大正地獄絵図 呪われた肖像画―100年後、絵師は私を奪いに来る
ソコニ
第1話 呪いの肖像―その筆先が私の澱を暴く
一
麻布の橘家に秋の雨が降る日、千代は父に呼ばれた。
書斎の襖を開けると、父・橘宗太郎は窓の外を見つめたまま、振り返ろうともしなかった。背中が、かつてこの家を束ねた当主の威厳など微塵も感じさせない。ただ、追い詰められた男の諦めだけが、丸まった肩に滲んでいた。
「千代」
低い声が、雨音に紛れて千代の耳に届く。
「はい、父上」
千代は居住まいを正した。十八歳の彼女は、すでにこの家の「最後の希望」として扱われることに慣れていた。いや、慣れたふりをすることに長けていた。
「お前には、明日、朧という絵師のもとへ行ってもらう」
朧。
その名を耳にした瞬間、千代の背筋に冷たいものが走った。聞いたことがある。麻布の社交界で、女たちが小声で囁き合っていた名だ。
「朧が描いた肖像画を持つ家は、必ず幸運に恵まれる」
「でも、モデルになった女性は……その後、消えてしまうのよ」
噂話に過ぎない。千代はそう思っていた。だが、父がその名を口にした今、それが単なる噂ではないことを悟る。
「我が家は、もう猶予がない」
父の声に、千代は顔を上げた。
宗太郎は初めて千代の方を向いた。その顔は、千代が知る厳格な父ではなく、ただの老いた男の顔だった。目の下には隈ができ、頬はこけ、唇は乾いて割れている。
「親戚たちは、もう金を貸してはくれぬ。銀行も、我が家を見捨てた。このままでは、橘の名は消える」
千代は何も言えなかった。
「朧は、お前を描きたいと言っている。そして、その肖像画の対価として、我が家の借金をすべて肩代わりすると」
ああ、と千代は思った。
私は、売られるのだ。
肖像画のモデルという名目で。
「……承知いたしました」
千代の返答に、父は安堵の息を吐いた。だが千代は、その安堵が自分のためではなく、ただ「橘家」という名を守るためだけのものだと知っていた。
襖を閉めて廊下に出ると、母が立っていた。
「千代……」
母・志津は、泣いていた。いつも泣いている。父が借金の話をするたびに、親戚が冷たい言葉を投げかけるたびに、母は泣いた。そして千代に、何もしてくれなかった。
「大丈夫ですよ、母上」
千代は微笑んだ。清廉な令嬢の微笑みを。
だが、心の奥底では違う言葉が渦巻いていた。
泣くくらいなら、何かしてよ。私を守ってよ。でも、あなたには無理よね。あなたはいつも、ただ泣いて、私に全てを押し付けるだけ
「千代、あなたは……本当に優しい子ね」
母の言葉に、千代の微笑みが僅かに歪む。
優しい?
違う。
私は、ただ逃げ場がないだけ。
自分の部屋に戻り、千代は鏡の前に座った。鏡に映る自分は、誰もが羨む令嬢の顔をしていた。整った目鼻立ち、しなやかな黒髪、白い肌。
だが、千代はその顔が嫌いだった。
この顔があるから、父は私を売れると思った。この顔があるから、私は逃げられない。
鏡の中の自分を見つめながら、千代は思う。
いっそ、全部燃えてしまえばいいのに
この家も、父も、母も、婚約者も
そして、私も
その瞬間、窓の外で雷が光った。
二
翌日、千代は人力車で朧の屋敷へと向かった。
場所は麻布の外れ、竹林に囲まれた一軒家だった。門をくぐると、庭には誰も手入れをしていないのか、雑草が伸び放題になっている。だが、その中に一輪だけ、白い百合が咲いていた。
いや、よく見ると、その百合は枯れかけている。花びらの先が茶色く変色し、甘ったるい腐敗の匂いが漂っていた。
玄関の引き戸を開けると、中から墨の香りが流れてきた。だが、それだけではない。何か、もっと重く、粘つくような匂い。血の匂い、に似ている。
「お待ちしておりました、千代様」
声が聞こえた。
千代が奥を見ると、薄暗い廊下の先に、男が立っていた。
朧だ。
白い着物を着た男は、年齢がわからなかった。二十代後半に見えるが、どこか古びている。いや、古びているというより、時間の外側にいるような、不思議な存在感があった。
顔立ちは、美しい。だが、その美しさは人を惹きつけるものではなく、むしろ遠ざけるような、冷たい美しさだった。
そして、瞳。
朧の瞳は黒く深く、まるで底のない井戸のようだった。その瞳に見つめられた瞬間、千代は息が止まるような感覚に襲われた。
「どうぞ、お上がりください」
朧は微笑まなかった。ただ、淡々と千代を招いた。
千代は草履を脱ぎ、廊下を進む。木の床は冷たく、足裏に湿気が這い上がってくる。
案内されたのは、屋敷の奥にある広い部屋だった。
アトリエ、なのだろう。
部屋の中央には大きなキャンバスが置かれ、その周りには無数の絵の具、筆、そして硯が並んでいた。壁には、いくつかの絵が掛けられている。どれも女性の肖像画だったが、千代はそれらを直視できなかった。
