悪役の破滅回避生存戦略
@DTUUU
第1話 覚醒、そして破滅への序曲
前世の俺は、どこにでもいるしがないサラリーマンだった。
年齢は30歳。役職は係長。中小企業の営業職として、上司と部下の板挟みになりながら神経をすり減らす毎日を送っていた。
唯一の趣味と言えば、現実逃避のために没頭するゲームくらいのものだ。
あの日もそうだった。
待望の新作アクションRPG『セイクリッド・アカデミー 〜白銀の剣と六人の花嫁〜』の追加ダウンロードコンテンツが配信され、俺は翌日が平日であることも忘れてコントローラーを握りしめていた。
いわゆる「ギャルゲー」要素の強い作品で、追加されたヒロインの個別ルートがどうしても気になり、気づけば窓の外が白んでいる。
時計の針は午前5時を回っていた。
「……やっべ」
血の気が引く音がした。
今日の9時から大事なプレゼンがある。資料の最終確認もまだだ。
俺は跳ねるように起き上がり、わずか10分で身支度を整えた。
鏡を見る余裕などない。徹夜明けの肌は土気色で、髪はボサボサ。充血した目は死んだ魚のようだっただろう。
アパートを飛び出し、愛車のママチャリに跨る。
駅までの道のりは下り坂だ。ペダルを漕ぐ足に乳酸が溜まるのを感じながら、俺は必死に加速した。
「間に合え、間に合え、間に合え……ッ!」
風が耳元で轟音を立てる。
信号が点滅しているのが見えた。
いけるか? いや、いくしかない。
俺はさらにペダルを踏み込んだ。
交差点に差し掛かった、その瞬間だった。
横合いから飛び出してきた影に気づくのが遅れた。
急ブレーキをかけたが、タイヤが砂利に滑る。
視界が世界ごと回転した。
浮遊感。
次いで、強烈な衝撃。
アスファルトが目前に迫る。
(あ、これ死んだわ)
どこか他人事のようにそう思った瞬間、意識がブラックアウトした。
暗転する視界の端で、遠い記憶の中の声が響いた気がした。
『――タクヤ、あんたまたお弁当忘れてるわよ!』
母さん。俺、もう弁当食べる機会ないかもしれないわ。
そんな間の抜けた走馬灯を最後に、俺の30年の人生は幕を閉じた――はずだった。
「……ぅ、あ……っ」
激痛が走った。
頭が割れるように痛い。ズキズキと脈打つ痛みに、俺は呻き声を上げた。
「ヴィンセント様! 目を覚まされましたか!?」
「奥様! 奥様をお呼びして!」
耳元で知らない女の声がキンキンと響く。
うるさい。静かにしてくれ。プレゼンはもう諦めたから寝かせてくれ。
重たい瞼をこじ開けると、そこには見知らぬ天井があった。
いや、ただの天井ではない。
精緻な彫刻が施された柱、金糸の刺繍が入った天蓋、そしてふかふかの羽毛布団。
漂ってくるのは消毒液の臭いではなく、高級なアロマオイルの香りだ。
(ここは……病院の個室か? いや、それにしちゃ豪華すぎるだろ)
混乱する頭に、突如として情報の奔流が雪崩れ込んできた。
俺の名前は、ヴィンセント・フォン・アークライト。
アークライト公爵家の嫡男。
年齢は8歳。
銀色の髪に青い瞳を持つ、天使のように愛らしい少年。
――そして、性格は最悪。
「う、ぐぁああああッ!?」
頭痛とは違う種類の激痛が脳を駆け巡る。
8年分の記憶と、30年分の記憶が混ざり合い、スパークした。
俺は思い出したのだ。
自分がプレイしていたゲーム『セイクリッド・アカデミー』の世界に転生していることを。
そして、自分がそのゲームにおける「主人公のライバル」兼「中ボス」、悪役貴族ヴィンセントであることを。
