第6話

太陽が西の山の稜線に隠れるまで、わたくしは馬を走らせ続けた。

結局、その日一日で、わたくしは別邸周辺の五つの村すべてを駆け足で視察して回ったのだ。


さすがに別邸に戻る頃には、護衛の騎士たちも、そして百戦錬磨のはずのアレクシス様でさえ、疲労の色を隠せずにいた。

まあ、当然でしょう。肉体的な疲労よりも、予測不能なわたくしの行動に付き合わされた精神的な疲労の方が、よほど大きかったに違いありませんわ。


「皆様、ご苦労様でした。夕食の後は、ゆっくりお休みになって」


わたくしがそう声をかけると、騎士たちはホッとしたように解散していく。

アレクシス様だけが、馬上からじっとわたくしを見下ろしていた。その青い瞳に浮かぶのは、困惑と、ほんのわずかな探るような色。


わたくしはそんな視線は気にせず、さっさと室内に入ると、夕食もそこそこに書斎へと直行した。



「ゼバスチャン。持ち込んだ資料と、この領地の最新の地図をここに」


「かしこまりました、お嬢様」


老執事が手際よく準備してくれた大きな執務机の上は、瞬く間に大量の羊皮紙と書物で埋め尽くされた。

わたくしは、今日一日で見て回った情報を、記憶が新しいうちに地図へと落とし込んでいく。


第一農村:連作障害による土壌の劣化が深刻。水路の整備も急務。

第二農村:日当たりは良いが、風が強く作物が育ちにくい。防風林の設置が必要。

第三の村:森の資源が豊富だが、活用できていない。木材加工や炭焼きの技術指導を。

第四の村:……。

第五の村:……。


ペンを走らせる音だけが、静かな書斎に響く。

わたくしは、まるで複雑な刺繍の図案を仕上げるかのように、この領地が抱える問題点と、その解決策を一つ一つ組み立てていく。


(第一農村には、第三の村の森から腐葉土を運ばせれば、土壌はすぐに回復するはず。見返りに、第一農村は労働力を提供する。第二農村には、寒さに強く、背の低いカブやジャガイモの栽培を奨励する。そうだわ、あそこの粘土質の土なら、陶器作りもできるかもしれない……)


数字の計算、物資の移動計画、人員の配置。

頭の中の歯車が、高速で回転していく。

王都の退屈なお茶会や、中身のない会話ばかりの夜会に比べれば、これほど楽しく、やりがいのある遊びはない。

そう、これはわたくしにとって、最高の趣味であり、唯一の特技なのだから。


どれほど集中していたのだろうか。

ふと、人の気配を感じて顔を上げると、書斎の開かれた扉のところに、アレクシス様が腕を組んで立っていた。

いつからそこにいたのだろう。彼は、ただ黙って、わたくしのことを見ていた。


「……何か、御用でしょうか、騎士団長閣下」


集中を乱された苛立ちを隠さず、少しだけ棘のある声で問いかける。


「監視対象が、部屋にこもって何やら怪しげな作業をしていれば、気にもなりますわよね」


「……何をしている」


彼は、わたくしの皮肉には答えず、低い声で尋ねた。

その声には、純粋な疑問の色が滲んでいた。


「見ての通り、お仕事ですわ。わたくし、こう見えても暇は嫌いですので」


アレクシス様は、ゆっくりと書斎の中へ入ってくると、机の上に広げられた地図や計画書に目を落とした。

騎士団を率いる彼ならば、これがただの落書きではなく、極めて緻密で、現実的な計画書であることくらいは、一目で理解できるはずだ。


彼の青い瞳が、驚きに見開かれる。

そして、彼はまるで心の声がそのまま漏れてしまったかのように、呟いた。


「貴様、一体、何者なんだ」


その問いに、わたくしはきょとんとしてしまった。


「何者、と問われましても。わたくしはリリアンヌ・フォン・ヴェルナーですが、何かおかしなことでも?」


「そういうことではない! なぜ、公爵令嬢である貴様が、これほどまでに領地経営に精通している。その手際は、まるで長年国に仕えた有能な文官のようだ」


彼の言葉に、わたくしは思わず、ふふっと笑ってしまった。

この堅物な騎士団長閣下から、そんなお褒めの言葉をいただけるとは。


「あら、お褒めに預かり、大変光栄ですわ」


わたくしは椅子から立ち上がり、彼と向き合う。


「ですが、わたくしは閣下が思っているような、特別な者ではございませんわ。見ての通り、口が悪くて、態度の悪い、ただの女です」


「……」


「わたくしにとっては、刺繍や詩を詠むことよりも、こうして数字を計算したり、地図を眺めたり、土をいじったりする方が、よほど性に合っている。ただ、それだけのことですわ」


嘘偽りのない、本心だった。

アレクシス様は、わたくしの目をじっと見つめていたが、やがて、ふいと視線を逸らした。

彼がわたくしの言葉を信じたのか、それとも、さらに混乱が深まっただけなのかは分からない。


ただ、彼の中で、これまで作り上げられてきた『リリアンヌ・フォン・ヴェルナー』という虚像が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていくのだけは、なんとなく感じ取れた。


「さて、お話はそれだけですわね? わたくし、まだやるべきことが山積みですので、これで失礼いたしますわ」


わたくしは一方的に会話を打ち切ると、再び椅子に座り、ペンを手に取った。

もう、彼のことに構っている時間はない。


背後で、彼がしばらく立ち尽くしている気配がした。

やがて、静かな足音が遠ざかっていく。


氷の騎士団長閣下の心の中に、わたくしという存在が、無視できない大きさの『謎』として、はっきりと刻み込まれた。

そんな夜だった。

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