第1話 アタラヨリバース

凪輪なぎわちゃん、ほんとごめん! 今日行けなくなっちゃって!」


 大学の食堂で鉢合わせるなり駆け寄って、手を合わせながら謝るのはこのキャンパスで唯一の友人、佳苗かなえである。


「なんだっけ、テニサーの合コンだよね」

「うん……でも、人数減ると色々困るから、出来れば一人でも参加して欲しくて……もちろんお酒は飲まなくてもいいから! ダメ、かな……?」


 下げた顔からチラチラと上目遣いに見つめる佳苗。相変わらずあざとい仕草には抜け目がない。


「分かった、他の人達がいいんだったらお邪魔するよ」


 元より傷つけた罪悪感から友達として協力している身だ。そこにこの子が居ようと居まいと、今更何が変わるわけでもない。


「ほんっとありがとう! じゃあ、伝えた通り女テニの部室に行けばいいから!」


 私の代わりも探さなきゃと昼食も食べずに構内へ走っていく佳苗。相変わらず元気で優しい子だ。そう、私と付き合っていた時と、変わらず。


 揺れる長い後ろ髪。重ねかけたあの子の面影を必死に振り払う。


『なぎちゃん、また、明日……!』


 綾川あやかわ 小夜さよ。私が初めて恋をした女の子。


 私が佳苗と付き合ったのは小夜ちゃんに似てるからだった。私が佳苗と別れたのは小夜ちゃんに似てないからだった。


 佳苗は太陽みたいに明るくて、女の子のお手本みたいに可愛らしい。


 でも、小夜ちゃんはそんな子じゃなかったから。引っ込み思案でいつも俯いて、それでもたまに見せる誰のものでもない笑顔がとびきり素敵な子だったから。


 本気で好きになってくれた相手なのに、とっくの昔に失った玉の偶像に目を焼かれてその視線を返すことすらままならない。


 ――ほんと、私って最悪だな。


 遠くなっていく背中を眺めながら、一口かじった唐揚げ定食からは何の味もしなかった。



 * * *



 午後の講義を終えてから適当にスマホをいじって時間を潰すこと数時間。


 太陽が傾き始めた頃に腰を上げて、別棟にある女子テニスサークルの部室へと向かう。


 スマホに送ってもらった地図を見ながら入り組んだ廊下を進んでいく。佳苗がテニサーに所属していることは情報として知っていたが、試合の観覧に誘われたことも無かったため、ましてや部室の位置など把握すらしていないのだ。


 しばらく歩けば、突き当たりに他の扉よりもどこかみすぼらしい物が一つ。悲しいことに、あれが女テニの部室らしい。見るからに弱小だ。試合をしている所も見たことがないし、きっとありふれた飲みサーに成り下がって久しいのだろう。


 しかし、私の目的は元恋人への禊であってテニスをすることではない。


 特段の気がねもせず、やけに軋むドアを開く。


 瞬間、アンと冗談みたいな嬌声が奥から聞こえて、廊下まで轟いた。


 エコーでもかかったみたいなそれがようやく小さくなる頃、呆気にとられている間に力強い足音が中から近づいて来る。


「うわ、やっぱ別の女じゃん」


 長い金髪に露出の多い服。派手な装いの女性が乱れた息と服装のままで顔を出す。


「アンタさ、ちゃんと順番守れよ。ほんと最悪」


 捨てるようにして置いて行った恨み言。問い返す暇もなく喘ぎ声の主はどこか恥ずかしそうに建物の奥へ消えていった。


 飲みサーどころかヤリサーまで落ちていたとは。今からでも帰るべきだろうか。


 ……いや、約束を無下にすることは避けたい。それに中にいるのがどんなイケメンだろうと、私が籠絡されることなどあり得ない。まあ大丈夫だろう。


「おじゃましまーす」


 我ながら間延びした声で生理的な匂いの立ち込める室内へ足を踏み入れる。クサい。早いとこ換気をしなければ。


「はいはい、どしたのまちちゃん、今日は随分はや──」


 部室の奥から顔を出すなりその場に固まったのは、痩身長躯の女だった。わざとか天然かパーマされた短髪に、たてがみのような襟足のウルフカット。やたらめったら整った顔は中性的だが、よく見れば女性的な曲線に富んでいる。


