静寂に咲く火

済美 凛 1月6日より新作投稿

第1話 残火の記憶

三月の風には、まだ刺すような冷たさが混じっていた。

 卒業式を終えた校門前は、妙に明るい。誰かの笑い声が弾け、スマホのシャッター音が軽く鳴る。色紙を抱えた連中が肩を叩き合い、第二ボタンの話で騒いで、将来の話をして――それが、同じ場所で同じ時間を過ごしたはずの人間の姿だとは思えないくらい、遠かった。


「晴斗、写真!」


 名前を呼ばれて、反射で笑う。肩を組まれて、顔を寄せて、目を細める。シャッター音が鳴る。その瞬間だけは、ちゃんと卒業生の顔をしていたと思う。だが、すぐにほどけた。


 輪から離れると、空気が急に冷える。さっきまで耳の奥に詰まっていた喧騒が、薄い膜みたいに遠ざかっていく。


 手には、黒い筒に収まった卒業証書。


 重いのは紙じゃない。これを持って立っている自分が、何者でもないまま置き去りにされている感じがするからだ。


 進路希望調査票は、最後まで白紙だった。

 書けなかったんじゃない。書かなかった。

 書いた瞬間、周りの言葉が現実になるのが怖かった。


 「そんなの食えない」「今どき職人?」「この町で?」


 言われるのが目に見えていた。反論できるほどの根拠もない。そもそも、自分の中でさえ言葉になっていない。


 校舎の窓に貼られた「祝・卒業」の紙が、風でぱたぱたと揺れていた。あの紙の軽さが羨ましかった。祝福って、本来こういうものなんだろう。軽くて、明るくて、前へ進ませるもの。


 晴斗は、駅とは逆の道へ歩き出した。


 住宅街を抜けると、急に人の気配が薄くなる。道端の用水路にはまだ冬の匂いが残っていて、湿った土の匂いが風に混じった。土手へ続く坂道を上ると、川が見えた。水面は鈍く光り、岸辺の枯れ草が擦れる音だけが聞こえる。


 どこへ行くのか、決めていたわけじゃない。


 ただ、足が勝手にそちらを選んだ。


 川沿いの道を少し行くと、古い作業場が見えてくる。トタン屋根は錆び、木枠の窓は曇って、看板の文字は色褪せていた。それでも読める。


 ――星火花火店。


 看板の下には白い紙が貼られている。


「廃業のお知らせ」


 短い文面。理由も、日付も、何も書かれていない。


 それを見た瞬間、胸の奥がじくりと痛んだ。


 十年前の夜が、ひどく鮮明に蘇る。


 町の財政難で中止になった夏祭り。屋台も、盆踊りも、花火もない。大人はため息をつき、子どもは訳も分からず拗ねていた。晴斗も、ただ「今年はない」と言われて、納得したふりをした。


 その夜、不意に空が裂けた。

 爆音じゃない。

 闇を切り裂くように、一筋の光が昇った。

 頂点で、静かに爆ぜる。

 オレンジ色の火花が枝分かれし、落ちていく。


 派手でも豪華でもない。なのに、息をするのを忘れていた。


 音が消えた。世界が、夜空だけになった。


 火花が消える直前、一瞬だけ強く輝いて、そして闇に溶けた。


 拍手も歓声もなかった。

 ただ、しばらく誰も動かなかった。

 あの静けさだけが、胸の奥に残っている。何年経っても、そこだけ冷めない。


「……まだ、あるんだ」


 誰に聞かせるでもなく呟いて、門扉に手をかけた。


 錆びた金属がきしみ、不快な音が静寂を破る。


 敷地の中には木箱や土嚢が積まれている。火気厳禁の札が赤く目立つ。鼻を刺す匂いがした。硫黄と、炭と、湿った紙が混ざったような匂い。花火の匂いだ、と頭が勝手に名札を貼る。


