第2話

 キングサイズのベッドの傍らで眠る千陽路ちひろを見つめながら、祐佑ゆうすけは久しぶりに目にした慎太郎しんたろうに思いをせていた。彼と交わした言葉が思い出される。

 それは、千陽路との結婚式の前日のことだった。


 その日。慎太郎はとんでもない行動を起こしていた。

「祐佑。ちょっといいかな?」

 松岡家本家まつおかけほんけ当主たる者が、あろうことか側近の私室を突然訪ねたのだ。

「慎太郎さま。このような場所に、御自おんみずかららおいでになるなど……」

「大げさだなぁ……ちょっと話があるんだよ。いいか?」

「もちろんでございます」

「うん……まぁ、ここじゃなんだから、ちょっと付き合ってくれよ」

「かしこまりました。どちらへ?」

「タクシー呼んでくれるか?」

「運転ならば私が……」

「いや。タクシーがいいんだ」

「……かしこまりました」

 頑なに譲らない慎太郎に祐佑が折れた。

 タクシーを呼び、待つことしばし。家人に見送られながら慎太郎と祐佑はタクシーに乗り込んだ。

「慎太郎さま。どちらへ?」

「アンダーズ東京に向かってもらってくれるか?」

「……ホテルですか?」

「うん」

「かしこまりました」

 祐佑は目的地を運転手に告げるが、正直なことを言うと慎太郎の意図がわからなかった。

 虎ノ門にあるホテルに向かう道中、慎太郎は穏やかに笑っていたが、口を開かなかった。

 タクシーが目的地に着き、慎太郎と祐佑はホテルに足を踏み入れた。エレベーターに乗り、最上階へ。

 照明が抑えられたラウンジに、慎太郎は迷いなく進んでいく。祐佑は一歩下がって付き従った。

 バーカウンターではなく、慎太郎は隅のボックス席に腰を落ち着けた。

「何してるんだ? 座ってくれ」

「はい」

 ウエイターがやって来たので慎太郎は口を開く。

「ターキーの十七年物を水割りで。祐佑もたまには付き合ってくれよ。飲めないわけじゃあないんだろう?」

「かしこまりました」

 ウエイターが一旦下がり、銀のトレイでカットグラスを二つ運んでくる。

「ありがとう。さて……とりあえず、乾杯」

 慎太郎がグラスを手に取ったので祐佑も同じようにし、軽くグラスを合わせる。

「考えてみればさ、お前と飲むの初めてだよな」

「さようでございますね」

「明日、結婚式じゃないか。その前にどうしてもお前と話をしておきたくて……ずっと機会を伺ってたんだけど、中々タイミングが掴めなくって……結局今日になっちゃったよ」

 慎太郎は静かにグラスを傾けながら、そう口にした。

「私にお話しですか?」

「うん……千陽路のことなんだ……」

「千陽路さまの?」

 明日、千陽路は祐佑と結婚式を挙げることになっている。

「……申し訳ございません、慎太郎さま」

 祐佑が深々と頭を下げたので、慎太郎は目を見開いて驚いた。

「何を謝ってるんだ?」

「私は……慎太郎さまが手塩にかけてお育てになったお嬢さまを……」

「……何を、言ってるんだ……」

 慎太郎は重いため息をついた。

「やっぱり、声をかけて良かったよ。そんなことだと思ってた」

 慎太郎の言葉は重かった。

「どうも様子がおかしいと思ってたんだ。結婚式を控えてるのに、日に日に沈んだ様子になっていくから……なぁ、祐佑……お前、千陽路と結婚するの、イヤなのか?」

「……千陽路さまは慎太郎さまのお嬢さまでございます。とても私のようなものが相応しいとは思えません……」

 祐佑の返答を聞いて、慎太郎はまた深いため息をついた。

 そしてグラスの中の酒をひと口飲む。