 一目で分かる。遊び人だ。それも関わったら破滅するタイプの。


「あー、まちちゃんじゃなくてごめんね。今日の飲み会に参加する人でーす」


 他人行儀を貫くべく、素っ気ない態度のまま埃っぽい窓へ近づいて錠前を開く。錆びついているのか建付けの悪いそれに目いっぱい力を込めた。


 いつから開けてないんだか、中々言う事を聞かないそれに苦戦していると。


「それ、コツがいるんだよ」


 いつの間にか背後に忍び寄っていた遊び人の女が私の手を覆うようにして窓枠を掴んだ。


 いや、なんでわざわざ私の手を挟んで? 言いかけた口よりも先にすんなりと窓が開く。


「ほんとに開いた……」


 一応ここの部員ではあるらしい。いや、そんな細部まで理解するほど入り浸っているだけという可能性も捨てきれないのだが。


「ええと、ありがと――」


 振り向いた顔を強引に掴まれたかと思えば、キツい酒の臭いに鼻先を殴られる。


 一拍遅れて口内に走る流動性の違和感。窓から射す西日で琥珀のように色づいた瞳孔から視線を落とせば、私の唇と女のそれが元から一つだったみたいにくっついているのが辛うじて目に飛び込んだ。


 歯の一本一本を確かめるような執拗な動き。拒もうと肩に腕を立てどもかえって強く抱き寄せられる。ねじれて溶けて絡まって、もう、何が何だか。


 なくなりかけた理性を振り絞り、口腔を闊歩する侵略者へ歯を立てて反撃する。


 びくりと痛みに震えて追放されたそれを引っ込める事すらせず、穿った傷穴からだくだくとこぼれる血を見せびらかすように女は気色の悪い笑みを浮かべている。


「お前、何なんだよ。初対面の女にいきなりディープとか、イカれてんじゃない?」


 糞でも食わされたみたいに気分が悪い。口の中で嫌な苦みと酒らしき辛味が胡坐をかいている。


 緩慢な動作で舌をしまい、ごくりと喉を鳴らして女は口を開いた。


「ごめんごめん。まちちゃんに似てたから、間違えちゃった」


 酒でも飲んだのか真っ赤になった頬を緩め、女は鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌で床に落ちていた上着を拾い上げる。何を考えているのか、何も考えていないのか。


 未だ舌先に残る熱を消すため、必死にハンカチで拭う、拭う。


 最初のキスは、あの子とだった。


 2人で歩く最後の帰り道、別れる間際に私がその唇を無理やり奪ったのだ。


 右も左も分からないまま、本脳的にねじ込んだ舌。触れ合った熱の感触は今までの何よりも耽美で、忘れたくない一心のまま私はそれを刻み込んだ。刻み込んでしまったのだ。


 私たちの関係に消えない亀裂を残したそれ。思い返す度頭に塗りたくられるのはどこまでも憂鬱な罪の意識と、抗いがたい高揚、興奮。


 ああ、これは、私が犯した最低な過ちへの報復なのかもしれない。


 先刻のキスと呼ぶのもおこがましい蛮行を思い返す。余裕なんて感じない、別の生き物みたいに蠢きのたうつ肉の塊。私の舌を摘んでその裏側までなぞり蹂躙する。得体の知れない女に突然尊厳を踏みにじられるなんて、これほど私に相応しい罰もない。


 ハンカチで力任せに拭い続けて火傷したのか、舌の感覚はすっかり擦り切れてしまった。


「それじゃあ。会場、案内するね」


 そんな私を未だ恋人とでも勘違いしているのか、熱を帯びた目で見つめるクソ女。


 余りの不快感からか動転しそうな意識の中、たたらを踏みながらもう一人のクソ女である私はひょろっちい背中を追って歩いた。



 * * *



 耳の奥に、野太い嘲笑とカラスのような喚き声がこびりついている。


 これは……さっきまでの飲み会の音だ。下品な冗談を吐き散らす男たちと、まともに聞きもせず適当に笑って機嫌を取る女たち。酒の匂いにやられたのか、どうにも思考がままならなかったのを思い出す。