「嘘だろ……なんでよりによってこいつなんだよ……!」
ヴィンセント。
公爵家の権力を笠に着て、平民出身の主人公を見下し、ヒロインたちに横恋慕してはストーカー紛いの嫌がらせをする、典型的なクソ野郎。
記憶の中の自分は、まさに暴君そのものだった。
甘やかされて育ち、自分が世界の中心だと信じて疑わない傲慢な少年。
そんな「俺」が、なぜ今ベッドで頭に包帯を巻いて寝込んでいるのか。
その原因となった数日前の出来事が、鮮明に脳裏に蘇る。
それは3日前のことだった。
俺ことヴィンセントは、母である公爵夫人ベアトリスに連れられ、王宮を訪れていた。
父の公務のついでという名目だったが、実質的には王家との顔つなぎの意味合いが強かったのだろう。
王宮の庭園、「白薔薇の園」に案内された俺たちを出迎えたのは、この国の第三王女、リリアーナ殿下だった。
「ようこそお越しくださいました、アークライト公爵夫人、そしてヴィンセント様」
その姿を見た瞬間、8歳のヴィンセントの時が止まった。
そして、今思い出している30歳の俺もまた、記憶の中の彼女の美貌に息を呑んだ。
リリアーナ王女。
透き通るような白磁の肌に、蜂蜜を溶かしたような黄金の巻き毛。
瞳は新緑を思わせる鮮やかなエメラルドグリーン。
まだ俺と同じ8歳だというのに、彼女の周りだけ空気が違って見えた。
可憐でありながら、既に妖艶さすら感じさせるその美貌は、周囲の護衛騎士たちですら頬を赤らめて直視できないほどだ。
彼女こそが、ゲーム本編における「メインヒロイン」の一人。
高嶺の花としてプレイヤーたちの人気を博し、人気投票でも常に上位に君臨する「傾国の王女」その人だ。
『……きれいだ』
ヴィンセントは一目惚れした。
だが、悲しいかな、甘やかされて育った彼には「好意を適切に伝える」というスキルが存在しなかった。
「おい! お前、僕の言うことを聞けよ!」
「僕がこっちに来いと言っているんだ!」
「なんで僕を見ない! 僕はこの国で一番偉い公爵家の息子だぞ!」
好きな子の気を引くためにスカートめくりをする小学生男子、その最悪のバージョンだ。
リリアーナ王女が庭園の花について説明しようとしても、ヴィンセントは遮って自分語りを始め、彼女が他の従者に微笑みかければ、嫉妬でその従者を罵倒した。
リリアーナ王女は困ったように眉を下げ、それでも礼儀正しく振る舞っていたが、ヴィンセントの暴走は止まらない。
『待てよ! 僕と遊べって言ってるだろ!』
逃げるように早足になった王女を追いかけ、ヴィンセントは石畳の上を走った。
そして。
『あ』
王女のドレスの裾を踏みつけ、バランスを崩す。
勢いよく前につんのめったヴィンセントの額が、庭園にある噴水の縁――硬い大理石の角に、ゴツンッ! と嫌な音を立てて激突したのだ。
「ぎゃあああああああ!」
吹き出す鮮血。
白薔薇が赤く染まる。
パニックになる周囲。
泣き叫ぶヴィンセント。
ドン引きする王女。
それが、俺が意識を失う直前の、あまりにも情けない記憶だった。
「……死にたい」
ベッドの上で、俺は両手で顔を覆った。
物理的な死ではなく、社会的な死的な意味で死にたい。
30歳の大人の理性が戻った今、8歳の自分の所業を客観視するのは拷問以外の何物でもなかった。
王女相手にストーキングまがいの付きまといをし、勝手に転んで流血沙汰を起こし、王宮をパニックに陥れた?
