静寂。それは、情報の欠落が生む物理的な現象だ。
僕が指摘した「時間の矛盾」に対し、阿久津は反論しなかった。彼女はただ、何かを深く演算するように僕を見つめ、それから隣に立つ白砂へと、一瞬だけ視線を走らせた。
二人の視線が空中で、火花を散らすこともなく静かに交錯する。
刹那の停滞。だが、その瞬間に何らかの合意、あるいは「盤面の読み合い」が完了したことを、僕は直感的に悟った。白砂は口を開かず、ただ僕の隣で彫像のような静謐さを保っている。彼女が鞄の奥に秘めた「何か」が日の目を見ることは、もうないのだろう。
「……あ。……嘘、あった」
沈黙の糸を断ち切ったのは、阿久津の、拍子抜けするほどに抜けた声だった。
彼女は自分のロッカーの棚の隅、わずかな隙間に指を差し込み、そこからあの茶封筒を「発見」してみせた。その動作には一分の澱みもなく、まるで最初からそこにあることを知っていたかのような、流麗な所作だった。
「ごめんなさい。私、あまりに焦っていて……。玖島君からお金を受け取った後、急いで資料と一緒に突っ込んじゃったみたい。鍵をかけたと思い込んでたのも、私の勘違い。……本当に、ごめんなさい」
阿久津は集金袋を両手で抱え、深々と頭を下げた。
一分の隙もない、完璧な謝罪。白砂が動くよりも早く、彼女は自ら「出口」を作り出し、致命的な破滅を「うっかりしたミス」へと書き換えてみせた。彼女は単なる悪役ではない。自らの格を保ちながら、盤面を最小限の被害で収束させる、卓越した演者だった。
教室内には、安堵というよりは、胃の腑に溜まるような居心地の悪さが広がった。 阿久津のミスをそこまで冷徹に、そして残酷なまでに論理的に追い詰めた僕の言葉。そして、それを無言で肯定し続けた白砂の、血の通わない彫像のような佇まい。 潔白は証明された。だが、クラスメイトたちの目には、僕たちは「正義を執行した英雄」ではなく、「平穏な日常を壊し、クラスの女王を窮地に追い込んだ、薄気味悪い二人」として焼き付いてしまった。
「玖島君、白砂さん。……本当に、ごめんなさい。私、自分が情けないわ」
阿久津が顔を上げる。その瞳は潤んでいるが、その奥底に沈殿している「何か」を、僕は見逃さなかった。
彼女は負けたのではない。
僕たちが、この教室という社会から完全に「断絶」されるという代償を払って勝利したことを、誰よりも正確に観測し、悦んでいた。
生徒たちは、波が引くように僕たちから距離を置いた。
阿久津の周りには再び人々が集まり、「大変だったね」「見つかってよかった」と、偽りの平穏を再構築するための言葉を投げかけている。
僕たちに向けられるのは、ただ一つ。理解できない異分子を遠ざけようとする、動物的な回避の視線だけだった。
「……行きましょう、玖島君」
白砂が、僕の腕を抱きしめるようにして歩き出した。
彼女は阿久津を振り返ることさえせず、その表情には、目的を果たした者だけが浮かべる甘美な充足が宿っていた。
渡り廊下に出ると、校舎の長い影が、僕たちを世界から切り離すように伸びていた。 白砂は僕の胸元に顔を預け、独占欲に満ちた、熱い、熱い吐息を漏らした。
「世界が私たちを棄てたのではないわ。私たちが、世界を棄てたのよ」
白砂の声には、阿久津への怒りも、謝罪への不満もなかった。彼女にとって、阿久津の罪を暴くことなど、さして重要ではなかったのだ。
「……これで、ようやく二人だけになれた。そうでしょう、玖島君?」
白砂が顔を上げる。その瞳は、夕闇のなかで暗く、美しく光っている。
クラスからの孤立。人々の畏怖。それこそが、彼女が僕のために望み、僕が彼女のために受け入れた「幸福」の形だった。
教室の入り口で、クラスメイトたちに囲まれて慰められながら、阿久津がこちらをじっと見つめていた。
けれど、今の僕には、隣で震えるこの重すぎる愛の重力だけが、唯一の確かな現実だった。
二度目の人生、僕は「正しさ」を手に入れた。
そしてその代償として、白砂が作り上げた、甘美で残酷な「硝子の檻」の中に、完全に閉じ込められたのだ。
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