絵の中の女性たちは、皆、どこか苦しそうな表情をしていた。いや、苦しいというより、何かに怯えているような。そして、絵の具の下に、何か別のものが塗り込められているような、不気味な厚みがあった。
「座ってください」
朧が指差したのは、キャンバスの前に置かれた椅子だった。
千代は、従った。
椅子に座ると、朧は硯の前に座り、墨を磨り始めた。
スリ、スリ、スリ……
静寂の中、墨を磨る音だけが響く。その音は、まるで骨を削っているかのように、千代の神経を逆撫でした。
「千代様」
朧が、初めて千代の目を見た。
「私は、あなたの『形』を描くのではない」
「……では、何を?」
「あなたの『澱』を描く」
澱。
その言葉に、千代の胸が締め付けられた。
「澱とは……?」
「あなたが、誰にも見せていないもの。隠しているもの。腐らせているもの」
朧は立ち上がり、千代の背後に音もなく立った。
千代の肩が、小さく震える。
「怖いですか?」
朧の声が、耳元で囁かれる。
「……いいえ」
嘘だった。千代は、恐怖で身体が硬直していた。だが、令嬢としての矜持が、弱みを見せることを許さなかった。
「では、始めましょう」
次の瞬間、千代の首筋に、濡れた感触が走った。
「……っ!」
筆だ。
朧の筆が、千代の肌に直接触れている。
「何を……直接、肌に……?」
「動いてはいけません。筆が、あなたの『嘘』を嫌がってしまう」
朧の指が、千代の髪を払う。うなじが露わになり、そこに再び筆先が這う。
じゅるり
筆が肌を滑る音が、千代の耳に異様に大きく響いた。墨を含んだ筆は重く、冷たい。だが、墨が肌に触れた瞬間、そこだけが熱を帯びた。
ぬらり
筆が首筋から、鎖骨へと降りていく。
千代は息を止めた。着物の襟元から筆先が潜り込み、鎖骨のくぼみをゆっくりとなぞる。
「んっ……」
喉の奥から、小さな声が漏れた。
恐怖、なのか。それとも――
「ああ、見えてきた」
朧の声が、愉悦に染まる。
「あなたは、この家が嫌いだ」
千代の身体が、強張った。
「……何を言って……」
「嘘をつかないでください。筆先は、あなたの鼓動を聴いている」
朧の筆が、千代の胸元へと滑り落ちる。薄い絹の着物越しに、筆が乳房の輪郭をなぞる。
「や……やめて……」
「厳格な父。泣いてばかりの母。そして、あなたが憎んでいる親戚たち」
筆が、円を描くように千代の胸を這う。
「あなたは毎日、全てを焼き払いたいと願っていた。違いますか?」
千代の脳裏に、記憶がフラッシュバックする。
父が借金の話をするたびに感じた、吐き気。
母が泣くたびに湧き上がった、軽蔑。
親戚が冷たい言葉を投げかけるたびに抱いた、殺意。
ああ、そうだ
私は、全員を憎んでいる
「見ないで……」
千代の目から、涙が溢れた。
だが、朧は筆を止めなかった。
筆先が、千代の肌の上に黒い軌跡を描いていく。それは単なる墨の線ではなく、千代の隠された感情が、形となって浮かび上がっているようだった。
「次は……ああ、あなたの婚約者ですね」
朧の筆が、千代の腹部へと滑る。
着物の帯が緩められ、千代の白い腹が露わになる。
「やめ……」
「あなたは、彼が嫌いだ。いや、嫌悪している」
筆先が、千代の臍の周りを這う。
じわり
墨が皮膚に染み込み、千代の身体が震える。
「彼は、あなたを『橘家の令嬢』としか見ていない。あなた自身を、一度も見ようとしなかった」
千代の記憶に、婚約者の顔が浮かぶ。
彼は、優しかった。社交的で、家柄も良く、誰もが羨む縁談だった。
だが、千代は知っていた。
彼が自分を見る目は、骨董品を値踏みする目と同じだと。
「あなたは、彼が死ねばいいと思っている」
「……っ!」
朧の言葉に、千代の身体が跳ねた。
筆が、千代の脇腹を這い、背中へと回る。
「いい声だ」
朧が、千代の耳朶を軽く噛んだ。
「あ……はあ……」
千代の呼吸が、乱れていく。
恐怖なのか。羞恥なのか。それとも――
筆が、背骨をなぞる。一本一本の骨を確認するように、ゆっくりと、執拗に。
「あなたの憎悪は、美しい」
朧の声が、千代の首筋に吐息と共に降りかかる。
「誰もが隠す、黒い感情。それを、私は愛している」
筆が、千代の腰へと滑る。
ずるり
着物が、さらに緩められる。千代の白い背中が、完全に露わになった。
「筆先は嘘を許さない。だから、あなたは正直になればいい」
朧の筆が、千代の背中全体に、複雑な紋様を描き始める。
それは、まるで呪術の印のようだった。渦巻く線、鋭角な角、そして中心には、千代自身も理解できない暗い形。
「あなたは、自由になりたい」
朧が囁く。
「この家から、この運命から、そして……自分自身からも」
筆が、千代の肩甲骨の間を這う。
