5億年ボタンを押した男の末路
@pajiru
第1話「死にたい人生」
液晶の中で、最後の「7」が虚しく通り過ぎた。 プツン、と心の中で何かが切れる音がした。財布に残ったのは、コーヒー一杯すら買えない数枚の銅貨。背後で鳴り響く軍艦マーチとジャラジャラという鉄の玉の音は、もはや自分の人生を嘲笑う葬送曲にしか聞こえなかった。
「……あーあ、死にてえ」
店を出ると、湿った夜風が熱を持った顔をなでた。 明日には家賃の督促が来る。消費者金融の着信は、もはやバイブ音だけで吐き気がする。 そんな時だった。
「死ぬくらいなら、五億年ほど、時間を潰してみませんか?」
換金所の影、街灯も届かない暗がりに、その男は立っていた。 安物のスーツだが、ピシッと折り目がついている。顔は影になって見えないが、歯並びのいい口元だけが三日月のように歪んでいた。
「……は? 宗教かよ。金ねえぞ」 「金なら、こちらが差し上げます」
男が差し出したのは、100均の防犯ブザーのような、チープな赤いボタンが載った小さな箱だった。
「このボタンを押せば、あなたはここではない異空間へ飛ばされます。そこで五億年を過ごしていただく。五億年経てば、あなたは元の場所、元の瞬間に戻ってくる。肉体の老化もありませんし、あちらでの記憶も全て消去されます。報酬は、一回につき現金百万円。いかがです?」
笑えない冗談だ。五億年? 記憶消去? だが、男がアタッシュケースを少しだけ開けて見せた瞬間、俺の思考は停止した。 重なり合った万札の束。本物の、金の匂い。
「記憶が消えるなら、俺にとっては押した瞬間に百万円手に入るのと同じじゃねえか」 「論理的には、左様でございます」
男の口元がさらに深く歪んだ。 俺はヤケクソだった。どうせドッキリか、新手のマルチだろう。だが、もし本当なら……。 震える指先で、プラスチックの赤いボタンを押し込んだ。
カチリ。
その瞬間、パチンコ屋の喧騒が消えた。 アスファルトの感触が消えた。 夜風の冷たさが消えた。
視界に入ってきたのは、地平線の彼方まで続く、何もない「純白」の世界だった。
「……え?」
立っているのか、浮いているのかもわからない。音がない。匂いがない。 あるのは、自分自身の呼吸音と、鼓動の音だけ。
「残り5億年です」
なにもない世界でアナウンスが鳴り響く。
「5億年だと?」
確かに説明では5億年と言っていた。だが本当に5億年もあるのか?俺は冗談だろと思いながらこのなにもない世界をただひたすら歩きまくった。
どれくらい歩いた。一時間か、二時間か。 この世界には太陽もなければ時計もない。景色が全く変わらないせいで、自分が前に進んでいるのか、それとも同じ場所で足踏みをしているだけなのかさえ怪しくなってくる。
「おい! 誰かいないのか!」
叫んだ声は、空気に吸い込まれるように消えた。反響すらない。 歩き疲れてその場に座り込む。腹は減らない。喉も乾かない。ただ、猛烈な「退屈」がじわじわと、毒のように全身に回っていくのがわかった。
ふと、あの無機質な声が再び頭上に降ってきた。
『一時間が経過しました。残り四億九千九百九十九万九千九百九十九年、三百六十四日、二十三時間です』
「……は?」
心臓がドクリと跳ねた。 今、なんて言った? これだけ歩き回って、叫び散らかして、まだ一時間? 計算が合わない。いや、計算は合っている。俺の感覚の方が狂い始めているんだ。
一時間が、五億年に対してどれほど無力な数字か。 脳がその事実を理解した瞬間、背筋に冷たいものが走った。
もしこれが、本当に、たった今始まったばかりなのだとしたら。 俺はこれから、あと何回、この「一時間」を繰り返さなければならない?
「冗談だろ……おい、出せ! 百万なんていらねえ! 出してくれ!」
俺は狂ったように、自分の足元の「何もない床」を拳で殴りつけた。 しかし、拳が当たる感触はあるのに、音一つしない。
その時、またあのアナウンスが響いた。 『一分が経過しました。残り――』
その声は、これから五億年の間、俺を支配する唯一の「主」になるのだと、本能が告げていた。
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