第5話 聴覚〜耳の内側に降る雪〜

 朝、目覚ましは鳴らなかった。

 代わりに、音が私を起こした。

 それは耳の中ではなく、枕の下から始まって、背骨を這い上がる低温の振動だった。


 私は音を踏んで起き上がる。

 床がきしむ前に、きしむ予定の音が先に転がっている。

 昨日の足音が、今日の廊下に散乱していた。


 洗面所で蛇口をひねると、水は出ない。

 水の音だけが出る。

 透明な音が、洗面台に溜まり、あふれ、床を濡らす。

 足首まで浸かると、膝の裏から幼少期の声が泡立つ。


 鏡は無音だった。

 その代わり、私の顔が発声している。

 唇は閉じたまま、頬の内側で母音が成長し、やがて熟れて落ちる。


 外に出ると、街は耳でできていた。

 電柱は鼓膜を風にさらし、信号機は聞くことに疲れて目を閉じている。

 人々はヘッドフォンを外したまま、自分以外の音を聴いている。


 私は横断歩道で、昨日言えなかった言葉の音にぶつかった。

 それは硬く、角ばっていて、肩に痣を残した。

 拾い上げると、音は粉状に崩れ、呼吸に混じる。


 午後、空が鳴りすぎて裂けた。

 落ちてきたのは雨ではなく、未使用の沈黙だった。

 それは白く、冷たく、触れると耳の奥で静かに積もる。


 耳の中に雪が降る。

 鼓膜は季節を間違え、春のまま凍りつく。

 私は静寂を噛み砕き、飲み込む。


 夜、ベッドに横になると、心臓の音が天井に映る。

 天井はそれを聞き、ゆっくりと剥がれ落ちる。

 下から現れたのは、巨大な耳だった。


 その耳が、私に問いかける。


「きみは、何の音だった?」


 私は答えようとして、

 すでに音として床に散らばっている自分を見つけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る