第29話:ガラス越しの恋人たち
東京拘置所、小菅(こすげ)。
荒川のほとりにそびえ立つその巨大なコンクリートの要塞は、今の私たちにとっての「城」であり、同時に「墓標」でもあった。
独房の窓は小さく、切り取られた空は四角い。
あの日、国際フォーラムで逮捕された私たちは、即座にここに収容された。
「国家転覆罪」「大量破壊兵器使用」など、およそ一人の人間にかけられるとは思えない罪名の数々。
しかし、ここには米軍のAnti-Beast Forceはいない。
法の監視下にあるこの場所は、皮肉にも、今の日本で最も安全な場所だった。
私は白い壁を見つめながら、膝の上のノートにペンを走らせていた。
検閲付きだが、執筆活動は許可されていた。
私が書く「獄中手記」は、弁護士を通じて外の世界へ発信され、連日トップニュースとなっているらしい。
『――私たちは怪物ではない。ただ、愛するものを守るために牙を剥いた、弱き獣だったのだ』
ペンを置く。
指先が震えるのは、寒さのせいではない。
瑛司(えいじ)。
別の棟に収容されている彼の容態が、気になって仕方がないのだ。
*
午後、面会の呼び出しがかかった。
弁護士との接見だと思い、面会室へ向かった私の前に現れたのは、意外な人物だった。
晴天同盟の葛原(くずはら)と、見知らぬスーツの男。
そして、車椅子に乗せられた、白銀の髪の青年。
「……瑛司!」
私は思わずアクリル板に駆け寄った。
瑛司は、以前よりもさらに痩せていた。
拘置所支給の灰色のスウェットが、ブカブカに見える。肌は陶器のように白く、首筋には青白い血管が透けて見えた。
それでも、彼は私を見ると、以前と変わらぬ優しい笑みを浮かべた。
「……お久しぶりです、お嬢。元気そうでよかった」
「元気なわけないでしょう! あなたは……体は大丈夫なの?」
「ええ。ここは快適ですよ。飯は不味いし、酒も飲めませんが……追っ手に怯えて泥水をすするよりはマシだ」
彼は軽口を叩いたが、その声にかすれが混じっているのを私は聞き逃さなかった。
葛原が重々しく口を開いた。
「……特別措置だ。二人の『共犯関係』の確認と、健康状態の悪化を理由に、特例で合同面会を取り付けた。担当検事になかなか話の分かる奴がいてな」
「葛原さん……ありがとう」
葛原は隣の弁護士――人権派として有名な初老の男性――を紹介し、今後の裁判の方針を説明し始めた。
世論は私たちに同情的だ。政府の陰謀が暴かれた今、司法も私たちを一方的に断罪することはできない。
時間をかければ、執行猶予、あるいは無罪を勝ち取れる可能性すらある。
だが。
私と瑛司は、同時に顔を見合わせた。
時間。
それこそが、今の私たちに最も欠けているものだ。
「……先生」
瑛司が弁護士の言葉を遮った。
「俺には、裁判の結果が出るまで待つ時間はありません」
「鹿角さん、何を弱気な……」
「自分の体です。分かります。……中の燃料は、もう空っぽだ。今は残りカスを燃やして動いてるに過ぎない」
瑛司は自分の左手を見た。
指先が、微かに光の粒子となって分解され始めているのが見えた。
実体としての維持ができなくなってきている。
獣神化の代償。人間という器が、神の力に耐えきれず崩壊を始めているのだ。
「……葛原さん、先生。少しだけ、二人きりにしてもらえませんか」
瑛司の頼みに、葛原は苦渋の表情で頷き、刑務官に交渉してくれた。
刑務官は渋々ながらも、部屋の隅へ下がり、私たちに背を向けた。
*
分厚いアクリル板を挟んで、私と瑛司は向き合った。
触れることはできない。
でも、互いの白銀の髪と、やつれた顔は、鏡写しのように似ていた。
「……ごめんね、瑛司」
私が先に口を開いた。
「私があなたを巻き込んだ。……私が『世界を変える』なんて大それたことを言わなければ、あなたは今頃、組の跡目を継いで、普通の極道として……」
「普通の極道ってのも変な言葉ですがね」
瑛司は笑って首を横に振った。
「お嬢。俺は、後悔なんて一つもしてませんよ。……路地裏で死ぬはずだった俺が、愛する人のために命を燃やして、世界まで救っちまった。男として、これ以上の生き様がありますか」
彼はアクリル板に、痩せた掌を当てた。
私も、その位置に合わせて自分の手を重ねる。
温もりは伝わらない。
でも、魂が震えるのが分かった。
「……でも、私はあなたに生きていてほしい。どんな姿になっても」
「俺も、生きたいですよ。……お嬢と一緒に、日昇の海を見たかった。親父の墓参りもしたかった」
瑛司の瞳から、一筋の涙がこぼれた。
それは透明ではなく、微かに青く発光していた。
命の雫。
「お嬢。……俺がいなくなっても、泣かないでください」
「……嫌よ。泣くに決まってる」
「小説、書いてくださいね。……俺たちの物語が、誰かの勇気になるように」
「あなたがいない物語なんて、書きたくない……」
私は子供のように首を振った。
嫌だ。
世界中が私を称賛しても、彼がいなければ何の意味もない。
革命なんて、どうでもいい。
ただ、彼の温かい手で頭を撫でてほしいだけなのに。
ゴホッ!