千代の意識が、朦朧としてくる。
墨が体温で温まり、皮膚に吸い込まれていく感覚。
筆の毛が、毛穴を一つ一つ抉っていくような感覚。
そして、朧の吐息が、背中に降りかかる熱。
違う
これは、違う
千代は心の中で叫んだ。
だが、身体は正直だった。
朧の筆に触れられるたびに、千代の身体は震え、熱を帯び、そして――求めてしまっていた。
「ああ、君は美しい。君の憎悪は、誰よりも美しい」
朧の手が、千代の頬を撫でる。
そして、その手は、千代の喉へと滑っていった。
「……この続きは」
朧の指が、千代の喉仏をなぞる。
「100年後に」
三
どれだけの時間が経ったのか、千代にはわからなかった。
気づいたとき、千代は床に座り込んでいた。着物は乱れ、身体中が墨で汚れている。
朧は、少し離れた場所で、キャンバスに向かっていた。最後の筆を入れているようだった。
「……終わり、ましたか?」
千代の声は、掠れていた。喉が渇き、身体は汗でべっとりと湿っている。
「ええ。見ますか?」
朧が振り返り、千代に微笑んだ。
初めて見る、朧の笑顔。
だが、それは人間の笑顔ではなかった。何かを、狩り終えた獣の笑顔だった。
千代は立ち上がり、ふらふらとキャンバスに近づいた。
そして、絵を見た瞬間――
千代の身体から、血の気が引いた。
絵に描かれていたのは、千代だった。
だが、それは「今の千代」ではなかった。
絵の中の千代は、血まみれだった。
喉を、自分の手で突き刺している。
そして、その背後には朧が立ち、千代を抱きしめている。
朧の顔は、歓喜に満ちていた。
「これは……」
千代の声が、震える。
「予言、ですか?」
「違う」
朧が、千代の肩に手を置く。
「招待状だ」
千代が振り返ると、朧の顔が目の前にあった。
「君は100年後、必ず私の元に戻ってくる」
「100年……? 何を……」
「その時、私はもう一度、君を描く。そして、君は永遠に私のものになる」
朧の指が、千代の首筋をなぞる。
千代の身体が、総毛立った。
「さあ、帰りなさい。君の運命は、もう動き始めている」
四
橘家に戻ると、屋敷は騒然としていた。
使用人たちが慌ただしく動き回り、母は座敷で泣き崩れている。
「千代! 千代、大変なの……!」
母が千代に駆け寄る。
「婚約者様が……亡くなられたの……」
千代の身体が、硬直した。
「……どういうことですか?」
「首を吊って……自殺だと……」
千代は、使用人に案内され、別室へと向かった。
そこには、白い布に覆われた遺体が横たわっていた。
警察の人間が、父に説明をしている。
「……明確な遺書はありませんでしたが、最近、家業の不振で悩んでいたとのこと。自殺で間違いないかと」
千代は、遺体に近づいた。
そして、白い布をそっと捲った。
婚約者の顔は、苦悶に歪んでいた。首には、縄の痕が赤黒く残っている。
だが、千代が見つめたのは、その痕ではなかった。
首の痕の周りに、薄く、黒い線が這っていた。
それは、まるで――
筆で描いたような、線。
千代の背筋に、冷たいものが走った。
朧の筆が、私の首筋を這った、あの軌跡と……同じ
「千代様、どうかなさいましたか?」
使用人の声に、千代は我に返った。
「……いいえ、何でも」
千代は布を戻し、部屋を出た。
廊下を歩きながら、千代は自分の首筋に手を当てた。
そこには、まだ朧の筆の感触が残っているような気がした。
始まってしまった
千代の唇から、小さく言葉が漏れる。
私の、地獄絵図が
窓の外で、雷が光った。
そして、その光の中に一瞬、千代は見た。
竹林の向こうに、白い着物を着た男が立っているのを。
朧だ。
彼は、千代を見つめ――微笑んでいた。
千代が目を瞬かせると、もう誰もいなかった。
ただ、雨が降り続けているだけだった。
だが、千代の手の中には、いつの間にか一枚の紙片が握られていた。
震える指でそれを開くと、そこには墨で一言だけ、書かれていた。
「また会おう。100年後に」
千代の指から、紙片が滑り落ちた。
それは床に落ち、雨水に濡れて、墨が滲んでいった。
だが、文字は消えなかった。
まるで、千代の運命に刻み込まれたかのように。
―第1話 終―
第2話『血の契約:カンバスに刻まれる永遠の檻』へ続く
【次回予告】
婚約者の死後、千代は周囲から「呪われた令嬢」として忌避される。行き場を失った彼女を、朧が「保護」という名目で屋敷に引き取る。そこで千代が見たものは――過去の「千代たち」の肖像画だった。朧の正体が明かされ、千代の身体に直接、呪術の紋様が刻まれていく。そして、1923年9月1日。関東大震災の炎の中、千代の運命は完結する――
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