切腹ものの不敬だ。
これが時代劇なら、アークライト家はお取り潰しになっても文句は言えない。
「ヴィンセント! ああ、良かった、気が付いたのね!」
部屋の扉が乱暴に開かれ、豪奢なドレスを纏った美女が飛び込んできた。
母、ベアトリスだ。
彼女は俺のベッドに駆け寄ると、涙目で俺の頬を撫でまわした。
「3日間も高熱が続いて……もうダメかと思ったわ。ああ、神よ感謝します」
「……母、上……?」
「どこか痛いところはない? 喉は渇いていない? すぐに医者を――」
「申し訳ありません、お母様。ご心配をおかけしました」
俺は痛む頭を下げ、できる限り殊勝に言った。
その瞬間、部屋の空気が凍り付いた。
ベアトリス母様が、幽霊でも見たかのような顔で固まっている。
控えていたメイドの一人が、持っていた水差しを取り落としそうになっていた。
「……ヴィ、ヴィンセント? あなた、頭を打って……記憶が……?」
「いえ、記憶はあります。ただ、熱にうなされている間に、自分の愚かさを反省したのです」
俺は30歳の営業スマイルを貼り付けた。
今の俺は、傲慢なクソガキではない。
理不尽なクレーム処理も、上司の無茶振りも、土下座外交もこなしてきた歴戦の社畜だ。
この程度のカオス、収拾をつけてみせる。
「王宮での振る舞い、今思い返しても顔から火が出るほど恥ずかしい限りです。リリアーナ殿下に多大なるご迷惑をおかけしたこと、深く悔いております」
俺の流暢な敬語と反省の弁に、母様はポカンと口を開けたままだった。
無理もない。
3日前まで「クソババア」呼ばわりしていた息子が、突然「お母様、申し訳ありません」などと言い出したのだ。
普通なら悪霊に取り憑かれたと疑うレベルだろう。
その時、廊下が騒がしくなった。
「リリアーナ王女殿下の御成りです!」
「えっ」
俺の声が裏返る。
まさか、被害者本人が見舞いに来るとは思わなかった。
王族だぞ? 普通、一貴族のガキの見舞いにわざわざ足を運ぶか?
扉が開かれ、近衛騎士を連れたリリアーナ王女が入室してきた。
3日前に見た時と同じ、いや、憂いを帯びた表情の分、さらに美しさを増した幼女がそこにいた。
俺は慌ててベッドから降りようとしたが、ふらつく足ではままならず、無様に体勢を崩した。
「ヴィンセント様! そのままで、どうかそのままで」
リリアーナ王女が駆け寄り、俺の体を支えようとする。
甘い花の香りが鼻孔をくすぐった。
いかん、これは精神衛生上よろしくない。この子は将来のメインヒロインだ。関われば破滅する。
このゲームの悪役である俺は、彼女に執着すればするほど、原作主人公に倒されるか、最悪の場合は闇落ちした彼女自身に刺されるエンドが待っているのだ。
「殿下、このようなむさ苦しい部屋にお越しいただき、恐縮です。本来なら私が参上すべきところを……」
「いいえ、ヴィンセント様。私が悪かったのです」
リリアーナ王女は、その大きな瞳を潤ませて俺を見つめた。
「私が至らぬばかりに、貴方様に怪我をさせてしまいました。私がもっと……貴方様のお気持ちに寄り添って、丁寧に案内をしていれば、このようなことには……」
なんていい子なんだ。
そして、なんて恐ろしい子なんだ。
自分に一切の非がないにも関わらず、この完璧な謝罪。
これが王族の処世術か。それとも天然の聖女なのか。
どちらにせよ、ここで俺が「そうだそうだ、お前のせいだ!」などと言えば、その瞬間に俺の人生はバッドエンド直行便に乗るだろう。
俺はベッドの上で、最大限の礼をとった。
土下座ではないが、それに近いくらい深いお辞儀だ。
「とんでもないことでございます、リリアーナ殿下。全ては私の未熟さと不徳の致すところ。殿下には何の落ち度もございません。私の愚かな振る舞いで、殿下の御心を痛めてしまったこと、死をもってお詫び申し上げたいほどです」
「……え?」
リリアーナ王女がキョトンとした顔をする。
周囲のメイドたちも、母様も、そして王女の護衛騎士すらも、信じられないものを見る目で俺を見ていた。