 花の蜜に似た甘い香りが蛇のように鼻腔へするりと入り込んだ。


 生来のものとわざとらしい香水とが混ざり合って押し寄せる、むせ返るような女の匂い。


 どこかで、嗅いだことがある気がする。思い返そうとしても途方もない甘さに痺れた海馬はまともに機能してくれない。


 そうだ、甘い。甘い気がする。どうしようもないほど甘くて、脳みそが溶けて耳から出てきそうだ。波のように変わるこの甘さは、一体何に似ているだろう。


「あ、またビクってした。かわいいねー」


 現実の解像度が急激に上昇する。波のように穏やかな甘美は、脳を焼き切るような快楽へと瞬く間に変貌した。


「はぁ、ぁ……? なん、でぇ……?」


 薄暗い見知らぬ部屋に吐きそうになるほど甘ったるい蕩けた声が響く。信じがたいことに、これは自分のものらしい。酷く息が切れていることに遅れて気付いた。酸素が足りない、取り込まないと。でも、呼吸ってどうやるんだっけ?


「なんでってねえ。あーんな飢えた肉食獣のケージに、こんなかわいい子を置いていくなんて出来っこないじゃん」

「そうでしょ、?」


 随分と吐息の多い声が耳元で囁く。なぎ、ちゃん? どうして私の名前を、どうしてあの子と同じ呼び方で? 脳内に直接送り込まれるような不快感と懐かしい笑顔が交差する。やめろ。お前にその呼び名を許した覚えはない。捲し立ててやりたいのに、どうして力が入らない。


「ほら、集中するのは、こっち」


 その言葉と共に、また女の蹂躙が始まる。


 押し寄せる快楽はより鋭く、強く。酒か薬か、いつの間に盛られたのだろう。抗いがたい脱力感に襲われるまま、私には一片の抵抗も許されはしなかった。


 このクソアマめ、こんなのレイプだ。紛れもない強姦だ。お前が油断した瞬間逃げ出して、すぐに警察に駆け込んでやる。そした、ら。お前は、つかまって……もう、わたしに……ふれる、こと……なんて……。


 隠し持った敵意までもが内側から摘み取られて、私の思考は真っ白に染め上がった。



 * * *



 夢を見ている。


 せまっ苦しいモノクロの部屋。息の詰まるようなここは、忘れもしない塾の夏季合宿で泊まったビジネスホテルだ。


『ごめん、なぎちゃん。ちょっと怖くて……一緒に、寝てくれない?』


 普段とはまた違う可愛らしい寝間着と慣れない香りに急かされて、心臓がバクバクと早鐘を打ち始める。


 この夢を見る時は、決まって今見ている景色が夢のものだという自覚がある。だが、自分の意志で動くことは決して叶わない。それはさながら映写機に入れたフィルムのように、決められた筋書きをなぞって再生され続ける。


 この後は隣に潜り込んだ小夜さよちゃんが無防備に寝息を立て始めて、そんな彼女の体を最低な私が勝手にまさぐりだすのだ。彼女の寝息が乱れる様に、今まで何度興奮したことか。


