そのスープを冷まさないように
だるい海氷
第1話 琥珀色の温もり
『死にたい』
二十三時過ぎ。タクシーの座席は冷え切った水槽の底に似ている。
仕事が終わったあと、
別に死にたいわけではない。疲れと負の感情に飲まれた心を守るため、そう思わざるを得なかった。
「ピッポ♪」
明るいメッセージ音が死んだように静かなタクシーの中に響いた。綾の個人スマホからだ。
『玉ねぎが飴色になったよ』
開いたスマホの画面に、そんな通知がポップアップした。添付された写真はクタクタに炒められた玉ねぎのアップ。その茶色い画像一枚だけで、綾の死にたい気持ちは、「あと三十分は生きてみよう」に変わった。
「美味しい物が出来上がりそう。けど余命三十分、食べれるかな」
メッセージを返し、綾は額を窓ガラスに押し当て、流れるネオンをぼんやりと見ていた。
先週公開されたクライアントの広告動画が、SNS上で見事に炎上した。
綾のせいではない。断じてない。
当初の企画案では、ターゲット層に寄り添った温かみのあるストーリーだったのだ。しかし、上層部とクライアントの宣伝部長が土壇場で「もっとインパクトを!」「バズる要素を」とねじ込んできたすべての修正が火種だった。
結果、動画は公開から数時間で批判の的となり、コメント欄は地獄絵図と化した。だが、現場責任者として謝罪行脚をし、関係各所へ頭を下げるのはディレクターである綾の役目。
「……はぁ」
深いため息で、窓ガラスが白く曇る。
膝の上で握りしめたもう一台業務スマホはまだたまに振動している。見たくない。今はただ、早く家に帰って、あの温もりに包まれたい。
家に帰れば、陽子がいる。さっきの「玉ねぎ報告」を送ってきた愛おしい恋人がいる。
その事実だけが今の綾を現世に繋ぎ止める唯一の細い糸だった。
タクシーがマンションのエントランスに滑り込む。
支払いを済ませ、重い足取りでオートロックを抜ける。エレベーターの鏡に映った自分と目が合う。血の気のない肌、乱れた髪、死んだ魚のような目。ゾンビ映画のエキストラなら即採用かもしれない。
佐伯綾、34歳。好きな仕事に就き、年収も同世代の平均より高いが、今時点の幸福度は底辺を這っている気がする。
鍵を開ける手が震えた。寒さのせいだけではない。
ガチャリ、と重い金属音がして、扉が開く。
その瞬間、ふわりと炒めた玉ねぎの甘さと焦がしたチーズの芳ばしい香りが玄関まで漂ってきた。
その匂いを嗅いだだけで、強張っていた胃袋がぎゅっと鳴り、張り詰めていた神経が一瞬で緩んだ。世界が生気を取り戻すような感覚。
ここは戦場ではない、家だ。
「ただいま……」
「――おかえり。生きてる?」
リビングのドアを開けると、ソファから
洗いざらしの白いTシャツに、緩いグレーのスウェットパンツ、手には読みかけの文庫本。温かいオレンジ色の照明の下、陽子の輪郭が柔らかく光って見える。
「一応……。辛うじて」
「よかった。じゃあ救急車はキャンセルするね」
「そんな準備までしてたの?」
「いや、やっぱキャンセルしないわ。綾、顔真っ白だぞ」
陽子は本を伏せて立ち上がると、ふらつく綾の身体を無造作に、けれど確かな力強さで抱きとめた。
高い体温、柔軟剤と微かなオリーブオイルの匂い、陽子の匂い。
綾は陽子の肩に顔を埋め、泥のように重い息を吐き出した。全身の力が抜け、陽子に体重を預ける。
「ごめん、陽子。私、すごく臭いかも。謝罪の脂汗で」
「んー、確かに。戦場の匂いがする」
陽子は笑いながら、綾の背中を大きな手でぽんぽんとリズムよく叩いた。料理人特有の少し荒れている温かい掌。それが背骨を撫でるだけで、綾の身体から毒素が抜けていく。
ふと、背中を叩く陽子の手が一瞬だけ止まった気がした。
微かな震え? いや、気のせいだろうか。
綾が顔を上げようとすると、陽子はさらに強く抱きしめ直し、その違和感を打ち消した。
「とりあえず風呂入ってきな。オニオングラタンスープもうすぐできるよ」
「…最高」
「でしょ?」
キッチンに向かう陽子に一目を配り、綾はすぐ風呂場に向かった。
シャワーで物理的な汚れを洗い流しても、心の澱までは落ちなかった。
濡れた髪をタオルで拭きながらリビングに戻ると、ローテーブルに湯気を立てるオニオングラタンスープと、軽く焼いたバゲットが置かれていた。
深夜で食べるには罪深いカロリーだが、陽子の料理に「No」と言う選択肢は綾にはない。
「昨日の残りのブイヨン。味は保証する」
向かいに座った陽子がワイングラスを傾けながら言った。中身はノンアルの葡萄ジュース。
スプーンで琥珀色のスープを掬い、とろりと溶けたチーズが糸を引く。