『あの高慢ちきなヴィンセントが?』という心の声が聞こえてくるようだ。
「これからは心を入れ替え、公爵家の名に恥じぬよう、そして殿下に二度と不快な思いをさせぬよう、精進いたします」
俺は完璧な模範解答を述べた。
これでいい。これで「傲慢な悪役貴族」というレッテルは剥がせるはずだ。
あとは適度な距離を置き、フェードアウトすればいい。
俺の目標は平穏な老後だ。ヒロインとの関わりなんて、胃に穴が開く原因にしかならない。
リリアーナ王女はしばらく呆然としていたが、やがてハッとしたように表情を引き締めた。
「ヴィンセント様……そこまで深く考えてくださっていたのですね。私は……貴方様のことを誤解していたようです」
彼女は真剣な眼差しで語り始めた。
貴族としての責務、王家と公爵家の歴史的な絆、そして今回の件が及ぼす政治的な影響について。
8歳とは思えないほど理路整然とした話しぶりだった。
(……長いな)
俺は感心しつつも、内心で欠伸を噛み殺していた。
話の内容が堅苦しすぎる。
貴族社会のしがらみとか、派閥のバランスとか、正直どうでもいい。
俺はただ、美味しいご飯を食べて、暖かい布団で寝て、たまに趣味に没頭できればそれでいいのだ。
王女様の話は右の耳から左の耳へとスムーズに抜けていった。
適当に「左様でございますね」「おっしゃる通りです」と相槌を打つマシーンと化した俺を、王女は熱っぽい瞳で見つめていたが、俺は気づかないふりをした。
一通り話すと、リリアーナ王女は満足げに帰っていった。
嵐が去ったような静けさが部屋に戻る。
「ふぅ……」
俺は大きく息を吐き、枕に頭を沈めた。
疲れた。起きてからまだ1時間も経っていないのに、1年分のエネルギーを使った気分だ。
でも、これで最悪の事態は回避できたはずだ。
王女の心証も回復したし、これからは「真面目で地味な公爵令息」として、目立たず生きていこう。
そう決意して目を閉じた、その時だった。
バンッ!!
扉が再び勢いよく開かれた。
今度は誰だ。
飛び込んできたのは、初老の執事だった。
白髪をオールバックにし、モノクルをかけた厳格そうな男。
我が家の家令、セバスチャンだ。
普段は冷静沈着な彼が、珍しく顔を紅潮させ、息を切らせている。
「ぼ、坊ちゃま! おめでとうございます!!」
「……何がだ、セバス」
俺は嫌な予感をひしひしと感じながら身を起こした。
「先ほど、王宮より早馬が参りました! 陛下からの親書です!」
セバスチャンは震える手で羊皮紙を掲げた。
「陛下は、先ほどのリリアーナ殿下からの報告を受け、大変感動されたそうです! 自身の非を認め、誠心誠意謝罪した坊ちゃまの潔さと、高潔な精神! そして何より、リリアーナ殿下ご自身が『ヴィンセント様こそ、我が魂の伴侶に相応しい』と強く進言されたとか!」
「……は?」
思考が停止する。
魂の伴侶? 何を言っているんだ、あの子は。
「つきましては! 陛下もこれを認め、特例として! たった今! ヴィンセント様とリリアーナ殿下の婚約が正式に成立いたしました!!」
セバスチャンの声が高らかに響き渡る。
母様が「まあ!」と歓喜の声を上げ、メイドたちが拍手喝采を送る。
祝福ムード一色の室内。
しかし、俺の心の中には、真冬の日本海のような荒涼とした風景が広がっていた。
婚約?
俺が?
あのメインヒロインと?
それはつまり、ゲームのメインストリームに強制参加させられるということだ。
主人公のライバル役として。
破滅エンドの主役として。
逃げ道が、塞がれた。
「平穏な老後」というゴールテープが、バリケードで封鎖され、地雷原に変えられた瞬間だった。
「ふ……」
乾いた笑いが漏れる。
そして、次の瞬間。
「ふ、ふざけるなぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」
俺の絶叫が、アークライト公爵邸に響き渡った。
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