第5話-A|観測後の世界

 翌朝、期待していた――あるいは覚悟していた――「迎え」は来なかった。


 石畳を執拗に叩く重い軍靴の足音も、自室の扉を無遠慮に、そして事務的に叩く無言の使者の気配もない。

 私の名を記し、しかるべき処罰や異動を命じる冷徹な召喚状が、枕元に音もなく置かれていることもなかった。

 窓の外では、昨日までと全く変わらぬ灰色の空が広がり、王宮の尖塔が、まるで最初から意思など持ち合わせていないかのように寒々しく屹立しているだけだ。


 静かすぎる朝だった。

 だからこそ、私は意識が覚醒した瞬間に、即座に理解した。

 これは「何も起きなかった」という救済ではない。

 私という異物が、この世界の論理構造に突き立てた「説明」という名の楔が引き起こした処理が、今この瞬間も水面下で、人知れず継続しているのだ、と。


 第三記録室へ向かう廊下は、昨日までと全く同じ幾何学的な構造を保っている。

 冷たい石の床、一定間隔で配置された魔導灯の淡い、どこか不健康な光、壁のあちこちに刻まれた、もはや誰もその意味を解釈しようとしない古い紋章。

 網膜が捉える視覚情報だけを切り取れば、世界は何一つ変わっていないように見える。

 だが、肌を刺す空気の密度が、昨日までとは決定的に違っていた。


 昨日まで、この王宮の隅々にまで防腐剤のように満ちていた、人々の思考を穏やかに溶かすような「無関心の静けさ」。それが、修復不能なほどに失われている。

 代わりに漂っているのは、言葉では説明のつかない、粘りつくような緊張の粒子――。

 すなわち、「自分たちは今、上位の存在に観測されている」という事実を、誰もが逃げ場のない確信として知ってしまった後の、死を待つような沈黙だった。


 第三記録室の重厚な扉は、いつも通り無防備に、誘うように開かれていた。

 鍵はかかっていない。物理的な封鎖もされていない。

 だが、その不可視の境界線を一歩越えた瞬間、私の心臓の鼓動が、鐘の音のように脳内に響き渡った。


 ――ここは、もう昨日までの場所ではない。


 職員たちは、すでにそれぞれの席に着いている。

 書きかけの書類も、昨日補充されたばかりの黒いインク瓶も、配置は昨日までと寸分違わず整えられている。

 だが、奇妙なことに、誰一人としてペンを動かしてはいなかった。


 「察して」動く者たちの世界において、動作の停止、すなわち「止まる」という行為そのものが、存在意義を否定する最大の異常だ。

 にもかかわらず、数十人の職員たちは、あたかも時間を強奪された石像のように、不自然な姿勢で静止していた。

 誰も「察すること」ができなくなっているのだ。


 理由は、残酷なほどに単純だった。

 察して動くための大前提となる「責任の消失」という論理構造が、昨日の私の「説明」によって破壊し尽くされていたからだ。


 昨日までは、この部屋には二つの絶対的な暗黙の保証があった。

 「間違っても、それは個人の責任にはならない」

 「ただ周囲の流れに従えば、どんな致命的な過失も誰のものでもなくなり、霧の中へと溶けて消えていく」

 その甘やかな停滞こそが、彼らの生存戦略そのものだった。


 だが今は違う。

 ここで一行でも、一文字でも、自らの意志で文字を書けば、その一行は「説明が発生し、責任の所在が可視化された後の、明白な自覚的判断」として、永久にこの世界の記録に刻まれることになる。