「なぁ、祐佑。一つ確認しておかなきゃならないことがある」

「はい……」

「お前、我慢して千陽路と結婚するのか?」

「は?」

 祐佑は慎太郎に問われた内容が理解できなかった。

「お前は、嫌々千陽路と結婚するのか? 千陽路が俺の娘だから? 千陽路のわがままに押し切られたのか?」

「いえ……そうではございませんが……」

「ございませんが?」

「千陽路様のお気持ちは大変嬉しいことでございます。ただ、私などではなく、もっと相応ふさわしいお相手がいるのでは、と……」

「何を言ってるんだか……千陽路はずっとお前のことが好きだったじゃないか」

「一時のことだと思っております」

「祐佑」

「千陽路さまはまだお若い。今は一時の気の迷いで私などにお気持ちをおかけくださっていらっしゃいますが……」

「祐佑……千陽路を見くびるなよ?」

 慎太郎は静かに口を開いた。

「俺はあの子の親だ。血は繋がっていないけど、あの子の思いはちゃんと理解してる。千陽路はずっと祐佑のことが好きだったんだ。一時の気の迷いなんかじゃないぞ」

「ですが……」

「ですがじゃないって。あの子は真剣にお前のことを思ってる。お前だって、あの時千陽路を愛してるって言ってくれたじゃないか」

「その気持ちに嘘偽りはございません。ただ……私に千陽路さまのお気持ちにお答えする資格があるかはまた別の問題です」

 溝が深い。

 慎太郎は深いため息をついた。

 祐佑はどこまで松岡家本家に仕える側近の立場に縛られているのだろう。

「お前にとって、千陽路はどういう存在なんだ?」

「慎太郎さまの大切なお嬢さまでいらっしゃいます」

「そうか……それだけか?」

「それだけ、とおっしゃいますと?」

「一人の人間として、どう映ってるんだ?」

「……」

 一人の人間として……

 千陽路のくるくると変わる表情を思い起す。

 その中でも特にかわいらしく思える笑顔。

 祐佑、祐佑と親しく声をかけてくれる千陽路。

 信州の山の中、二人で暮らした優しい日々。

 当初は確かに千陽路の涙に負けた形で始まった日々だったが、その日々を過ごすうちに、確かに祐佑の心境は変化していた。

 感情に乏しい祐佑が、初めて愛おしいという感情を抱いたのだ。

 愛していると、そう口にしたことは祐佑の嘘偽りのない言葉だったが、彼は心のどこかでこれは間違っていると感じていた。

 千陽路は、松岡家本家次期当主だ。

 松岡家本家当主側近筆頭である祐佑からすれば、仕えるべき主である。

 然るべき地位を持った相手が千陽路には相応しいと、祐佑はそう思っていた。

 そして、そんな相手が現れたら自分は速やかに身を引こうと考えていた。

「……」

 強い能力ちからを持つ慎太郎には、そんな祐佑の内心などお見通しだった。

 慎太郎は深くため息をついた。

 どうすれば、この頑なな鎧を破れるのだろうか。

 慎太郎はふと、思い立ったように言葉を口にする。

「……運命の赤い糸……知ってるか?」

「運命の相手と結ばれているという糸の話でございますね?」

「ああ。どうやら俺にはその糸は結ばれていないようだけどな」

 慎太郎は笑って軽口を叩いた。

「中にはいるだろうさ。相手が決まっていない人間も。中には、うんと年齢としが離れた相手とその糸が結ばれている相手もいると思うんだよ」

「慎太郎さま?」

「中には何でこの二人がってカップルもいるだろう? でも、お互い思い合ってる……そんな人たちもいる。違うか?」

「さようでございますね」

