白石ゆい編

第5話 褒め言葉は、拡散される[1]

インフルエンサーである白石ゆい(しらいしゆい)のスマートフォンは、朝になるといつも熱を持っていた。

通知が溜まり、画面が光り、指が追いつかない。


ベッドの中で目を開けるより先に手が端末を探す。

癖というより、確認だ。

自分がまだ“いる”かどうかを確かめるための。


「可愛い」

「今日の服、好き」

「元気もらいました」

「これどこの?」

「真似したい」

「待ってた」


知らない名前。

知らない顔。

それでも、そこには確かな数があった。


数字は分かりやすい。

増えた、減った、伸びた、落ちた。

曖昧な現実よりも、ずっと“扱える”。


画面を撫でるたび、誰かが自分を肯定している。

それは現実の会話よりも軽くて、だからこそ、安全だった。


距離がある。

生活に踏み込まれない。

失望される心配もない。


白石ゆいは、その感覚が好きだった。

見知らぬ誰かに、ちょうどいい距離で褒められること。

それは、疲れない承認だった。


――最初のうちは。


高校を卒業して、何となく始めた投稿。

最初は本当に、何となくだった。


新しく買ったワンピース。

カフェのラテアート。

晴れた日に窓から入る光。

友達に撮ってもらった写真の、たまたま良かった一枚。


「可愛い」

「センスいい」

「憧れます」


通知が鳴るたび――心臓が跳ねた。

誰かが――自分を見つけている。

それだけで――世界が少し広がった気がした。


ゆいは目立ちたいタイプではなかった。

学校ではむしろ、目立たない方が楽だった。

聞かれたら答える。

話しかけられたら笑う。

でも、自分から輪の中心へ行くのは苦手だった。


だから、画面越しの「可愛い」は、ちょうどよかった。

近づかれない。

でも、見つけてもらえる。


自分の存在を確かめられるのに痛くない。

それが、甘かった。


数字が増えた。

反応が増えた。

名前が知られるようになった。

フォロワーが増えるほど、自分がちゃんと存在しているような気がした。


やがて、生活が変わった。

ファッション系の案件。

コスメのPR。

イベントに呼ばれる。

撮影に参加する。

「ゆいちゃん、今回の投稿はこのタグでお願いね」と、マネージャーが言う。


いつの間にか、“何となく”が仕事になっていた。


それでも最初は楽しかった。

撮影は緊張したけれど、出来上がった写真は綺麗で、

自分が自分より少しだけ“整った人間”になれた気がした。


「世界が広がる」

そう思っていた。


でも、“広がった世界”は、同じ幅で戻ってこない。

広がったぶんだけ、求められる。

求められるぶんだけ、外せなくなる。


笑顔を見せれば褒められる。

弱さを見せても褒められる。

投げやりに書いた言葉でも褒められる。


「それも含めて好き」

「全部が魅力」

「何してても可愛い」


優しい言葉だった。

否定されない安心があった。


だけど、いつからか、それが怖くなった。


どこまでが自分で、どこからが“期待されている自分”なのか、分からなくなったからだ。


朝、鏡の前で髪を整えるとき。

撮影前にリップを塗り直すとき。

投稿文の一語を迷うとき。


「これは私が選んでる?」

「それとも、みんなが好きな私に寄せてる?」


寄せる、という言葉が嫌だった。

寄せているのに、自分で自分を裏切っている気がするからだ。


でも、寄せなければ伸びない。

伸びなければ、案件が減る。

案件が減れば、生活が揺らぐ。

生活が揺らげば、不安になる。


不安になると、また寄せる。

その循環は、見えない鎖みたいに強かった。


最後に投稿を削除したのは、三か月前のことだった。


理由は特にない。

炎上したわけでもないし、叩かれたわけでもない。

広告の話も、相変わらず届いていた。


ただ、その日は朝起きてスマートフォンを見ても、通知が一つも増えていなかった。


それだけのことだった。


それなのに、

「あ、もういいな」

と、思ってしまった。


“いい”、というより。

“もう”、いい。


その感覚を説明しようとすると言葉が逃げる。

フォロワーは残っている。

DMも来る。

名前を呼ばれる場所は――まだある。


それでも、そこに“自分”がいない気がした。


白石ゆい、という名前のアカウントが、自分の知らない時間帯に、自分の知らない誰かと呼吸している。

そんな感じがして画面を見るのが、ほんの少しだけ怖くなった。


怖い、というのも違う。

怖いなら、やめればいい。

でも、やめるのも怖い。


やめたら、“何者でもない自分”が残る。

残るのが怖い。


ゆいは、自分の部屋の静けさが、時々きらいだった。

静けさの中では、誰も自分を褒めない。

褒めないどころか、誰も自分に興味を持たない。


それが普通なのに、普通が耐えられなくなっている。

その事実が、いちばん嫌だった。


「褒め屋、か……」


検索窓に文字を打ち込みながら、ゆいは自分で自分を笑った。

褒められすぎて、ここまで来た人間が、今さら、褒めを買いに行く。


皮肉だと思う。

同時に、確かめたかった。


――本当に、言葉が人を救うなら。

――あれだけ浴びた褒めは、なぜ自分を空っぽにしたのか。


褒めが嫌いになったわけじゃない。

むしろ、好きだった。


好きだった、はずだ。


なのに、最近は褒めが怖い。

褒められるたびに、少しだけ自分が減る気がする。


褒めが、糧じゃなくて、消費になる。

消費されるために生きているみたいになる。


「……変な話」


自分に言い聞かせるように呟いて、ゆいは検索結果をスクロールした。

メンタル。セルフケア。自己肯定感。

聞き慣れた言葉が並ぶ。

それらは優しいのに、どこか“まとめ”に見えた。


まとめられたくない。

まだ、まとまっていないからだ。


スクロールの末に、異物みたいに静かな文があった。


「あなたを褒める仕事をしています」


アカウント名は、三枝しの。

プロフィールは短い。

“治療ではありません”“専門家ではありません”

その断りが、逆に真面目に見えた。


ゆいは、固定投稿を開く。

予約制。対面/オンライン。料金表。注意事項。

書いてあることは淡々としていて、匂わせがない。


“匂わせがない”というのは、珍しかった。

この世界では、匂わせることが価値だからだ。

売り込みの匂わせ。関係の匂わせ。意味の匂わせ。

匂わせるほど、反応がもらえる。


なのに、この人は匂わせない。

匂わせないくせに、“言葉を売る”と言う。


その矛盾が、ゆいの興味を引いた。


予約フォームを開く。

名前。連絡先。希望形式。

そして最後に、褒めてほしいポイント。


ゆいはそこに、何も書けなかった。


書けない理由が分からない。

褒められるポイントなら、山ほどあるはずなのに。

“みんなが褒めてくれる私”なら、いくらでも列挙できるのに。


でもそれは、ゆいの欲しいものじゃない。


欲しいものが分からない。

分からないまま、送信ボタンを押す。


押した瞬間、胸の奥が少しだけ冷えた。


白石ゆいは、自分が何を期待しているのか、まだ分かっていなかった。

ただ一つだけ確かなのは、このままでは、どこにも辿り着けない、ということだった。

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