第31話:檻を砕く黒き腕

 東京拘置所・特別医療棟の朝は、不穏な静けさと共に訪れた。

 手術から数時間が経過し、瑛司(えいじ)のバイタルは驚異的な安定を見せていた。

 彼の左腕――肘から先が黒曜石のように硬質化し、赤い血管が走る異形の腕は、包帯で隠されていても、その存在感を放ち続けている。


「……聞こえるか、二人とも」


 執刀した政府の研究医が、モニターの陰から小声で囁いた。

 彼は定期検診を装いながら、私たちに一枚のメモを見せた。

 『移送命令:AM 8:00 横田基地へ』


「私の報告書を見た上層部が、判断を変えたようだ。……瑛司君の体は、もはや『希少なサンプル』を超えて『戦略級兵器』と見なされた。裁判など待たず、米軍基地へ移送し、解剖・研究するつもりだ」


 時計を見る。時刻は午前7時50分。

 あと十分しかない。

 廊下からは、カツカツという硬い靴音が近づいてくる。いつもの刑務官の足音ではない。軍用ブーツの音だ。


「……やっぱり、約束を守る気なんてさらさらないのね」

 私はベッドから降り、白衣を羽織った。貧血で少しふらつくが、気力は満ちていた。

「瑛司。動ける?」


「愚問ですよ、お嬢」

 瑛司もまた、上体を起こした。

 左手の包帯を自ら引きちぎる。露わになった黒い腕が、蛍光灯の下で鈍く輝く。

「力が有り余って、じっとしてる方が辛いくらいだ」


 彼の右目は白銀、左目は深紅。

 そのオッドアイが、扉の方角を鋭く射抜いた。


          *


 バンッ!

 電子ロックが解除され、医務室の扉が乱暴に開かれた。

 入ってきたのは、黒いスーツに身を包んだ屈強な男たち。米軍特殊部隊「Anti-Beast Force」だ。

 彼らは問答無用で銃口をこちらに向けた。麻酔弾だろう。


「Get up. Time to go. (立て。移動の時間だ)」

 リーダー格の男が短く告げ、手錠を取り出した。


「お断りします」

 私が前に出ると、男は鼻で笑った。

「拒否権はない。お前たちは所有物(プロパティ)だ」


 男が合図を送ると、背後の隊員が例の装置――「対共鳴ジャマー」を構えた。

 地下アジトで瑛司の獣神化を封じた、あの兵器だ。

 不快な高周波音が室内に響く。


「無駄だ。変身はできない。おとなしく……」


「――変身? 必要ねえよ」


 瑛司が、私の前に躍り出た。

 彼は獣神化の構えすら取らなかった。ただ、人間の姿のまま、黒く変異した左腕を無造作に突き出した。


「消えろ」


 彼が左手を軽く振った瞬間。

 ドォォォォォォンッ!!

 目に見えない衝撃波が奔流となって迸(ほとばし)った。

 ジャマーを構えていた隊員が、装置ごと吹き飛び、背後の壁に激突してめり込む。


「なっ……!? ジャマーが効かない!?」

 リーダーが狼狽する。

 当然だ。今の瑛司の動力源は、純粋な「古代インク」ではない。私の血液と融合し、変質したハイブリッド・エネルギーだ。既存の周波数による妨害など通じない。


「瑛司、右!」

 私の警告に、瑛司が反応する。

 右側面から襲いかかってきた隊員のスタンバトンを、彼は黒い左手で直接掴んだ。

 バチバチッ!

 高圧電流が流れるが、瑛司は眉一つ動かさない。黒い腕は絶縁体のように電気を無効化している。


「握力が、ちょっと強くなっちまったみたいでな」

 メキメキッ……バキンッ!

 瑛司が握り込むと、特殊合金製のバトンが飴細工のようにひしゃげ、粉砕された。

 隊員が悲鳴を上げて後退する。


「怪物め……! 撃て! 実弾を使え! 手足なら構わん!」


 リーダーの命令で、Anti-Beast Forceの隊員が一斉にサブマシンガンを発砲した。

 狭い室内での弾幕。逃げ場はない。


「お嬢、後ろへ!」

 瑛司が左腕を前にかざし、掌を開いた。

 すると、掌から赤黒い霧が噴き出し、瞬時に円形のシールドを形成した。

 カンカンカンッ!

 銃弾がシールドに当たり、すべて弾かれる。

 以前の「光の反射」ではない。「物理的な遮断」。そのシールドは、質量を持った壁のようだった。


「……すごい。これが新しい力?」

「ええ。……お嬢の血が、俺を守ろうとしてくれてるのが分かります」


 瑛司が不敵に笑い、シールドを解除すると同時に踏み込んだ。

 黒い左拳による一撃。

 ドガッ!