「運命の赤い糸って、結局は神さまが結んだものだと思うんだ。神さまが決めたことだ。人間がどうこうできるものじゃない」

「慎太郎さま……」

「俺には、お前には視えないものが視える」

「慎太郎さま……慎太郎さまはよもや千陽路さまと私の間に運命の糸があるとおっしゃるのですか?」

「さあな」

 言って、慎太郎はグラスを傾けた。

「正直なことを言うぞ? 俺はお前の気持ちを尊重したいんだ。お前が千陽路の気持ちに負けて意に添わない結婚を決めたと言うなら、ここまで進んだ話でも叩き潰す」

 慎太郎は静かに宣言した。

「千陽路が泣こうが、誠志朗せいしろうが怒ろうが知ったことじゃない。俺にとってお前は大事な友人だ。お前の意に添わないことを強要する気は欠片かけらもない」

「慎太郎さま……そのような……」

「お前自身が俺や千陽路に対する遠慮で口を閉じて黙り込むなら……嫌々結婚すると言うのなら、俺はお前を守るためにいつでも動くつもりだ」

「慎太郎さま……」

「だからこそ、お前の気持ちを教えてくれ。千陽路のことをどう思っているんだ? お前にとって、ただわがまま放題に育ったどうしようもない娘でしかないか?」

「千陽路さまのことをわがままなどと思ったことはございません」

 祐佑の口から出た言葉は、彼が思ったより強い口調だったため、彼自身驚いていた。

「……失礼たしました」

「いや……」

 慎太郎は笑っていた。

「お前の本心が垣間見えて嬉しいよ」

「あの……」

「それがお前の本心だよ。お前が千陽路のことを思ってくれていて嬉しい」

「慎太郎さま……」

「お前にとって、千陽路はわがまま放題に育ったどうしようもない娘じゃないんだな」

「千陽路さまは、慎太郎さまが松岡家本家をお空けになることが多かったにも関わらず、ひと言もわがままなどおっしゃいませんでした。私はそのお姿を日々間近に拝見しておりました。そのお姿を拝見したうえで、わがままなどと思う理由がございません」

「ありがとう、祐佑」

 慎太郎は真摯しんしに礼を言った。

「嬉しいよ、千陽路のことをそんな風に思ってくれていて」

「慎太郎さま……」

「祐佑にとって、千陽路はわがままな娘っていうわけじゃないってことだな。じゃあ改めて訊くぞ? お前にとって、千陽路はどういう存在なんだ? 正直なところ、お前は千陽路のことをどう思っているんだ?」

「……慎太郎さま……」

「うん」

 言って、慎太郎はグラスを傾けた。

「言ってくれ。お前の本心を」

「慎太郎さま……私は……」

「……」

「私は……千陽路さまを愛しています。ですが、愛しているからこそ、私ではないもっと相応しい相手がいらっしゃると思っております」

「でもな、千陽路の思い人はお前なんだよ、祐佑」

 慎太郎は静かにそう言葉を発した。

「千陽路さまは、世間というものをご存知ございません」

 祐佑はやはり頑なだった。

 それを横目で見て、慎太郎は静かに口を開く。

「そうか? 千陽路はあの年齢にしては世間を知ってる方だと思うけどな……何て言っても、あの年齢で陰陽師おんみょうじとして人間の闇の部分に触れて来たんだから」

「慎太郎さま……」

「違うか?」

「……おっしゃる通りかと思います」

「うん……親バカだって思われるかも知れないけど、あの子はちゃんと目が見えている。目が見えていないのはお前だ。お前は自分自身の気持ちさえ見えていない」

「慎太郎さま……私は……」

「お前がいつまでも松岡家本家当主側近筆頭の立場から離れられずにいることはわかっていた。俺がいくらお前を友達だって言っても、お前はどこか遠かった。だけど、俺は諦めが悪いんだ」

