第二話:沈黙という名の加護(前編)
学校という場所が生産しているのは、知識ではなく「合意」だ。
他者と同じリズムで呼吸をし、同じ色彩を美しいと認め、同じ標的を排除することに同意する。その同調圧力という名の歯車が、今日も校舎のあちこちで、鈍い摩擦音を立てながら回転している。
かつての僕は、その歯車の回転に必死で自分を合わせようとして、最後には摩耗し、粉々に砕け散った。
二度目の人生、四月。
教室を支配する空気は、昨日よりも一段と粘り気を増していた。
「ねえ、玖島君。ちょっと、放課後にお願いがあるんだけど……」
休み時間。僕の席を訪れたのは、阿久津だった。
彼女は、春の陽だまりをそのまま形にしたような、眩しい微笑みを浮かべている。米澤作品に登場する「解決されるべき謎」のように、その瞳の奥には、一見しただけでは読み取れない複雑な意図が、繊細な万華鏡のごとく揺らめいていた。
「……お願い? 委員会か何かのことかな」
「ううん、もっと個人的なこと。私、今度のクラス対抗行事の実行委員に選ばれちゃったでしょ? 玖島君、パソコン得意そうだし、資料作りを少しだけ手伝ってほしいなって」
阿久津は、潤んだ瞳で僕を見つめる。
それは、相手の拒絶をあらかじめ封じ込める、完璧な「弱者」の演技だ。一度目の人生での僕は、この無垢な依頼を快諾した。その結果、彼女のずさんな会計処理の責任をすべて押し付けられ、泥棒の汚名を着せられることになったのだ。
彼女の美しさは、毒を持つ花に似ている。
瑞々しく、芳しく、けれどその蜜を啜ろうとした瞬間に、逃げ場のない神経毒が回る。
僕が断りの言葉を喉の奥で選んでいると、不意に、隣の席から絶対零度の静寂が流れ出してきた。
「非効率的だわ」
白砂が、読んでいる文庫本から一度も目を離さずに言い放った。
彼女は、凛とした背筋を一切崩さず、まるでそこに人間など存在していないかのように、空間そのものを拒絶している。
「……白砂さん。何か言った?」
阿久津が、笑顔の裏側に一筋の鋭い不快感を忍ばせて問い返す。
白砂は、ゆっくりと、機械的なまでに優雅な動作で顔を上げた。
「あなたの依頼には、論理的な妥当性が欠落していると言ったのよ。阿久津さん」
白砂の瞳は、阿久津という存在を透過して、その背後にある虚無を見つめているようだった。高潔で、人を寄せ付けない雪山のような佇まい。けれど、その薄い唇から零れる言葉には、確かな熱量を持った「拒絶」が宿っている。
「玖島君は、実行委員ではないわ。他人の職務を代替させることによるリソースの搾取は、組織の健全性を著しく損なう。……それに、何よりも不愉快だわ。私の隣にあるべき静寂を、あなたの低俗な打算で汚されるのは」
「打算だなんて、ひどいな……。私はただ、玖島君なら頼りになるかなって思っただけで」
阿久津は悲しげに肩を落としてみせるが、白砂は眉ひとつ動かさない。
「その『頼りになる』という評価の根拠を提示しなさい。……できないはずよ。あなたは彼を理解したいのではなく、単に自分の負担を転嫁できる『部品』として見定めているだけなのだから」
白砂の言葉は、鋭利なガラスの破片のように、阿久津の完璧な仮面を容赦なく削り取っていく。
教室内の空気が、凍りつく。周囲の生徒たちは、この「陽」と「陰」の頂上決戦に、息を呑んで注目していた。
白砂は僕の方を向くと、それまでの冷徹さが嘘のように、まつ毛を微かに震わせた。 彼女は僕の袖の端を、まるで壊れ物を扱うような手つきで、指先だけでそっと摘む。
「……玖島君。あなたは、こんな砂利のような言葉に耳を貸す必要はないわ。放課後は、私と図書室へ行く。……そう決まっているのだから」
彼女の態度は、依然として突き放すような厳しさを帯びている。
けれど、僕を見つめるその瞳の奥には、世界に自分たち二人しか存在しないことを切望するような、狂おしいほどの独占欲が、深い闇の底で燃え盛っていた。
阿久津は、しばらくの間、無言で白砂を見つめていた。
やがて、彼女はふっと力を抜いて、いつもの明るい笑顔に戻る。だが、その瞳には、獲物を逃した悔しさではなく、より深い階層の「獲物」を見定めた狩人のような、不気味な光が宿っていた。
「……わかった。邪魔しちゃってごめんね、二人とも」
阿久津が背を向けて去っていく。
その去り際、彼女が小さく舌打ちをしたのを、僕は聞き逃さなかった。
隣では、白砂が再び本に視線を戻している。
だが、僕の袖を摘む彼女の手は、いつまでも離されることはなかった。その指先から伝わってくる脈動は、驚くほど速く、重い。
救われたはずの僕の心は、なぜか、一度目の絶望とはまた違う、甘美で息苦しい監獄へと、一歩ずつ足を踏み入れているような予感に震えていた。
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