引っ越した先で高校生が家に逃げ込んできたけど、嘘はつけない
白川
駅前の「近所の子」
地元から大学まで、片道一時間半。通えなくはないけど、続けるほどに自分の細かいところが削れていく感じがあった。ゼミの時間が増える、帰りが遅くなる、バイトが閉めの日だと終電が怖い。
そういう“ちりつも”を、俺はずっと「大丈夫です」で流してきた。
でも、四月に三年になる。そろそろ気合いだけじゃ無理な気がして、引っ越しを決めた。親には反対されなかったし、むしろ「体壊す前に動け」って言われたくらいで、俺の方が拍子抜けした。
引っ越し先は大学とバイト先の最寄り駅から徒歩15分圏内のマンションだ。
駅前は栄えていて明るく、歩いてる人も多い。なのに、大通りから一本二本、裏へ入ると住宅がひしめき合っている。車のすれ違いはギリギリで、街灯の間隔が広く、夜道を歩くのは少し怖いかもしれない。
引っ越しの翌日、部屋の段ボールをそのままに、俺はホームセンターとドラッグストア、家電量販店をはしごして、生活をスタートするための買い物に出かけた。キッチン用品、洗剤、ゴミ袋、延長コード、カーテンなど。
重くなっていくレジ袋に不安になる。「あぁ、生活に必要な物ってまだまだあるのか」と。
改札を横目に、商業施設のガラスに映る自分を見る。リュックの肩紐が片方だけ落ちていた。直して、息を吐く。
歩き出してすぐ、足元に何かが転がった。
紺色の手袋が片方だけ……毛羽立っていて、使い込まれてる。誰かの体温が残ってそうで、指先でつまむのを一瞬ためらった。
少し待つが誰も拾わない……結局、拾い上げて顔を上げると、少し前を歩いていた制服の子が立ち止まっていた。大きめのリュックを背負い、片手が素手のまま、きょろきょろと辺りを見渡している。
その子が振り返る。視線が、俺の手の中の手袋に吸い寄せられた。
次の瞬間、制服の子は一気に近づいてきた。距離が近い。
――近くで見ると、思ったより幼い。
頬が寒さで赤くて、マフラーの隙間から覗く顔が小さい。目が大きくて、まつ毛がやけに目立つ。髪はきっちりじゃなくて、ほどよく崩れていて、そこがまた、かわいい。
制服は普通なのに、なんか、雰囲気だけで「この子、放っておけない」が出てる。
「あっ……これ、落としました?」
俺は反射で口を開いた。声が思ったより丁寧に出た。
「落とした! 全然気づかなかった! ありがと!」
語尾が跳ねて、息が白く弾んだ。感情がそのまま声になってて、思わずつられて笑いそうになる。
屈託なく笑う彼女が手を差し出してきた。俺は手袋を彼女の手のひらにそっと押し戻す。
「はい、どうぞ。危なかったね。人多いし」
別に指が触れたわけじゃない。でも、空気の距離が一歩ぶん縮んだのは分かった。手袋越しに受け取ったその子が、一瞬きょとんとしてから、喉の奥でくすっと笑った。
「……やさし〜」
語尾が伸びた。からかいじゃなく、単純に声に出た感じだった。
「いや、たまたまです」
言った瞬間少し後悔した。たまたまじゃない……見えたから拾っただけだ。親切なんかじゃない。
俺は言い直そうとして、でも言葉を足すほど変になる気がして、黙ったままだった。
制服の子は手袋をはめながら、俺のレジ袋を覗き込むみたいに見た。中身までは見えてないはずなのに、視線の動きが妙に鋭い。
「生活の買い物だ……引っ越し?」
当ててくるのが早い。
「え、なんで分かるんですか」
「なんかキョロキョロしてるし。あと、レジ袋、重そう。なのに買ってるものが食品じゃない」
図星だった。俺は少しだけ息を整えた。
「……昨日、越してきました。大学が近いほうが色々――楽になるから、です」
途中で言葉が止まって……一言で、そう説明した。投げやりみたいに聞こえてしまっただろうか。
俺はレジ袋の持ち手を握り直した。
「えと、昨日来たばかりで、まだ道が分からなくて。買い物しながら覚えているところです」
言った瞬間、彼女の目がぱっと明るくなる。
地元民じゃない知らない人に話しかけられたら、普通なら警戒するところだが、彼女は逆だった。
「じゃあ、ここ初めて? この道、ちょっと分かりにくいよ~。駅からだと曲がるとこ多いし。あ、どっち側に住んでるの? 北口? 南口?」
そう言いながら、俺の横に並ぶ。自然すぎて、断るタイミングを逃す。
「北口側……かな。向こうのマンション。そこの大通りをまっすぐ進んで、何回か曲がったところ。歩いて覚えるつもりだから大丈夫」
そう返すと、彼女が満足そうに頷いた。
「私んちと同じだ。じゃあ、途中まで一緒に行こうよ」
俺は一瞬迷って、示された方向へ足を向けた。
歩き出すと、彼女はすぐ、俺の歩幅に合わせてくる。
合わせてくれるのが当たり前みたいに。
「名前、何ていうの?」
「海斗です」
「海斗くん!」
呼び方が即決で決まった。
「君は……」
「さくら!」
先に名乗られた……早い。
さくらはそう言って、手袋をはめた手をひらひらさせた。指先が器用に動く。かわいい――って思ったのがバレそうで、俺は視線を前に戻した。
「高校生?」
「そう。高1!」
高一。思ったより近い年齢だ。いや、それより距離が近い。
「海斗くんは?」
「大学生です。三年になります」
「え、じゃあ大人じゃん。すご〜」
「大人ではないです」
「でも、しゃべり方が丁寧。なんか、先生みたい」
先生って……それ、褒めてるのか? いや、距離を取られてるのか?
