第2話

王城から公爵家の屋敷へと戻る馬車の中、わたくしは終始、窓の外を流れる夜景を眺めていた。

侍女のアンナが心配そうに何度もこちらを窺っていたが、あえて気づかぬふりをする。

今はまだ、『悲劇のヒロイン』を演じておかなければならない。


屋敷に到着し、自室の扉を開ける。


「アンナ。少し一人にしていただけるかしら。お茶も今は結構よ」


「…かしこまりました、お嬢様。何か御用の際はお呼びくださいませ」


心配を色濃く滲ませた声でアンナが下がり、重厚な扉が静かに閉まる。

その音を確認した瞬間、わたくしは公爵令嬢リリアンヌ・フォン・ヴェルナーの仮面を、床に叩きつけるようにして脱ぎ捨てた。


「あーーーーーーっ! スッキリしたーーーーーっ!!!」


ばふっ!と音を立てて、豪華な天蓋付きのベッドにうつ伏せにダイブする。

最高級のシルクのシーツに顔をうずめ、手足をばたつかせた。

ああ、なんて素晴らしい夜! なんて晴れやかな気分!


婚約破棄された悲しみ? 悔しさ?

そんなもの、塵ほどもございませんわ!


わたくしは勢いよくベッドから起き上がると、部屋の隅にある鍵付きの本棚へと向かった。

慣れた手つきで鍵を開け、一番下の段に隠すように置かれた一冊の分厚い革張りの本を取り出す。


それは、わたくしだけの宝物。

題して、『麗しの騎士団長閣下 観察記録』。


ページをめくると、そこには新聞の切り抜きや、わたくしがこっそり描いた騎士団の訓練風景のスケッチが、几帳面な文字と共にびっしりとファイリングされている。

そのほとんどが、一人の男性に焦点を当てたものだ。


「ああ、アレクシス様……!」


先日行われた観閲式の記事に載っていた、米粒ほどの大きさのアレクシス様の写真に、わたくしはうっとりとため息をついた。


「今日も夜会でお姿を拝見できて、わたくし、本当に幸せでしたわ…。あの、いかなる時も冷静沈着な青い瞳! 隙のない立ち姿! 完璧なまでの筋肉の鎧…! 芸術ですわ!」


そう、わたくしの趣味は『氷の騎士団長』アレクシス・フォン・シュライバー閣下の推し活。

彼を遠くから眺め、そのお姿を目に焼き付け、心の栄養とすること。

それこそが、わたくしの生きる喜び。


ユリウス殿下との婚約は、正直、この趣味の最大の障害だった。

王太子妃となれば、軽々しく騎士団の訓練場へ足を運ぶことなどできなくなる。

常に品行方正を求められ、自由な時間などほとんどなくなってしまうのだから。


「これで、心置きなく推し活に専念できますわ! ああ、なんて素晴らしいことでしょう!」


これでこそ、真の幸福!

婚約破棄、万歳ですわ!


「……リリアンヌ」


コンコン、というノックの音と共に、渋い声が響いた。

はっとして、わたくしは慌てて観察記録を背中に隠す。


「お父様。どうぞ、お入りくださいな」


扉が開き、このヴェルナー公爵家当主であり、わたくしの父であるヴィルヘルムが入ってきた。

厳格な父は、今夜ばかりは心配そうな、少しだけ悲しそうな顔をしていた。


「夜会でのこと、聞いた。大丈夫か」


「ええ、お父様。ご心配には及びませんわ。わたくしは、全く気にしておりませんもの」


努めて冷静に、いつもの『氷の華』の仮面を被って答える。

父は、じっとわたくしの目を見ると、ふっと息を吐いた。


「そうか。お前がそう言うのなら、父は何も言うまい。……ユリウス殿下は、見る目のない、愚かな選択をされたものだ」


「いいえ。殿下は、ご自身が本当に愛する方を選ばれた。それだけのことですわ」


「ふん…。まあ、良い。お前が傷ついていないのなら、それで良いのだ。ゆっくりお休み」


父はそれだけ言うと、わたくしの頭を一度だけ優しく撫で、部屋を出て行った。

残されたわたくしは、父の不器用な優しさに、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。



その頃、王城のユリウス王太子の執務室では、一人の男が不機嫌をまき散らしていた。


「くそっ! なぜだ! なぜあいつは、平然としていたんだ!」


ガシャン!と音を立てて、銀のカップが床に叩きつけられる。

ユリウスは、今日の夜会の出来事を思い出しては、苛立ちを募らせていた。

泣いてすがるか、怒りに震えるか、少なくとも何かしら感情的な反応を見せると思っていた。

それなのに、リリアンヌは終始冷静で、完璧な淑女のまま、まるでディナーの席を辞するようにあっさりと去って行った。


自分が成し遂げたはずの、劇的な婚約破棄。

愛するアイラを守るための、正義の鉄槌。

それなのに、胸に残るのは勝利の味ではなく、まるで自分が道化になったかのような、奇妙な敗北感だった。


「ユリウス様……」


心配そうに、アイラが執務室に入ってくる。


「大丈夫ですか…? リリアンヌ様のこと、まだお気になさっているのですね……」


「うるさいっ!!」


ユリウスは、思わずアイラに八つ当たりをしてしまった。


「今は一人にしてくれ!」


「ひっ……! ご、ごめんなさい……」


怯えて部屋を飛び出していくアイラの姿に、ユリウスはさらに自己嫌悪に陥るのだった。



そして、もう一人。

静かな夜を過ごしているとは言えない男がいた。


騎士団の宿舎にある、質実剛健な団長室。

アレクシス・フォン・シュライバーは、机に広げられた報告書から顔を上げた。

内容は、全く頭に入ってこない。


脳裏に焼き付いて離れないのは、あの銀髪の令嬢の、凛とした後ろ姿だった。


リリアンヌ・フォン・ヴェルナー。

噂に聞く彼女は、傲慢で、嫉妬深く、冷酷な女。

『殿下の氷』と呼ばれるユリウス以上に冷たい『氷の華』。

アレクシス自身も、そう認識していた。


だが、今夜の大広間で見た彼女は、噂とは少し、いや、かなり違っていた。

あれは、ただの悪女が見せる顔ではない。

動揺もせず、取り乱しもせず、ただ己の置かれた状況を冷静に受け入れ、そして、己と家の利害まで計算して、たった一つの質問を発した。


『王家と我がヴェルナー公爵家との間に、遺恨を残すものではない。そのように理解して、よろしゅうございますね?』


あの土壇場で、私情よりも家門を優先する冷静さ。

あれは、並の精神力でできることではない。


「リリアンヌ・フォン・ヴェルナー……」


アレクシスは、無意識にその名を呟いていた。

今まで興味の対象ですらなかった女。

それが今、彼の心に、小さな波紋を広げ始めていた。


それぞれの夜が更けていく。

わたくしはといえば、明日の推し活計画に胸を躍らせ、アレクシス様の観察記録を抱きしめながら、幸せな眠りについたのだった。

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