 虚ろな像に肉欲を重ねて、ぽっかり空いた穴を満たすフリを。


 あの日触れられなかった場所へと手を伸ばし、すぐ隣で甘い香りを吐き出す口を塞ごうとして――



 柔らかい唇の感触と共に目が覚める。


「……ずいぶん情熱的なおはようだね。なぎちゃん」


 襲う既視感、襲われた記憶。反射的に目と鼻の先にあった美麗な顔面を殴りつける。人の顔は思ったよりも硬くて、殴った手の甲がじんじんと痛んだ。


「最っ低。薬盛って無理やりとか、ただの犯罪だから」

「警察に言う。それで逮捕してもらう。残念だったね、変態女」


 一糸まとわぬ自身の体を、被さっていた薄っぺらな布団で隠す。


 女は罵詈雑言を浴びてもけろりとしていて、気持ちの悪い笑みを浮かべたまま殴られた鼻筋を撫でている。


「薬って言っても、市販の睡眠薬だよー?」

「ウソ。それであんなに効くわけないでしょ」

「そりゃあ、お酒と一緒に飲んでもらったからね」


 私もどうしても寝たい時はたまにやるんだー。相応の危険行為だろうに、呑気にくっちゃべる口にはまるで緊張感がない。


 酒と一緒に? 少し考えて思い当たる。確か最初のキスの時にそんな味がしたはずだ。苦味と辛味。あの時に盛られていたのか。


「まあでも、確かに効きすぎだった気もするね」

「もしかして、お酒苦手だった?」


 正直に答えて何かに利用されたらたまらない。最も、こいつはすぐにでも獄中にぶち込まれることになるだろうが。


「違う。睡眠薬とか初めてだったから、それで効き過ぎただけ」


 なるほど、そっかー。などと間の抜けた声で返事をしながらニコニコと私に微笑みかける女。


「っていうか、ここどこ?」

「んー? 私のおうちー」

「そう……で、私の服は?」

「洗濯ちゅー」

「……その喋り方やめて。子ども扱いされてるみたいで腹立つ。あと適当な服貸して」

「やだって言ったら?」

「殴る」


 やれやれと大げさに手を上げて茶化しながら、女が部屋の隅にある衣装棚を漁りだした。


「でもさー、なぎちゃん」


 あれでもないこれでもないと棚の中の衣服をひっくり返しつつ、ついでとばかりに女が口を開く。


「なぎちゃんが警察に言っても、多分取り合ってくれないと思うよー?」

「はぁ? 何、こんな事しといて、今更怖くなったの?」

「うーん、そうじゃなくてね」


 女がポケットから取り出したスマホをベッドへひょいと投げる。シーツで跳ねたそれを辛うじて掴めば、開かれていたのはアルバムに保存された1本の動画だった。


 この部屋らしき場所が映っているだけで、再生しないことには何の映像なのか分かりそうもない。恐る恐る画面をタップすれば、カメラがゆったりと動き出して今座っているベッドが見えて来る。


 その上に寝転びながら、はしたない顔で撮影者へ下品によがる女が一人──ああ、嘘だ。嘘だと言ってくれ。


『ねえ、なぎちゃん。私にどうして欲しい?』


 湿っぽくて気色が悪い。この世で一番嫌いな声がスマホのスピーカーから聞こえてくる。


『もっとぉ……もっと、きもちよくして、さよちゃ――』


 反射的にスマホを投げる。噓だ。やめろ。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。


 向かいの壁に跳ね返って床に叩きつけられたそれは、未だ微かに甲高い耳障りな声を再生し続けている。


 さよちゃん、もっと。さよちゃん、さよちゃん。やめろ。その名前を呼ぶな。そんな下劣な喘ぎ声で私の愛しい名前を汚すな。


「クソ……クソックソックソッ! なんで、どうやった……? なんで、なんで……」


 力任せに自分の下肢へ拳を叩きつける。薄っぺらい肉の音が虚しく響いて、後に残ったのは痣だけだ。もう壊れてしまえ。散々汚されたこんな体なんて、弾けて消えてしまえばいい!


 また振り下ろそうとした腕を強引に掴まれる。体躯の差とは残酷なもので、されるがままに私は寝床へ押し付けられて倒れ込んだ。


「なんでもどうもないよ」


 涙か唾液か液体が頬を伝う。私のものかお前のものか、何が何だか分かりやしない。必死に首を振っても、お前の舌は強引に私の口をこじ開けて犯すのだ。


「私はなぎちゃんが好きで、なぎちゃんも私が好き。ただ、それだけだもん」


 嗚咽が止まらない。今にも吐いてしまいそうなのに、胃の中には何もないからえずく苦痛だけが私を駆り立てて追い詰め続ける。


「お前なんて、好きじゃない。嫌いだ、大嫌いだ、アバズレめ」


 プロポーズの言葉でも受け取ったみたいに、お前は顔を輝かせて心底愛おしそうに私を抱きしめる。


「アバズレじゃないよ」


 握れば折れそうな指が私の髪を梳きながら撫でる。その嫌に優しい手つきは色欲の表れか、それとも。


「セト。私の名前。これからもよろしくね、なぎちゃん」


 その綺麗なだけの憎たらしい顔をくしゃりと歪めて、セトは私の額にキスを落とした。



 可惜夜あたらよという言葉がある。明けてしまうのが惜しいほど素晴らしく、愛おしい夜を指す言葉。


 もしもその反対があるのなら、私はこの一夜にそれと名付ける。


 さっさと明けてしまえばいい夜。私とセトの歪な関係が始まった夜。それが意味することは即ち、最低な夜に他ならない。


 これから何度もそんな夜を明かす羽目になることを、この時の私はまだ知らなかった。

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