わからなくて、俺は適当に笑った。
駅構内を抜けて大通りに出ると、アーケード街に大小様々な商店が並んでいた。
八百屋の前で、おばあさんが段ボールを畳んでいる。さくらは手を上げた。
「おはよーございまーす!」
「おや、さくらちゃん。早いねえ」
おばあさんの視線が、俺に滑る。そこだけ温度が変わる。初対面に向けられた「誰?」の目。
さくらは何でもないみたいに言った。
「あ、近所に引っ越してきた人。海斗くん」
そう言い切られた瞬間に俺の背中が少し固くなる。地元の人の言う「近所」は、思ってるより範囲が狭くて、顔見知り――と言うよりは知り合いなのだろう。
「へぇ……そう。よろしくねえ」
「はい。よろしくお願いします」
俺は会釈して、レジ袋を持ち直した。重さが増した気がする。
歩き出してすぐ、さくらが俺の横で小さく笑った。
「今の目、見た? “誰? ”って感じ」
「……見えました」
「ここって、そういうの早いんだよね。あのおばあちゃん、たぶんもう次の人に言う」
「言う、って……」
「『さくらちゃんが男の子と歩いてた』とか?」
軽く言う。けど、言ってることは軽くない。
俺は反射で周りを見た。誰も俺たちを見ていない。
「うんうん。事実。だけどね、村社会って事実をそのまま使わないんだよ」
さくらがにやっと笑う。怖いことを楽しそうに言う。
そこで、さくらが急に「……あ」と言って、口元を押さえた。
「ごめん。脅すつもりじゃなかった。海斗くん、真面目そうだからさ」
「真面目に見えますか」
「見える見える。だって、言葉が丁寧だもん」
褒められてるのに、距離も感じる。不思議だ。
住宅街の角を曲がると、道が少し細くなった。
さくらは慣れてる足取りで、すっと内側に寄る。俺の腕にぶつからないギリギリの距離だ。
「海斗くん、どこ住んでるの? マンションって言ってたけど」
「えっと……奥の信号を右に曲がって……ちょっと歩いたところ」
「へー。じゃあ、うちからも近いね。てか、この辺、マンション多いしね」
歩きながら、さくらが当たり前みたいに「地元の人」側の話をする。
それに俺が「外から来た人」側で返す。
会話が途切れないのが不思議で、俺は何度か笑ってしまった。
ノリが軽いのに、人を置いていかない感じがある。
話してるだけで、こっちの肩の力が抜けていく。
「こっち曲がった方が近道だよ」
言われた通り、角を曲がると住宅街が深くなる。表通りの明るさが少し遠のいて、空気が冷える。
町内会のお知らせ、ゴミ出しの注意、見守り強化の張り紙。が貼ってある掲示板。
“不審者情報が出ています”の文字が、冬の空気みたいに冷たい。
「……見守り、強いんですね」
「うん。だから安心、って言いたいけど、うざい時もある」
さくらが笑う。笑いながら、俺の顔をちらっと見てくる。
「海斗くん、こういうの苦手?」
「……苦手かもしれません、ちょっと」
「新しく来た人って、最初めっちゃ見られるもんね」
少し歩くと、さくらが指差した。
「私、こっち。あの先の団地のほう」
「団地なんですね」
「うん。で、海斗くんは?」
俺が指差す。まだ新しめの外観のマンションの方向。
「あっち。あのへんです」
「まじで近いじゃん。徒歩圏じゃん」
「……近いですね」
思った以上に近かった。会おうと思えばすぐ会える。会わないと思えば、逆に避けるのが不自然になる。
別れ際、さくらが急に足を止めた。
「ねえ、海斗くん」
「はい」
「さっきのおばあちゃん、変な噂を言うからさ。絶対」
「……はい」
「もし変な噂になったら、ごめんね。私が最初に声かけちゃったし」
こういうのって、自覚がないぶん、広がると止めにくいんだろうなと思った。
「大丈夫です。俺も、気をつけます」
「うん。じゃあ——」
さくらが手を振る。
「近所の人として、まずはよろしくね」
「……よろしくお願いします」
その瞬間、さくらがくすっと笑った。
「“近所の人”って言うと、なんか安心するね。ご近所さんだ」
安心……そう言われて、俺の胸が少しだけ軽くなる。
俺はレジ袋を持ち直して、マンションのほうへ歩き出した。
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