第7話
§
「んんー・・・・・・」
頬に、柔らかいものが触れる感触があった。
ツン、ツン。と、リズミカルに突かれている。
その刺激で僕の意識は次第にクリアになり、そして目が覚める。
翌朝。僕は知らない天井の下にいた。
一瞬、火事の事が夢だったのではないかと思ったけれど、すぐに昨夜の事が鮮明に蘇る。
己影さん、漫画家、ストーカー。そして同居。
情報量が多過ぎる・・・・・・。
「にゃー」
と、声がする。
僕は瞼を擦りながら振り返ると、そこには雪ちゃんがいた。真っ白な毛並みの猫ちゅわん。
「僕をツンツンしてたのは君だったのか。おはよう、起こしてくれたんだね」
僕はそう言って雪ちゃんの頭を撫でると、心地よさそうに目を細め、されるがままに撫でられていた。
「あ、そうだ」
僕は枕元に置いたスマホを手に取り、『にゃんこトーク』を起動した。 このアプリは、猫の声音から感情を読み取れるアプリで、街で野良猫を見かけた時にでも使おうとインストールしていたのだ。
「雪ちゃん、さっき僕のほっぺをツンツンしてたけど、なんて言ってたの?」
僕はアプリをスタートさせ、雪ちゃんの口元にスマホを添える。すると雪ちゃんは「にゃっ」と短く鳴いた。
アプリが解析を始める。
そして、画面に表示された翻訳結果は――、
『ツンツンしてたんは、ワイちゃうで。さっきまで姉さんがニヤニヤしながらお前の顔触ってたんや」
「・・・・・・は?」
僕は思わず固まった。
いや、なにこれ。すっごい関西弁なんだけど。しかも主語が「ワイ」って、なんじぇい民かな? それに鳴き声に対して翻訳の尺が合ってないし。色々とツッコミ所が満載だけれど、しかしリアリティのある返答でもあった。
「あねさんが、ニヤニヤしながら・・・・・・」
もしかして。
僕はベッドから起き上がると、リビングへと向かう。するとキッチンで作業していた己影さんの姿を見つける。
「己影さん、おはようございます」
「あ、歩夢くん。おはよー・・・・・・」
己影さんは、ぎこちない笑みを浮かべながらそう返すので、僕の疑いは濃くなる。
ので、僕はカマを掛けてみる。
「さっき寝室で、ほっぺツンツンされたんですけど」
すると己影さんは慌てふためく。
「ち、違うよ! 生きてるかなって確認しただけだよ! 決して、寝顔があまりにも無防備で可愛かったから触りたかったとかじゃないから!」
「やっぱり己影さんだったのか!」
「やっぱり? って事はカマ掛けたって事っ?」
「人が寝てる時になにしてるんですか」
「バレなかったら大丈夫かなって・・・・・・てゆうか、起きてたんだ」
「いえ、さっき『にゃんこトーク』で雪ちゃんから聞いたんです。このアプリを使えば猫の気持ちを翻訳してくれるんですよ」
「へぇ、そんなのあるんだ」
己影さんは自身の過失はよそに、アプリに興味を示すと、その時、また隣で雪ちゃんが「にゃーん」と鳴いた。
すると、アプリの画面が更新される。
『ま、お前も昨日の夜、洗面所で姉さんの下着握りしめてハァハァしてたけどな」
「ぶふぉっ!」
「え、なにっ?」
今度は己影さんは振り返った。
「今、スマホからとんでもない言葉が聞こえたんだけど! 歩夢くん、これはどういう事!」
「ち、違います! 今のは誤作動です!」
「誤作動にしては随分と具体的だったけどっ? なに、私の下着を握りしめてたって! しかもはぁはぁしながら!」
「だから誤解です! 色気のない下着にため息を吐いただけです!」
「それ誤解なのっ? てゆうか、下着を見た事には変わりないよね!」
「あーもう、雪ちゃん余計な事を・・・・・・」
「にゃー」
またアプリが分析を始めると、
『これに懲りたら変な気起こさん事やな。お互いな?』
と、最後は猫に諭された。
ぐうの音も出ない正論に、人間二人は黙り込んだ。
僕たちはリビングへと移動した。テーブルには食事の用意がされている。トースト、目玉焼き、サラダ、フルーツヨーグルト。
実に爽やかな朝の風景だ。
己影さんは冷蔵庫の前に立つと「飲み物なにがいい?」と訊ねる。
「リンゴジュース、オレンジジュース、野菜ジュース、お茶とあるけど」
選択肢がある事に驚く。豊富なラインナップに驚きつつ、「リンゴジュースで」とお願いすると己影さんはリンゴジュースの紙パックを持ってきてグラスに注いでくれた。
「己影さんの家では、飲み物が選べるんですね」
「え、どゆ事?」
「僕が実家にいた頃は、出されたものを食べるだけだったので。飲み物だって選択肢なんてなかったですし」
「あー、そういう。いいんだよ遠慮しなくても? 飲みたいものがあれば好きなものを選んでね」
その言葉に、僕は胸が詰まる。
己影さんの住まいでは、こんな些細な日常にも、僕の意思が尊重される。
実家とは対照的だ。
うちは、好き嫌いがあってもリクエストする事が許されず、食卓に出されたものは食べるというのが決まっていた。母は僕ら家族の嫌いなものを入れないようにはしてくれていたけれど、たまに忘れる事もあり、それを指摘しようものなら父から大目玉を喰らう。
食事だけじゃない。休日も、どこに行きたいかと聞かれた事がなかった。父が一方的に行き先を決める。ここに行きたいと思っていても結局、行けなかった場所がいくつもあった。もし行きたい場所があるなら母に頼んで、母がそれとなく父に伝えてもらうしかなかった。
そう、うちの家族は父に絶対の権限があった。
たとえ進路や就職といった、自分の人生であってもそれは変わりなかった。
それが僕には不満だった。
それを当たり前として受け入れるには、もう僕は幼くなかった。
だから僕は家を飛び出したのだ。
そして今は、なぜだか己影さんの家に居候している。
僕は注がれたリンゴジュースを口に含む程度に飲むと、さっぱりとした甘さが広がる。まるでここの生活を表してるみたいだった。
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