不意に、瑛司が激しく咳き込んだ。
彼が口元を押さえた掌が、鮮烈な青い光に染まる。
「瑛司ッ!?」
「はぁ、はぁ……。ちっ、カッコつかねえな……」
瑛司の体が、車椅子から崩れ落ちそうになる。
刑務官たちが慌てて駆け寄る。
ブザーが鳴り響く。
「瑛司! しっかりして! 瑛司!」
私はアクリル板を叩いた。割れるほど強く叩いた。
邪魔だ。この壁が邪魔だ。
今すぐ彼を抱きしめたいのに。
「……お嬢……」
瑛司が、薄れゆく意識の中で私を見上げた。
「……愛して……ます……」
その言葉を最後に、彼は意識を失った。
彼の体から、蛍のような光の粒子が立ち上り、天井へと消えていく。
「嫌ぁぁぁぁぁぁっ!!」
私の絶叫が、無機質な面会室に響き渡った。
瑛司は医務室へと運ばれていった。
残された私は、冷たいアクリル板に額を押し付け、慟哭した。
神様。
いるなら答えて。
私たちは父を失い、家を失い、全てを捧げて戦った。
これ以上、何を奪えば気が済むのですか。
*
その夜。
独房に戻された私は、一睡もできなかった。
瑛司が死ぬかもしれない。
その恐怖が、死体兵団と戦った時の何倍もの重さで私を押し潰そうとしていた。
深夜、独房の鉄扉が静かに開いた。
立っていたのは、いつもの刑務官ではなく、白衣を着た医師風の男だった。
手には、アタッシュケースを持っている。
「……辰田紗矢さんですね」
男は声を潜めて言った。
「私は、政府から派遣された医療研究員です。……鹿角瑛司さんを救う方法が、一つだけあります」
私は弾かれたように顔を上げた。
「……あるの? 彼を助ける方法が」
「はい。ただし、極めて危険で、倫理的に問題のある方法です。……そして、あなた自身の命を危険に晒すことになります」
男はアタッシュケースを開けた。
中に入っていたのは、黒曜石の小さな容器。
かつて父が蔵から出した、あの「古代インク」の原液だった。
「これは、地下神殿の残骸から回収された『原初のインク』です。……彼の枯渇した生命力を補うには、外部から新たなエネルギーを注入するしかない。しかし、ただ注入すれば拒絶反応で即死します」
男は私を直視した。
「適合者であるあなたの血液を触媒(フィルター)にして、このインクを濾過し、彼に輸血するのです。……あなたの血と、古代の呪いを混ぜ合わせて、彼の血管に流し込む。成功率は一割未満です」
一割未満。
しかも、失敗すれば私も死ぬかもしれない。
だが、迷いはなかった。
「……やりましょう」
私は即答した。
「一割もあるなら十分です。……私の血で彼が生きるなら、全部あげます」
男は驚いたように私を見つめ、やがて深く頷いた。
「……狂気ですね。でも、その狂気こそが、奇跡を起こすのかもしれません」
私は立ち上がった。
これが最後の賭け。
愛する男を取り戻すための、禁断の儀式が始まろうとしていた。
(第29話 完)
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