 それは無意識の慣性による「動作」ではなく、観測下での逃れようのない「意思決定」だ。

 責任の所在を突きつけられた世界で、その「最初の責任者」になる勇気を持つ者は、この臆病な沈黙の巣には、ただの一人も存在しなかった。


 私はゆっくりと自分の席へ歩を進めた。

 椅子を引き、腰を下ろす。

 椅子の脚が床に触れるわずかな摩擦音が、昨日よりも数倍はっきりと、無機質な空間に鋭く響き渡った気がした。

 それだけで、周囲の職員たちの背中が、目に見えてわずかに、そして滑稽なほど強張るのが分かった。


 無言の視線が、針のように私に集中する。

 だが、それは昨日までの「異端を見る視線」とは質が違っていた。

 嫌悪でも、あからさまな恐怖でもない。それは、測量士が未知の断層を眺めるような、冷徹な「距離の測定」だった。


 ――この男は、どこまでこの世界の“外側”へ踏み出してしまったのか。

 ――どの程度の半径まで、近づいてはいけない「基準外の存在(アウトライヤー)」なのか。


 私は、何も言わない。言う必要がそもそもない。

 ここで私が再び慈悲深く口を開けば、それだけでまた新たな「説明」が発生し、この場の均衡をさらに複雑で解けない多体問題へと叩き落としてしまうだろう。


 今日の沈黙は、昨日よりも遥かに重く、湿っている。

 だが同時に、私は冷徹な計算の結果として確信していた。

 この、世界が凍りついたような中途半端な停止状態は、決して長くは続かないということを。


 察しによって成立する社会は、説明を病的に嫌うが、同時に「システムの完全な機能停止」には、生理的なレベルで絶対に耐えられないように設計されている。

 

 誰かが、必ず耐えきれなくなる。


 魔導灯が、瞬いた。


 一拍。

 ほんの一瞬だけ、光が弱まり、

 次の瞬間には何事もなかったかのように戻る。


 誰も見ていない。

 だが、誰もが「気づいた」まま、何も言わない。


 ――ああ。


 もう、「空気を読んで」元には戻れない。


 誰かが、論理的な理由ではなく、単なる「動いていないことに耐えられない」という生存本能として、無意味な「動作」を選ぶ。

 その最初の一人が、震える手でペンを動かした瞬間、ダムが崩壊するようにこの部屋は再び、狂ったリズムで動き出すだろう。

 

 そして、以前と同じ形では、もう二度と、この世界は動くことはできない。


 私は、机の上に置かれた真っ白な、あまりに純粋すぎる書類を見つめながら、静かに思考を加速させていた。

 王妃は、まだ物理的な行動を何も起こしていない。使者も、言葉も、視線すら直接的には届いていない。

 だが、彼女が「あえて何もしない」という判断を維持し続けていることそのものが、すでにシステムに対する一つの巨大な操作(オペレーション)として機能していた。

 

 一度観測されてしまった世界は、観測される前の無垢な世界には戻れない。

 それは、微小な粒子の振る舞いを変えてしまう量子力学の観測問題と同じ、残酷で不可逆な物理法則だ。


 迎えは、来なかった。

 だが、それは決して慈悲深い猶予などではない。

 

 これは、システム全体の再編が完了し、異物たる私の「次の配置」が、計算機の中で確定するまでの、束の間の待機時間に過ぎないのだ。


 私は、まだペンを取らない。

 周囲に合わせ、責任を霧散させるための「察し」も、自分を正当化するための「説明」もしない。

 

 ただ、この壊れた世界がどこから、どのような致命的な歪みを持って再起動(リブート)するのか。

 私は、この沈黙の共同体において唯一、その外側に立ってしまった「基準外の観測者」として、その瞬間を、一ミリの誤差もなく見極めようとしていた。


 背後で、誰かの呼吸がわずかに震えた。

 吸い込み、吐き出す空気の摩擦音。

 その小さな揺らぎが、連鎖的な波となって、水を打ったような部屋を伝わっていく。

 

 時計の針は進んでいない。

 だが、私を世界の深部へと誘い出す見えないカウントダウンは、すでに最終局面に入っていた。


 私は、その時が来るのを、ただ静かに待っていた。

 説明という罪を犯した代償として、この世界が私にどのような「解」を提示してくるのかを、冷徹な期待とともに見つめながら。

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