第2話 デュエット
第2話「アポカリプス・ラブ」
夜の稽古場は、昼の舞台よりも残酷だ。
鏡星詩(かがみせいじ)は鏡の前で、同じフレーズを百回なぞっていた。喉は熱く、指先は冷たい。完璧に近づくほど、わずかな歪みが許せなくなる。
「また、そこ走ってる」
背後から声がした。
振り向くと、牧美鈴が立っていた。白いブラウスに、譜面の束。照明の下で、彼女の目だけが妙に澄んで見える。
「走ってない。テンポを立ててるだけだ」
「それが“走ってる”って言うの。歌ってる自分に追いつこうとして、歌を置いていく」
痛いところを突かれて、星詩は一瞬だけ笑った。
この子は、言葉の刃が鋭いくせに、刺し方が優しい。
「……じゃあ、どうすりゃいい」
「合わせる。私と」
美鈴は譜面台を引き寄せ、鉛筆で一行に丸を付けた。
同じメロディの上に、別の旋律が重なる箇所。ソロでは埋められない“隙間”だ。
「デュエット?」
「そう。恋愛ごっこじゃないよ。音の仕事」
星詩は鼻で笑って誤魔化した。
だが胸の奥が、わずかに熱い。舞台の拍手とは違う、生活の熱。
その瞬間——稽古場の壁が、かすかに鳴った。
コン、と。
木材が軋む音ではない。もっと硬い、骨のような響き。
美鈴が顔を上げる。
「今の……」
次の瞬間、照明がふっと暗くなり、稽古場の鏡面に“別の部屋”が映った。
客席でも舞台でもない。黒い廊下。天井の低い、終わりの見えない回廊。
そこに、ひとつの影が立っていた。
背丈は人間ほど。だが輪郭が揺れている。まるで、音符が集まって人型を作ったみたいに。
影は、口のない顔で、歌うように震えた。
音ではない。不協和の圧が空気を潰し、鼓膜の裏に直接触れてくる。
「……妖獣(ようじゅう)?」
星詩が言葉を探すより先に、美鈴が小さく息を呑んだ。
その名を口にした瞬間、星詩の脳裏に、あの金色の狼の瞳が閃いた。
『四海文書』のページ。
「秩序を圧縮し、確率をねじ曲げろ」
「エントロピーを逆転させろ」
——思い込みが力になる。小宇宙を燃やす。
星詩は、譜面台を叩くように押さえた。
「美鈴、逃げろ」
「逃げない。歌う」
言い切った美鈴の声は、震えていなかった。
ただし、瞳の奥だけが怖がっている。怖がっているのに、前に立つ。
妖獣は一歩、近づいた。
鏡の中から、こちらへ滲むように。足元が冷え、空気が粘る。
稽古場の壁に貼られたポスターが、音もなく剥がれ落ちた。
「……こいつ、歌を食う」
美鈴が呟いた。
「歌う気持ち。声にする前の“覚悟”を」
星詩は歯を食いしばる。
胸の熱を、喉へ。喉の震えを、音へ。音を、世界の形へ。
「美鈴、合わせろ。最初は俺が“ソロ”で開く。お前が“和声”で支える」
「……わかった」
二人は譜面を見ない。
見るのは、相手の呼吸だ。
星詩が、最初の一音を置く。
それは強さではなく、中心だった。
舞台の声ではない。ひとりの少年が、自分を信じるために出す声。
妖獣が、笑った気がした。
不協和が濃くなる。空気が割れ、稽古場の床に細い亀裂が走る。
そこへ——美鈴が入った。
彼女の声は、星詩の音を飾らない。
逆に、星詩の音の“穴”にぴたりと収まる。
まるで最初から、二つで一つの旋律だったみたいに。
稽古場の鏡面が、光った。
黒い回廊の映り込みが揺れ、妖獣の輪郭が乱れる。
「今だ……!」
星詩は息を吸い、もう一段、上の音域へ踏み込んだ。
怖い。声が割れる。負ける。
その恐怖ごと、燃やす。
——秩序を圧縮しろ。
——無意識の混沌を、理路に変えろ。
二人のハーモニーが、稽古場の天井へ抜けた瞬間。
妖獣の身体を形作っていた“音符の影”が、ばらばらに弾けた。
破裂ではない。
正しい解像だ。歪みが正され、分解され、ただの空気に戻っていく。
最後に残ったのは、鏡の中の黒い回廊の奥で、ゆっくり閉じる扉の影。
その向こうで、誰かが笑った気がした。
照明が戻る。
床の亀裂は消え、ポスターも元に戻っている。
だが二人の喉には、確かに戦った後の熱が残っていた。
美鈴が、息を吐いた。
「……私、歌えた」
「最初から歌えるだろ」
「違う。逃げずに歌えた」
星詩は、言葉に詰まった。
代わりに、笑ってしまう。妙に、嬉しくて。
「なあ、美鈴」
「なに」
「さっきの、デュエット……もう一回やろう。今度は、戦うためじゃなく」
美鈴は一瞬驚いて、それから視線を逸らした。
「……仕事だからね」
「そうそう。音の仕事」
二人の間に、やっと“恋のはじまり”みたいな、馬鹿みたいに眩しい沈黙が落ちる。
その頃。
街の外れ、封鎖された旧軍施設で、男がひとり、ラジオのノイズを聞いていた。
ノイズの奥に、稽古場で起きた“共振”の残響が混じっている。
男は微笑む。
「合唱ではない。まだ、たった二声か……」
机の上に置かれた書類の表紙には、黒い文字。
「軍事音響適応計画」
そして署名欄には、判読しにくい名前が書かれていた。
——覚醒時。
男はペン先で、次のページをめくる。
そこには、都市地図と、赤い丸で囲まれた劇場の位置。
「戦争は、始まっている」
男はそう呟き、ラジオを切った。
稽古場では、星詩と美鈴が、もう一度息を合わせていた。
まだ知らない。
この二声が、やがて街を、国を、世界を巻き込む“歌”になることを。
そして、次の夜。
鏡の中の廊下が、また少しだけ、こちらへ近づく。
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