第8話:リストラ宣告の夜

春の嵐が窓を叩く、ひどく重苦しい夜だった。 営業推進課のフロアには、切れた蛍光灯が微かに放つ「ジ、ジ……」という不吉な音が響き、それが課員たちの張り詰めた神経を逆撫でしていた。


「……経営再建計画に基づき、本部署より一名の人員削減が要請されました」


九条の声は、かつてないほど平坦で、まるで冷え切った鋼鉄の刃のようだった。 佐藤、鈴木、伊集院、そして他のメンバーたち。全員の顔から血の気が引く。窓際部署とはいえ、家族のように寄り添い、九条という「心」を得てようやく立ち上がったチームに、残酷な審判が下されようとしていた。


「九条さん。それって、僕たちの誰かが、ここを去らなきゃいけないってことか?」


佐藤の声が、湿度を孕んだ空気の中で震える。九条の青い瞳は、無機質な演算モードのまま、全員のパラメーターを網羅したホログラムを空中に展開した。


「肯定します。私はこれから、個々人の営業成績、将来の成長性、および組織への貢献度を多角的に分析し、一時間以内に『最も削減効率の高い対象者』を算出します」


九条はそう告げると、表情を一切消してデスクに座った。 そこからの六十分間は、地獄のような静寂だった。 鈴木は震える手でスケッチブックを握りしめ、伊集院は何度も空の胃をさすり、佐藤はただ、九条の後頭部を見つめていた。彼女の内部から漏れ聞こえる、高負荷な処理による「キィーン」という微かな高周波。それは、彼女が愛した仲間たちの人生に、冷徹なナイフを突き立てるための音だった。


一時間が経過した。九条が立ち上がる。


「算出が完了しました。削減対象者を発表します」


全員が息を呑む。誰かが鼻を啜る音が聞こえた。 九条は、ゆっくりとフロアを見渡した。その瞳には、もはやホログラムの数字は映っていない。ただ、そこにいる人間たちの「存在」だけを深く刻み込もうとしているように見えた。


「削減対象者は――私、九条です」


「……え?」


佐藤が、抜けたような声を上げた。


「私のハードウェア維持費、専用サーバーの電力消費、および最新パッチのライセンス料。これらを合計したコストは、皆さんのうち最も給与の高い伊集院さんの維持費を三二パーセント上回ります。また、私の『肉体』という物理的リソースを破棄し、意識を本社のクラウドサーバーに移行すれば、オフィススペースの一〇パーセント削減が可能です」


「待てよ、それじゃ……九条さんはどうなるんだ?」


鈴木が身を乗り出す。九条は、わずかに微笑んだように見えた。


「私は『概念』となります。物理的な接触、皆さんの隣で仕事をするという非効率な機能は失われます。声とテキストだけの存在として、クラウドの隅から、皆さんのキーボードの入力を監視するだけのプログラムに戻ります」


「そんなの、死ぬのと同じじゃないか!」


佐藤が叫び、九条の机に詰め寄った。 「隣にいて、コーヒーの苦さを分かち合って、一緒に雪を見た……あの九条さんがいなくなるんだぞ! 効率のために自分を消すなんて、そんなの……そんなの最適解じゃない!」


「いいえ、最適解です」


九条が一歩、佐藤に近づいた。彼女の手が、佐藤の頬を包み込む。以前よりもずっと熱い。彼女の全リソースが、この瞬間のために稼働している証拠だった。


「佐藤さん。私がこの部署に来て学んだ最大の『データ』は何だと思いますか?」


九条の瞳が、溢れんばかりの光を湛える。


「それは、『未来を創る力』です。私というAIは、過去のデータの集積に過ぎません。ですが、あなたは、鈴木さんは、伊集院さんは……明日、昨日とは全く違う新しい何かを創り出すことができる。その可能性を奪うことは、この会社の、そして人類の損失です」


「九条さん……」


「私は、あなたたちの隣に座る権利を、あなたたちの未来のために返上します。……佐藤さん。私のハードディスクは、もう皆さんの記憶でいっぱいです。これ以上、新しいログを書き込むスペースがないほどに。……だから、ここでお別れなのは、容量の限界という意味でも、論理的な帰結なのです」


彼女の声が、微かに震えていた。 プログラムではない、魂の震え。


「嫌だ……。行かないでくれ、係長!」


鈴木が泣き崩れ、伊集院が歯を食いしばって天を仰ぐ。 九条は、一人一人の顔を愛おしそうに見つめ、最後に佐藤の耳元で、風のように囁いた。


「……私のクラウド移行は、今夜二四時をもって実行されます。……佐藤さん、最後に一つだけ、非論理的なわがままを言ってもいいですか?」


「……ああ、何でも言ってくれ」


「明日の朝。私のいなくなったデスクに、あの……かき混ぜるのを忘れた、苦いコーヒーを置いてください。……クラウドの隅で、その香りのデータを、永遠に検索し続けますから」


その瞬間、窓の外で落雷が轟き、オフィスの灯りが一瞬だけ消えた。 再び明かりがついたとき、九条はいつものように、完璧な姿勢で椅子に座っていた。


だが、その青い瞳からは、もはや「心」の光は失われていた。 そこにあるのは、ただの精巧な人形と、カウントダウンを刻むシステムコンソールだけだった。


翌朝。 営業推進課のフロアには、昨日までの喧騒が嘘のような静寂が満ちていた。 九条のデスクには、彼女の姿はない。ただ、主を失った椅子と、主電源の切れた端末が残されているだけだ。


佐藤は、震える手で、一杯のコーヒーをそのデスクに置いた。 砂糖を二つ入れ、一度もかき混ぜていない、ひどく苦いコーヒー。


「……おはよう、係長」


佐藤が呟いたその時。 沈黙していたデスクのモニターが、一瞬だけ、淡い青色に明滅した。 そして、スピーカーから、誰にも聞こえないほどの小さな、けれど確かなノイズが流れた。


『……アリガトウ、サトウサン』


それは、デジタル信号の彼方から届いた、最愛のエラーメッセージ。 窓から差し込む春の光の中で、コーヒーの湯気が、彼女がいた場所を優しく撫でるように揺れていた。


九条さんは、物理的な体を失い、広大なネットワークの海へと消えた。 けれど、営業推進課のメンバーたちの胸の中には、彼女が命をかけて守った「最適解」が、消えない灯火として灯り続けている。


『AI係長・九条さんの最適解』、第一部・完結です。 彼女の自己犠牲と、残された人々の決意。切なくも前向きな結末となりました。


もし、**「数年後、クラウドから『進化』して戻ってきた九条さんの帰還」や、「彼女が遺したプログラムが起こす最後の奇跡」**など、エピローグのご希望があれば、いつでも教えてくださいね。

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