 リーダーの男が、プロテクターの上から殴られたにも関わらず、肋骨が砕ける音と共に吹き飛んだ。

 廊下まで転がっていき、ピクリとも動かなくなる。


 わずか数十秒。

 精鋭部隊Anti-Beast Forceは、たった一人の「半人半魔」によって壊滅した。


          *


 私たちは医務室を出て、廊下を走った。

 非常ベルが鳴り響く。

 拘置所全体が封鎖されようとしていた。


「どこへ向かいますか、お嬢。屋上? それとも正面?」

「正面突破よ。……隠れて逃げるのはもう終わり。堂々と出て行ってやるわ」


 私たちは管理棟の中央階段を駆け下りた。

 行く手を阻む刑務官や増援の部隊。

 だが、彼らは瑛司の姿――白銀の髪にオッドアイ、そして異形の黒腕――を見て、恐怖で足を止めてしまう。

 撃ってくる者もいたが、瑛司はそれらを左腕一本で薙ぎ払い、壁を砕いて道を作った。


 正面玄関ホール。

 そこには、厚さ数センチの防弾ガラスと、鉄格子が二重に設置されていた。

 さらに、外には機動隊の車両が集結しているのが見える。


「頑丈そうな扉ですね」

 瑛司が首を鳴らす。

「壊せる?」

「お嬢との『愛の力』があれば、余裕です」


 彼は軽口を叩きながら、右手のひらを左手の甲に重ね、構えを取った。

 背中の刺青と、左腕の血管が同時に輝く。

 白銀の光と、深紅の光が螺旋を描いて収束する。


「――穿(うが)て、黒鹿(こくろく)の角!」


 ズドンッ!!

 瑛司が放った正拳突きは、物理的な衝撃を超えた「空間の歪み」を生んだ。

 防弾ガラスが粉々に砕け散り、分厚い鉄格子がねじ切れて吹き飛ぶ。

 爆風と共に、私たちは朝の光の中へと躍り出た。


          *


 外は快晴だった。

 拘置所の正門前には、すでに数千人の群衆が集まっていた。

 「辰田紗矢を解放せよ」「政府は説明しろ」というプラカードを掲げた市民たちだ。

 そして、その最前列には、見慣れたトラックが一台停まっていた。


「よぉ! 待ちくたびれたぞ、脱獄犯!」


 荷台の上に立ち、拡声器で叫んでいるのは葛原(くずはら)だ。

 晴天同盟と辰田組の残党たちが、警備の隙を突いてバリケードの一部を崩していたのだ。


「葛原さん!」

「さっさと乗れ! 次は裁判所じゃねえ、空港だ!」


 空港?

 疑問に思う間もなく、機動隊が私たちを取り囲もうとする。

 しかし、群衆が盾になった。

「逃がしてやれ!」「彼女たちは無実だ!」

 市民たちがスクラムを組み、警察の進行を阻む。


「……みんな」

 私は胸が熱くなった。

 言葉は、届いていたのだ。獄中手記も、あの演説も。


「行こう、瑛司!」

 私たちは群衆が作ってくれた花道を駆け抜けた。

 人々が手を伸ばし、私たちの肩や背中に触れる。

 「頑張れ」「負けるな」。

 その温かい声援を受けながら、私たちは葛原のトラックに飛び乗った。


 トラックが急発進する。

 背後で、拘置所のサイレンが空しく響いていた。


          *


 荷台の上で、私は荒い息をついた。

 隣には瑛司がいる。

 彼は黒い左腕をさすりながら、満足げに微笑んでいた。


「……空港って、どういうことですか、葛原さん」

 私が運転席の窓を叩いて尋ねると、葛原はニヤリと笑った。


「日本に居場所はねえ。葛城(かつらぎ)政権は、メンツにかけてもお前らを殺しに来る。……だが、世界は広いぞ」

「世界?」

「ああ。ある国から『亡命』のオファーが来ている。……お前たちの力を研究材料としてではなく、一人の人間として受け入れたいという国がな」


 亡命。

 日本を捨てるということか。

 父が愛し、守ろうとしたこの国を。


 私は迷った。

 だが、瑛司が私の手を握った。黒く冷たい、でも確かな強さを持つ左手で。


「行きましょう、お嬢。……俺たちの戦いは、もう国境なんて関係ない。世界中が舞台だ」

「……そうね」


 私は遠ざかる東京拘置所を見つめた。

 そして、その向こうに見える東京の空を見上げた。

 いつか、必ず戻ってくる。

 この国が、本当に自由で、嘘のない国になった時に。


「行き先は?」

「南だ」

 葛原が答えた。

「赤道直下の島国。……そこにもまた、大国のエゴに踏みにじられている『声なき声』があるそうだ。極道作家の出番だぞ」


 トラックは首都高に乗り、羽田方面へと加速していった。

 私の物語は、新たな章へと突入しようとしていた。

 革命は終わらない。

 場所を変え、形を変え、私たちが生きている限り、言葉と暴力の詩(うた)は紡がれ続ける。


 さようなら、日本。

 そして、こんにちは、新しい世界。


(第31話 完)

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