 言って、慎太郎は笑った。

「いつか、絶対にお前を捕まえるからな。覚悟しておいてくれ」

 慎太郎はグラスを傾けた。そしてウエイターに手を上げて、丁寧におかわりを頼む。

「もう一杯、同じものをお願いします」

 ウエイターは黙礼して去って行き、新しいグラスをトレイに乗せて戻って来た。

「ありがとう……祐佑。全然飲んでないじゃないか」

「……」

 確かに、祐佑のグラスは氷が融けてしまっていた。

「替えてもらおう」

「いえ……このままで大丈夫でございます」

「そうか?」

「はい」

「……なあ、祐佑……俺は今回のことで一つわかったことがある」

「慎太郎さま……」

「俺の立っている場所と、お前が立っている場所が違いすぎるということだ。立場の違いじゃない。気持ちの在りようだ」

「気持ちの在りようでございますか?」

「うん……俺はお前を友達だと思っている。だけど、お前はどこまでも主従の立場を超えられないんだな……」

「慎太郎さま……私は……」

「うん……」

 祐佑の躊躇ちゅうちょに慎太郎は一つうなずいた。

「千陽路のことも……祐佑の本心ではあの子のことを愛おしく思ってくれているのに、松岡家本家当主側近筆頭の立場でそれを見ないようにしている。自分の気持ちに蓋をして、そうではない気持ちで、松岡家本家当主側近筆頭として、松岡家本家次期当主の望みに応えようとしている。祐佑。人はそれを欺瞞ぎまんと言うんだ。お前は松岡家本家当主側近筆頭の立場を貫こうとするあまりに、人として愛する相手を欺こうとしている。そして、何よりも自分自身を欺こうとしているんだ。松岡家本家当主側近筆頭の立場を捨てろと言っているわけじゃない。ただ、人として幸せになってくれ。人を思い、その相手に思われている。それは本来であれば何よりも幸せなことなんじゃないのか? お前にとっては松岡家本家当主側近筆頭の立場は大切な物だろう。だけど、お前自身が固執するその立場こそが、お前を追い詰めているんじゃないのか?」

「慎太郎さま……」

「本当のことを言うと、お前自身がただ千陽路の強引さにただ黙って従っているだけだったら、俺は今回の話を潰すつもりだった。だけど、そうじゃなかった。お前が千陽路を思ってくれていて、俺は本当に嬉しい。千陽路のためにも、お前のためにも、本当に嬉しいことだと思った。だけど問題はもっと根深かった。お前の心の在りようだったんだ。お前は幸せを諦めようとしている。松岡家本家当主側近筆頭の立場に固執して、佐々ささ祐佑という人間としての幸せを諦めようとしている。俺はそれを看過できない」

「慎太郎さま……」

「俺の大事な友人が、自分自身の幸せを諦めようとしているのを俺は黙って見ていることができない」

「慎太郎さまのお心は大変ありがたいことでございます……」

「……祐佑……人として生きてくれ。人として、幸せになってくれ。お前は松岡家本家当主側近筆頭である前に人なんだ。佐々祐佑なんだ。お前はいつもそれを忘れてしまう」

「慎太郎さま……」

「松岡家本家当主側近筆頭ではなく、佐々祐佑として、千陽路を幸せにしてやってくれ。そして、お前自身幸せになってくれ。俺の望みはそれだけだ。こんな時代だ。生きて明日を迎えられるかどうかもわからない。せめて人として今の幸せを掴んでくれ」

「……慎太郎さま……」

「友達として、俺に心から祝福させて欲しい。幸せになってくれ、祐佑。思い思われた相手と新しい道を歩いてくれ。頼む」

「……慎太郎さまは、本当に私が千陽路さまの夫として相応しいとお思いなのでございますか?」

「思ってる」

 祐佑の問いかけに慎太郎は即答した。

「俺は、千陽路を信じているし、祐佑、お前のことも信じている。俺の大事な娘と、大事な友人が互いを思い合って結ばれようとしているんだ。これ以上ない話だと思ってる」

「私は、慎太郎さまよりも年齢が上なのでございますよ?」

「年齢なんか関係ないさ」

 慎太郎は笑った。

「思い思われ……互いが互いを必要としている。そんな二人が結ばれる。これ以上望むことはない」

「慎太郎さま……」

「俺は松岡家本家当主側近筆頭にではなく、佐々祐佑に千陽路を託すんだ。幸せになることを願ってる」

 その後、慎太郎は言うべきことは言ったというように静かにグラスを傾けていた。

 今、祐佑の隣には愛する千陽路が静かに眠ってる。

 幸せになれと、慎太郎は言った。

 今、自分はその言葉通りに生きているのだろうか、と祐佑は自問し、静かに眠る千陽路を見つめた。

 心が暖かいものに満たされていく。

 難しく考える必要はない。

 これが、幸せだった。

 それで、十分だと祐佑は思って千陽路を起さないように静かにベッドに横たわった。

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