第3話 二十三時五十九分の一手

 透明なポリカ箱は壁に埋め込まれていた。中の端末は旧式なのに、封印だけが新しい。縁を走る細い光が「未開封」を主張している。


 風花が、真鍋の手元ではなく廊下の奥――観測機器のノイズが漏れてくる方向を見た。


「二十三時五十八分まで、待って」


「待つ? どういうことだ」真鍋が眉を動かすと、風花はタブレットを軽く持ち上げた。画面には運用手順と、ログ画面の切り替え方法。その詳細なフローが記述されている。


「観測装置は五十九分の前に動き出す。五十八分台から、公示の準備処理ルーティンが走るの。観測値の取り込み、圧力場の再構成、等圧線の生成――それを『正しい手順で実行した』っていうログと署名を記録して確定する」


 風花は真鍋を見つめた。


「通報は早くても遅くてもダメ。だから、適切な時間まで待つ。早ければ、証拠を握り潰されるし、遅ければ、等圧線が確定してしまうでしょう? 五十八分台なら、うまく処理の間隙を突ける」


「1分で間に合うのか」真鍋が懸念した。


 風花の眉がキリっと上がる。

「間に合わせるの。手順を言うから、頭に叩き込んで」


「分かった、教えてくれ」

「まず偽装観測を証明する書類の写真。『欠測時補完』の条項と、圧力場を『再構成して等圧線を生む』運用画面。――実測じゃないって証拠、それを一気に送る」


 彼女は声を落とした。


「それが条約事務局の回線に入った瞬間、真正性フラグが『審査中』になる。審査フラグが立ったら、もう公示は出せない。国境等圧線方式が止まるのよ。しかも、止めたいのは今夜だけじゃない、来年以降も止めなければ。だから偽装を暴いて、息の根を止める」


 壁の電子時計が、二十三時五十八分を回った。


「さあ、時間よ」風花が促した。


 真鍋は呼吸を一度整え、防寒手袋を外した。素手の指先が冷気に刺されてチリチリする。箱の隅にある封印ラッチに指を掛け、力を込めた。


 パキン――乾いた破断音が廊下を跳ね渡る。続いて短い電子音が鳴り、表示灯が赤に変わる。


――開封ログ、記録開始。


 電子の焼き印が押された。ここから先は、もう戻れない。

 蓋を開けると、埃をかぶった送信端末と接続モジュールが収まっていた。モジュールの配線が絡まって、鳥の巣のようだ。背後でゴウがいら立ち、舌打ちする。風花は一歩も動かず、視線だけで真鍋の手元を追った。


 背後でゴウが吐き捨てるように言う。

「遅ぇよ」

 風花が低く制す。

「急かさない。手順をミスったら全てが終わる」


 手順。そう、手順さえ間違わなければ、上手くいく。生徒も無事だ。犯罪者となっても、指揮役の責任は果たせる。


 端末の電源を入れる。暗い画面が青白く立ち上がり、待機音が小さく鳴った。耳に残るのは、廊下の遠くで逞しく唸る観測機器の駆動音だ。気象観測所が、人間の都合など素知らぬ顔で、23:59に向かって疾走している。


 真鍋は非常ビーコンの裏ブタをはがし、指紋認証させる。微弱電波でリンクしたIDが端末に取り込まれた。端末画面にアクセス許可のメッセージがポップアップする。


 間髪入れず、風花のタブレットから、文書の該当箇所と運用画面を転送した。添付は二枚。次いで、メールを入力する。文面は簡潔に、必要な固有名詞を落とさない。


――「欠測時補完(内部運用)」により、圧力場を再構成し国境等圧線を生成。実測ではなく『偽装観測』が行われた証拠あり。真正性失効条項の発動要件に該当。公示の停止と方式凍結を要請。


 宛先は条約事務局、監査、当直の司法窓口、国境監視の外部機関。メディアは要らない、どうせ国の監視下にあるのだから。


 キーを叩く手がかじかむ。ミスタッチをする。誤字を消して打ち直す。壁の時計が二十三時五十八分五十秒を過ぎた。


 送信キーに指を置いた。押せば、公務員としては終わる。だが、偽装を目にして沈黙する教師は、人として終わっている。


 真鍋はキーを押した。


 端末が短く鳴り、「送信完了」とだけ表示した。

 拍子抜けするほど静かな反応だった。


 直後、端末に自動返信が雪崩れ込む。番号だけが並び、続いて短い定型文がスクロールする。


――「受理」

――「真正性疑義として登録」

――「公示停止の協議要請」

――「仮処分、当直審理に付す」


 廊下のスピーカーが、機械的な音声を流した。観測所のものではない。条約事務局の定型放送だ。長い通路に反響する。


『真正性失効条項に基づき、国境等圧線方式を停止します。本年度の国境更改公示は保留。次年度以降も監査完了まで凍結します』


 ゴウが安堵で口を半開きにする。握っていた黒い箱から、力が抜けた。

 風花は目を閉じ、ただ息を吐いた。

 真鍋は壁の時計を見る。秒針が、二十三時五十九分を跨いでいく。


 窓の外で吹雪が唸る。

 その音はもう「国境線を引く残酷な音」ではない。自然界を吹き渡る、ただの風だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る