1-5 マタギのシカリ
何かしらの禁を犯したり、女の夢を見るなどみだらな考えに憑りつかれたりした時、唱え言葉を口にしながら水を浴び、心身を清める行為だ。
本来は山入り前や山入り中に行うものだが、志々間の里では日常的にも行われており、子どもが悪事を犯した時の折檻の一つにもなっていた。
「オオザワノシンジン トウリシンジン ワガミニサンド アブラケンソワカ……」
少年たちは褌一丁で川の中に並ばされると、ぶつぶつと唱え言葉をしながら、
濡れた肌がビリビリしびれるほど冷たい、晩秋の水である。
少年たちは、内心悲鳴を上げながら、早く終われと心から念じた。
「三度かけたか? んだば、これより十数え終わるまで、そのまま。ゆくぞ。そら、ひーぃの……ふーぅの……み~~~っ………」
極めつけに、川岸で腕組みをした鉄五郎が、地獄の卒のような顔で、ことさらゆっくりと数を数える。
こんクソ親父!
歯をがちがち鳴らすうちに、だんだん金五郎は腹が立って来た。
もとはといえば、ちびっこたちに意地悪をした孫七たちが悪いのではないか。
自分と玄馬はそれを咎めただけだ。
いかに喧嘩両成敗とはいえ、全く同じ罰を受けねばならないのは得心がいかない。
「父っちゃはおらがごど、嫌ぇなんだッ!」
ようやく温かい家に帰りついた金五郎は、布団に突っ伏し、手足をばたつかせて怒りを爆発させた。
例によって鉄五郎は、会合だとかで里長の家に出かけている。
「顔ば合わせりゃ、
枕を親父の顔に見立てて、ぽかぽかと殴りつける。
平生ならば、すかさず弟を
「金五郎。お父は何も、お前が憎ぐで叱るわげではねぞ。親が子どもにしでけるごどで、一等尊いことは、正しく𠮟ることだんて」
「そんたなごどね。玄馬のお父は、
言い募るうちに声が震え、涙が溢れて前が見えなくなった。
キノコ採りの日の玄馬父子の姿を思い出したのだ。並んで歩く二人の後ろ姿が、手が届かないほど遠くに感じて、やるせない気持ちになった。
「本当は、お父だってそうしてぇんだよ。お母だって同じだ。おのが子どもと一緒にいだくね親が、どごさいるかね。だども、時間がそれを許さねんだ。お前がお父の怒った顔しか知らねのはな、いっしょにいられる短ぇ時の中で、一等大事なものだけ、お前に授けるためなんだで。……さ、もう泣ぐな。十にもなった
ふっくらとした姉の掌で頬を拭われると、さみしい涙が後を追うように、もう二筋流れた。
こんな気持ちでは到底眠れないと思っていたが、水に濡れた疲れもあってか、その後はするすると眠りに落ちて行った。
夜明け前、微かな物音に気付いて、金五郎は目を覚ました。
部屋の戸が細く開いて、青い月明りが差し込んでいた。
隣で寝ているゑんを起こさないように、そっと布団から這い出して覗き見る。
父が月明りで髭を剃っていた。
山へ行くのだ、とすぐにわかった。山入り前の父は、女に会いに行くのかと思うほど、入念に身なりを整えるからだ。
山は神聖な場所だから、神様に失礼がないように身なりを整えるのだと、父はいつも言っている。
すっきりと髭を剃り、水垢離で潔斎を済ませ、清潔な麻の上下に、手甲脚絆を身に着ける。
三角に折った手拭いを頭に巻き、
腰には山刀を佩き、火縄銃を背に帯びる。
その姿には、まるで修験者のような厳かな風格があった。
「……金五郎か」
草鞋の紐を結びながら、父が低く声をかけてきた。
こちらに背を向けたまま言い当ててきたので、金五郎は声も出せず、その場で一寸飛び上がった。
「お父は見回りさ行く。目覚めたんだば、身なりば整えて、ともに
言うだけ言うと立ち上がり、火縄銃を手にして、さっさと外に出てしまう。
金五郎はしばらく唖然としてその姿を見つめていたが、引き戸が完全に閉められて、父の足音が遠ざかっていくのに気づき、ハッとして顔を洗いに走った。
父は山神社の前で息子を待っていた。
二人で並んでお参りをし、その後は物も言わずに山の中を歩く。
遠い山の稜線が、黄金色に輝き、遅く起きた太陽がゆっくりと昇り始める。
林の中に光が差し、鳥のさえずりで満ちてゆく。
木漏れ日が躍る父の背中を睨みながら、金五郎は懸命にその後について歩いた。小柄な父の歩幅はそう広くないはずだが、その足は速く、歩みは一定で、どんな勾配でも緩まなかった。
途中、渓谷を渡る猿の群れを見た。
撃つなら絶好の機会だと、袖を引っ張って父に知らせたが、父は首を横に振った。
「
「だども……」
「今朝は見回りに来たのしゃ。猿ば獲りに来たのではね」
それだけくり返すと、また同じ歩速で歩き始める。
その後、兎や貂やムササビを幾匹も見かけたが、父は見向きもしなかった。
背に帯びた火縄銃は、猟のためではなく、護身用に持ってきただけなのだと、金五郎は初めて気がついた。
やがて山頂へ到達した。
東から広がる光の波の中に、志々間の里がすっぽり包まれているのが見えた。
父は、刈り取りの済んだ茶色の田畑や、遠くに見える鉱山地帯を指さした。
「百姓は山ば切り開き、田畑ば作る。鉱山夫は山ば切り崩し、
寡黙な父が、まとまった話を長々と語り聞かせるのを聞いたのは、これが初めてではないかと思う。父の声は、峰々の上を渡り行く勇み風の中でも、不思議なほどはっきりと耳に届いた。
「かつて、我らマタギの祖が三鈷の松で空海上人と会した時、上人は『殺生は罪深きこと。やめるべし』と諭したそうな。だども、猟をやめることは、生くるのをやめること。祖は猟を手放すことはできねがった」
その頃のマタギが手にしていたのは、弓と矢であったはずだ。
それらに成り代わった火縄銃は、今、マタギの
父は背に負った火縄銃を下ろすと、何か大いなる者に対して捧げるように、光の中に掲げた。
「弓は当だるが不思議。鉄砲は当だらぬが不思議。近頃は道具も良くなり、獣の命も存外容易く獲れてしまう。
生きることをやめてはなんね。歩みば止めてはなんね。
んだがらこそ、わしらは考えねばならねのしゃ。引き金を引く指が、
金五郎は己の掌を見つめた。
同年代の子供と比べると、一回りも二回りも大きな掌だった。二つ年上の孫七達にでさえ、一発で土をつけてしまえるだけの力がそこに宿っていた。
この力を振るう時、その先にあるものに無自覚であってはならないのだ。
父はそれを伝えたくて、自分をここへ連れてきたのだと知った時、丸まっていた背中がぴんと伸びるような心地がした。
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