第2話 カウンター席の肉豆腐定食物語
小生の名は、
第一営業部、万年平社員である。
小生の才能は、二つある。一つは謝ること。もう一つは、その後に腹を空かせることだ。
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月曜日というものは、いつだって、特別なことをしない顔をしてやって来る。
小生はいつも通りの時刻に起き、いつも通りの電車に揺られ、いつも通り第一営業部の席に座っていた。
机の上には週末を越えて戻ってきた書類の山。
変わらぬ風景である。
変わらぬ中で、唯一、少しだけ変わるのは人の顔だ。
――濱田が、朝から落ち着かない。
電話を切るたび、椅子の上で二センチほど跳ねている。
嫌な予感というものは、職場では音を立てずに静かに近づいて来るのだ。
「文谷さん……」
十分後、その予感はきちんと形になる。
不意に顔を上げた、濱田の視線が小生に向いている。
先方との行き違い。
納期の勘違い。
内容は軽い。
軽いが、軽いからこそ、余計な感情が付着しやすい。
大杉課長は眼鏡の位置を直し、光石係長は、すでに申し訳なさそうな顔をしている。
「……文谷。濱田と行ってきてくれ」
「……はい」
小生の返事は、いつもこの一語で足りる。
謝罪というものは、準備をしすぎると空回りする。
軽く、早く、低く。
小生はその三つだけを胸に入れて、濱田と会社を出た。
得意先でのやり取りは、拍子抜けするほど穏やかだった。
先方は濱田の必死な説明に頷き「若いんだから、そういう事もあるよ」と言った。
小生はその横で頭を下げ、必要な分だけ謝った。
それ以上でも以下でもない。
ビルを出ると、昼前の空気が、少し冷たい。
「本当にすみませんでした……」
濱田は歩きながら、まだ謝っている。
「もうそんなに謝らなくていいよ。先に戻って報告してくれるかな」
「は、はい……!」
濱田は頭を下げ、駅の方へ小走りに消えていった。
小生は、駅とは逆へ歩き出す。
謝罪のあとは、いつも少し宙に浮く。
仕事が終わったわけではないのに、一つの山を越えたような空白が生まれる。
その空白を埋めるように、小生は、古い商店街へ入っていた。
平日の昼である。
人は少なく、シャッターの下りた店が目立つ。
その中に、色の抜けた暖簾が一枚、揺れていた。
ガラス越しに、湯気。
黒板に、白いチョークで、
≪肉豆腐定食≫
と書いてある。
「肉豆腐、とは……」
小生は立ち止まる。
「主役になりきれぬ料理であるな」
揚げ物ほどの力はない。
刺身ほどの華もない。
だが、確実に、ここにいる。
小生は、その暖簾をくぐっていた。
店内は静かだった。
先客は二人。
工事服の男が一人、窓際に。
新聞を広げた老人が、奥に。
テレビは音を絞ったワイドショーを映している。
カウンターの奥で、女将が一人、鍋を見ていた。
水が置かれ、注文を告げると、女将は小さく頷いた。
鍋の中で具材が静かに動く音。
包丁がまな板に触れる音。
小生は、それを聞きながら、背中の筋肉が少しずつ緩んでいくのを感じていた。
やがて、小さな鍋が置かれる。
牛肉。豆腐。長ねぎ。湯気。
華はない。だが、やけに胸に沁みる。
まず、汁をひと口。
「……これは、疲れた心に染み渡る」
甘くない。
だが、辛すぎることもない。
ただ、出汁が効いている。
体の奥に、すとんと落ちる。
豆腐を崩し、肉を巻く。
白い飯に乗せる。
口に運ぶ。
熱い。
小生は、少しだけ目を閉じた。
「これは、謝罪を済ませた人間の飯であるな……」
頭を下げ、声を整え、空気を読む。
そのあとに食べる飯は、ちょうどいい。
濱田の青い顔が浮かぶ。
光石の伏せた目。
大杉の長い嫌味。
そして、その横に立っている自分。
小生は、ふと思った。
小生は、謝ることで、この場所にいるのではないか。
売上を誇れるわけでもない。
人を引っ張れるわけでもない。
だが、現場からは消えない。
鍋の中で豆腐は崩れ、肉に絡み、それでも、鍋からはなくならない。
小生は、そんなことを考えながら、最後の一口を運んでいた。
その時、工事服の男が、小さく言った。
「……これ、うまいな」
老人が、新聞の向こうで頷いた。
女将は何も言わなかったが、ほんの少しだけ、口元が動いた。
三人とも、肉豆腐を食べている。
三人とも、何かを抱えている。
そして、三人とも、今は静かだった。
小生は、最後に汁を飲み干した。
熱が、腹に落ちる。
会計を済ませ、店を出る。
商店街の向こうに、会社のビルが見える。
小生は、コートの前を合わせ、歩き出した。
「さて……午後も、平社員であろう」
それでいい、と、思えた。
- 完 -
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