口に運ぶと、クタクタになるまで炒められた玉ねぎの甘みが舌の上でほどけ、熱を持ったまま食道を通って胃に落ちる。その熱さが冷え切った内臓の輪郭を思い出させてくれた。そして、チーズのコクと、スープを吸ってジュワッとなったバゲットの背徳的な旨味。
「……美味しい」
「ふんふん~」
陽子は得意げに鼻を鳴らした。
「陽子の料理って、なんでこんなに優しいんだろう。私の仕事なんて、人に罵倒されるための文章を作ってるみたいなのに」
一度口を開くと、自虐が止まらなくなった。
「三十代半ばのおばさん、トイレの個室で声殺して泣いてるんだよ。部下の前では平気な顔して『対応よろしく』なんて言ってさ。私、何やってるんだろうね」
綾が俯くと、不意に陽子の手が伸びてきて、綾の頬をむにゅっと摘んだ。
「痛っ」
「三十過ぎてトイレで泣くなんて、普通だよ。私だって今日、仕込み中に指切って、一人で絆創膏貼りながらちょっと泣いたわ」
「どんだけ玉ねぎ切ってんの」
さらりと言われたボケのよう言葉に綾は自然と言い返したが、視線を陽子の手に落とした途端、スープを口に運ぶ動きが止まった。
「え、指? 大丈夫?」
よく見れば、陽子の左手の人差し指に絆創膏が巻かれている。
「平気平気。ちょっと慌ててただけ」
陽子は手を引っ込め、テーブルの下に隠した。
「人間なんてね、三十代から身体はガタがくるし、責任だけ重くなるし。でも、その分厚かましくなれる。打たれ強いぞ、三十代の女は」
陽子は悪戯っぽく笑い、自分の目尻を指差した。
「見てよこれ。最近、笑い皺が戻らなくなってきた。綾のせいだよ、苦労かけさせるから」
「人のせいにしないでよ。……でも、確かに増えたかも」
「うわ、言ったな? 弁償してもらうからね」
ふふ、と綾の口から乾いた笑いが漏れた。陽子の前だと、深刻ぶっている自分が馬鹿らしくなる。
スープを飲み干す頃、ドス黒い憑き物が少し落ちたような気がした。だが、胃袋が満たされると、今度は別の渇望が鎌首をもたげる。
心が弱っている時ほど、身体は繋がりを求める。自分がここに存在してもいいのだという、言葉以上の確かな承認を。
「……陽子」
綾は空になった器を押しやり、テーブル越しに陽子の手首を掴んだ。
爪は短く切り揃えられ、小さな火傷の跡がある手。世界で一番、綾を守ってくれる手。
陽子の表情が、ふっと柔らかく、そして熱を帯びたものに変わる。
「なに?」
「今日はぎゅーされたままで寝たい」
「……もう、甘えん坊だから」
陽子は一瞬、何かを言いかけたような顔をした。その瞳の奥に、微かな疲れの色が滲んだ気がしたが、優しい笑みがそれをすぐに塗り替えした。
綾はその変化に気づけなかった。自分の充電メーターが枯渇していて、相手を見る余裕がなかった。
「おいで。ベッド行こっか」
寝室の空気は、リビングよりも湿度が高く感じられた。テーブルライトだけの薄暗がりの中、二人は倒れ込むようにベッドに沈む。
綾は縋り付くように陽子の首に腕を回した。重ねた唇はスープの温かさと、陽子自身の甘い匂いがした。
「ん……、陽子……っ」
背中を撫でられ、腰を優しく抱き寄せられる。身体と身体が触れ合う面積が増えるたびに、仕事での屈辱も、将来への不安も、すべてが溶けていく。
陽子が綾の顔と首にただひたすらに甘く、吸い付くようなキスを落としていく。綾は陽子の髪に指を絡め、その頭を引き寄せた。
誰かに必要とされたかった。誰でもいいわけじゃない。この人に、工藤陽子という人間に、愛されている感覚が欲しかった。
「陽子、愛してる」
うわ言のように呟くと、陽子は顔を上げ、濡れた瞳で綾を見つめた。
「私もだよ」
再び唇が重なる。今度は深く、長く、互いの呼吸を奪い合う。
長いキスから離れた後、陽子の腕の中で綾は何度も好きを口にした。自分が自分でいられる場所。世界中が敵に回っても、この腕の中だけは安全地帯。
「……頑張ったね、綾」
陽子が額にキスをしてくれる。その言葉だけで、明日もまた戦える。
綾は陽子の胸に顔を埋め、「うん、ありがとう。おやすみ」と呟き、眠りへと落ちていった。
意識が泥の中に沈んでいく中で、ふと、頬に温かいものが触れた気がした。
陽子の指先だ。荒れているけれど、世界で一番優しい指が綾の髪をそっと撫でている。
「……私だけのバカ。……明日も、頑張ろう」
耳元で微かな独り言が聞こえた。
それは幻聴だったかもしれない。けれど、その声に含まれた愛情だけは、確かに心臓の奥まで届いた。
陽子の体温にぎゅーと包まれながら、綾は口元を緩め、深い夜へと完全に落ちていった。
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