恋の及第点:90点取れたら先生の「男」になれますか?
万里
第1話
四月の風は、桜の死骸を巻き込みながら、まだ冬の名残のような肌寒さを孕んでいる。 県立高校に赴任してわずか一週間。数学教師・瀬戸彰(せと あきら)は、早くもこの学校が抱える「厄介事」という名の洗礼を受けていた。
「瀬戸先生、また神崎くんが授業サボって屋上にいるみたいよ。運が悪いわね、新任早々あんな子の担当になっちゃって」
隣の席のベテラン女性教師が、隠そうともしない同情を声に滲ませる。瀬戸はぴっちりと角を揃えて置かれた出席簿を、音もなく閉じた。
「いえ、仕事ですから。連れ戻してきます」
「無理しなくていいわよ? 彼はほら、見た目も素行もああだし……。それに、実家が『そっち方面』の有力者だって噂、聞いたでしょう? 下手に刺激して、放課後の校門に黒塗りの車が並んだら笑えないわ」
冗談めかした口調だが、その目は笑っていない。神崎家はこの一帯を実質的に支配する家系であり、警察ですら介入を躊躇うほどの黒い噂が絶えない「触れてはいけない聖域」だった。
瀬戸は、色素の薄い茶髪を指先で微塵の乱れもなく整え、眼鏡のブリッジを静かに押し上げた。レンズの奥に宿る瞳は、感情を一切削ぎ落とした氷のように冷ややかだ。
「家柄がどうあれ、今の彼はこの学校の生徒です。ルールはルールですから。授業に出ない者を放置するのは、僕の教育主義に反しますので」
事務的で抑揚のない声。周囲の教師たちが一瞬言葉を失う中、瀬戸は軍隊のような正確な足取りで職員室を後にした。
階段を一段飛ばすこともなく、規則正しく屋上へと向かう。その背中は、これから対峙するであろう「毒」など微塵も恐れていない、奇妙なほどに頑なな正義感に満ちていた。
瀬戸は、自分でも反吐が出るほど融通の利かない性格だと自覚している。 大学時代、二年間付き合った恋人に別れを告げられた際の言葉は、今も呪いのように胸の奥にこびりついていた。
『彰といると、息が詰まる。……お前、セックスの最中も時計を気にしてるだろ?』
嘲笑混じりに投げつけられた言葉。だが、彼にとって秩序や規律こそが、予測不能な感情の濁流から自分を守るための唯一の鎧だった。
重い鉄の扉のレバーを引き下げると、錆びついた金属音が静寂を切り裂く。 一歩足を踏み出した屋上には、暴力的なまでの春の陽光が降り注いでいた。遮るもののない青空の下、フェンスに背を預け、退屈そうに地面に座り込んでいたのが、今回の「標的」だった。
校内でその名を知らぬ者はいない問題児――神崎大我(かんざき たいが)。
180センチを優に超える恵まれた体躯は、ただ座っているだけでも屋上の空間を支配するような圧迫感があった。 黒い学ランのボタンはすべて外され、その下には首元が大きく開いた黒いTシャツ。そして何より目を引くのは、肩につくほど長い、艶のある黒髪だ。今はそれを後頭部で無造作に一つに結んでいるが、数房こぼれ落ちた毛先が、野性味のある首筋にまとわりついている。
鋭い目つきで虚空を眺めていた神崎は、扉の音に反応して、ゆっくりと獣が獲物を追うような予備動作で首を巡らせた。
「……あ? 誰だよ、お前」
低く、地響きのように重い声。普通の新任教師なら、その一瞥(いちべつ)だけで本能的な恐怖を感じ、足がすくむだろう。だが、瀬戸は眉ひとつ動かさずに神崎の正面へと歩み寄り、至近距離で立ち止まった。
「瀬戸だ。神崎くん、五限目の授業が始まってから十五分が経過している。速やかに教室へ戻れ」
神崎は、瀬戸を下から上まで舐めるように視線で這わせた。値踏みするような、無遠慮な視線。
「瀬戸……? ああ、あの『歩く六法全書』だか『日本史辞典』だか言われてる堅物か。……つーか、先生。あんた、そんな茶色い髪してて生徒に校則守れとか言えんの? 説得力ねーんだけど」
「これは地毛だ。遺伝的に色素が薄いだけだ。それより、立ちなさい。三回私の指示を無視したら、校則に基づき反省文を一枚追加する。……一」
「へぇ。マジでビビらねーのな。面白いわ」
神崎はニヤリと、獲物を見つけた肉食獣のような獰猛な笑みを浮かべた。 彼はゆっくりと、しかし確実な威圧感を持って立ち上がる。その動作に伴って、瀬戸の視界が神崎の影に覆われていく。立ち上がった神崎は、瀬戸より頭一つ分以上高かった。
至近距離で見上げる形になった瀬戸の視界に、Tシャツ越しでも分かる神崎の逞しい胸板が迫る。鼻腔を突いたのは、春の日差しに焼かれた、少し汗の匂いが混じった雄々しい野性的な香り。
神崎はわざと顔を近づけ、瀬戸の耳元で低く囁いた。
「先生、あんまり正論ばっか吐いてると……いつかその綺麗な髪、ぐちゃぐちゃにするぜ?」
それは明確な挑発であり、同時に奇妙な熱を孕んだ誘惑のようでもあった。
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