 懐かしい、とは言えない。


 でも、嫌じゃない。


「……ごめんください」


 返事はない。


 代わりに、奥の作業小屋からコン、コン、と一定のリズムで何かを叩く音が聞こえてくる。


 音に引っ張られるように小屋の入口に立つ。薄暗い室内。電球ひとつの下で、老人が作業台に向かっていた。背中は小さいのに、空気だけが重い。


 最初に目に入ったのは、その手だった。


 節くれ立ち、あちこちに残る火傷の痕。指先は硬く、皮膚は薄く、古い木の皮みたいに見える。


 作業台の端には、歪んだ金属の箱が置かれている。留め具だけが新しい。そこだけが、妙に浮いて見えた。


「帰れ」


 老人は、こちらを見もしない。


「……まだ、何も言ってません」


「分かる。卒業したての顔だ。感傷に浸って、弟子入りでもしに来たんだろ」


 手は止まらない。コン、コン、と同じリズム。


「うちは畳む。もう終わりだ」


 その言葉で、喉の奥が乾いた。


 来るのが遅かったのか。遅すぎたのか。


 それでも、足が動かなかった。


「……十年前の、花火」


 その一言で、老人の手が止まった。


 止まったのに、振り返らない。背中が固くなるのが分かる。


「あの夜、オレンジ色の火花が――」


「余興だ」


 吐き捨てるような声。


「綺麗だの感動だの、そんな言葉で語るもんじゃねえ。火薬は遊びじゃない」


 背後から、冷えた声が割り込んだ。


「その通り」


 振り返ると、作業着姿の少女が立っていた。晴斗と同じくらいの年齢だろう。髪はきっちりまとめていて、目だけが鋭い。感情が見えないのに、拒絶だけははっきり伝わる。


「花火は危ないし、儲からない。失敗すれば、指も目も簡単に失う」


 彼女の視線が一瞬だけ、作業台の金属箱へ向いた。


 その動きが、妙に早くて、癖みたいに見えた。


「……あなたは?」


「美咲。娘」


 短い返答。余計な自己紹介はない。

 正論だった。反論できなかった。


 でも、それで引き返せるなら、そもそもここまで来ていない。


 沈黙が落ちる。電球の唸る音がやけに大きい。コン、コン、という音が止まったせいで、室内の空気が張りつめる。


「……もう一つ、聞かせてください」


 声が掠れた。


 言おうとしていた言葉が、うまく形にならない。 


「俺、あの花火を見て……正直、綺麗だとか、すごいとか、そんな言葉しか浮かばなかった。でも」


 喉が詰まる。格好悪い。


 それでも、言葉を落とさないように続ける。


「あれが終わったあと、急に静かになったんです。誰も拍手しなくて、誰も喋らなくて……でも、嫌じゃなかった」


 老人の背中は動かない。美咲の目だけが、わずかに細くなる。


「その理由が、分からないままなんです」


「分からないなら、忘れりゃいい」


 低い声。


「分からないものに首を突っ込むと、指を失う」


 その言葉が、ただの脅しに聞こえなかった。


 火傷の痕のある手が、それを証明している。 


「それでも――」


 晴斗は一歩、前に出た。


「分からないまま、帰るのは……嫌です」


 震える声。足元が頼りない。


 それでも止まらなかった。


 長い沈黙。


 老人が小さく息を吐く。ため息というより、何かを押し込める音だった。


「……頑固だな」


 作業台からようやく手が離れる。

 老人は、ゆっくりと振り返った。

 その目は優しさでも怒りでもない。値踏みする目だ。人間を測る目。


「覚悟は、口じゃ分からん」


 作業台の隅にあった小さな包みを、指先で押し出す。


「0.08グラム。線香花火の火薬だ」


 晴斗が手を伸ばす。


「――待て」 


 鋭い声で止められる。指先が空中で固まる。


「許可じゃねえ。試験だ」


 老人の声が低く落ちる。


「1ヶ月。その間、一本でも火玉を落としたら終わりだ。理由も、言い訳も聞かん」 


 美咲が口を挟む。


「父さん、本気? 素人が触っていい量じゃ――」


「いい」


 短く遮られる。


「危険を知らん奴は、どのみち残らん」


 包みが床に落ちる。乾いた音。


 投げたわけじゃない。ただ、落とした。わざと。


「拾え」


 晴斗は屈み、包みを拾い上げた。掌に収まるほどの、あまりにも軽い重さ。


 軽いのに、心臓の鼓動が重くなる。


 老人は背中を向けたまま言った。 


「それで一本作れ。火玉を落とさず、最後まで咲かせろ」 


 少しの間があった。


 その間に、晴斗は金属箱を見た。留め具だけ新しい箱。そこに触れてはいけない気がした。


「……二度と、同じ失敗はしねえ」 


 何のことかは分からない。 


 だが、その言葉だけが妙に重く残った。


「できなきゃ、二度とこの門を潜るな」 


 小屋を出ると、夕暮れの川面が赤く染まっていた。風は冷たいのに、頬の内側が熱い。


 包みを胸ポケットにしまうと、そこだけが妙に熱を持ったみたいに感じる。


 理由は、まだ言葉にならない。


 理解も、遠い。


 それでも――


(消えなかった)


 あの夜の光は、まだ胸の奥に残っている。 


 晴斗は息を吐き、川の匂いを吸い込んで、静かに一歩を踏み出した。

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