1-3
互いに飲み物を飲み終え、コーヒー代を出そうとする男をなんとか抑え込んで、無事に本懐を遂げた直後のこと。
別れ際に、店の前で、一度はこちらに背を向けた男が振り返った。
「カナリ」
「え?」
「俺の名前だ。お前は?」
「私?」
「他に誰がいる」
それもそうか。
いつもと違うことが立て続けに起きたせいか、そわついた心地でカナリに応じる。
「私は、トノサキ」
カナリは小さく「トノサキ」と繰り返し、今度こそどこかへ歩いて行った。
*
そういうわけで、私とカナリは一ヶ月に一度、顔を合わせるようになった。
約束は大抵、土曜日に取り付けられる。
昼食をとって喫茶店に向かうと、店の隅のボックス席にカナリが陣取っている。たまにサンドイッチを摘んでいることもあって、彼は昼食をこの喫茶店で済ませているのだと知れた。
飲み物を注文しつつカナリの向かいに座ると、オレンジ色のノートが差し出される。
やがて手元に現れるジンジャーエールを飲みながら、私は一ヶ月かけて書き溜められたカナリの物語を読んだ。
カナリは最初こそ、私を見るともなく眺めつつアイスコーヒーを飲んでいたが、その次からは何か別の本を読みながら私の読了を待つようになった。
〝そうしてまた雨が降る。砂漠に。乾ききった砂の
読み終えてノートから顔を上げると、カナリも読んでいた本を閉じる。
「終わったか」
「うん。今回も面白かったよ」
「そうか」
「特に最後の、砂漠に雨が降る日の話が好きだった。化石の貝が一晩で真珠を孕もうと決めた理由が――」
読了直後で、まだ物語から抜け出しきれていない私のとりとめもない話を、カナリはいつも黙って聞いていた。
カナリの書くものは、ひたすらに語り手が言葉を繋いでいくことも、台詞を交えて整えられていることも、詩らしい体裁になっていることもある。いずれにせよ、ここではない、架空のどこかで起こることを描いたものだった。
嵩の減ったジンジャーエールをひと息に飲み干して、カナリにノートを返す。
「今から続きが楽しみだよ。どんな話になるか、もう決まってる?」
「決まってはいないが、書き始めたら見えてくる」
「そういうものなんだ。あなたの中には、世界がどこまでも広がっているんだね」
私が何度目かもわからない感嘆のため息をつくたび、カナリはいつも困ったような顔をした。
「そんなの――そういうものだろう、想像の中の世界なんてのは」
私はこっそり喜んだ。その言葉は、カナリの物語がまだまだ終わらないことを意味している。
そんなふうに時間を重ね、カナリの物語を読み続けて数ヶ月。春の陽気が、梅雨の湿気にすっかり塗りつぶされた頃のこと。
「私も何か書いてみようと思うんだ」
いつものようにカナリの物語を読んだあと、ジンジャーエールのお代わりを飲みながら、私はとっておきの思いつきを打ち明けた。
「書くのか、お前も」
呆気に取られたカナリの視線がくすぐったい。いつも冷静な彼の意表をつけた嬉しさで、私の口はよりなめらかになった。
「少し前から……いや本当はあなたに初めて会ったときから、ずっと考えていたんだと思う。あなたのように何かを生み出せる人になれたら、どんなに楽しいだろうって。もちろん私には、あなたのように素晴らしい物語を書く力はまだないけれど、それでも書いてみようと思う。私も、何かを」
「……そうか」
カナリはそれだけ呟いて、二杯目のアイスコーヒーをストローで吸い上げる。それを丁寧に飲み下し、ひとつ息をついてから、ようやく口を開いた。
「なら、日記はどうだ」
「日記?」
「ああ。ノートは売るほどあるんだろう」
にやにやと揶揄いの笑みを浮かべるカナリに、無言の頷きで応じる。
彼と出会って数ヶ月。物語を読み、読まれる合間に、ぽつりぽつりと雑談をしていた我々だけれど、そのぽつぽつは次第に頻度を増し、今では物語を読み終えたあとに飲み物のお代わりをしてまで雑談に興ずるほどの仲になっていた。その過程で、彼には私の悪癖がすっかりバレている。
「売るほど、あるはあるけれど……」
買うだけ買って、本棚に納められたノートたちのことを思う。
あの本棚からノートを引き出し、ページを開いて、一文字ずつ埋めていく――何かを書きたいと言っておきながら、私はそうしている自分をうまく想像できなかった。だがカナリにはきっと、日記をつける私が容易に想像できているのだろう。そうでなければ、先のような提案は出てこないはずだ。
私は、カナリの想像するものが豊かであることを知っている。私が日記を書くことで、カナリの豊かな想像が現実に染み出してくる様を思い浮かべると、胸が躍った。そして書くアテができたら欲も出てきた。
我ながら現金なことだと思いながらも、カナリに問いかける。
「カナリ、交換日記って知ってる?」
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