第5話
§
「タクシー拾うね?」
公園を後にすると、大きな道沿いに出て、彼女は手を上げた。
すると空車を拾い、僕らはそれに乗り込む。扉が閉まると、服の上に付いた煤の匂いが気になった。ヒドく自分が汚れている事に気がついて、居たたまれない気持ちになる。
「運転手さん、ワンメーターで申し訳ないんですけど、○○レジデンスまで」
お姉さんはそう言うと、運転手はとくに不満げな様子を漏らす事もなく、淡々と返事をかえし、タクシーを動かした。
「お姉さんの家、近所なんですか?」
「うん、君のコンビニに通ってるくらいだし」
「ならなんでタクシー拾ったんですか? それなら歩いて行けばいいのに」
「だってもう、クタクタでしょ? 少しでも休んで欲しかったから」
彼女は事もなげに言った。
この人にとって、ささやかな快適の為に出す金なんて端金なんだろうな。
車窓の景色が流れていく。僕が住んでいた古びた木造住宅が並ぶエリアを抜けて、大通りを一本越えると、街の雰囲気が一変する。
道幅は広くなり、生前と植えられた街路樹が並ぶ。立ち並ぶ建物はどれも新しく洗練されたデザインをしている。目と鼻の先の違いなのに、まるで別世界だ。
ややあって、
「着きましたよ」
タクシーが停車したのは、閑静な住宅街にある、瀟洒な低層マンションの前だった。
お姉さんは支払いを住ませると、マンションへと向かった。
オートロックの玄関を抜けてエントランスに入る。エントランス! エントランスがあるだけで高級感が漂う不思議。
光沢のある石材の床が光を反射して綺麗に輝いており、僕の住んでいた『キャッスル』とは雲泥の差があった。
エレベーターに乗り込み、四階に上がると、渡り廊下を歩いて部屋に向かう。そして扉のカギを開けて中に入ると、お姉さんに案内される。
「ここが私のお家だよ」
通された部屋は、一人暮らしするには随分と広い。聞けば2LDKらしい。 リビングに案内されると、白と木目を基調とした落ち着いた内装で、壁にはキャットウォークが設置されている。家具も家電もパッと見ただけで安価なものではない事が見受けられる。
「にゃー」
不意に、足元から声がした。
視線を落とすと、猫ちゅわん。
真っ白な猫と、ハチワレ猫が出迎えてくれた。
「あ、紹介するね。白い方が『雪見だいふく』で、ハチワレの方が『豆だいふく』。略して雪ちゃん、豆ちゃんだよ」
もはや大福である必要性がない略称だ。
お姉さんは身を屈めると、二匹の猫ちゅわんの頭を撫で回し、「よーしよしよしよし」と猫かわいがりする。デレデレした顔で猫を抱き上げる彼女は、まるで別人のように思えた。
僕はただただ呆気に取られる。
広々とした間取り、二匹の猫、そして僕に執着し、毎日コンビニ通いするお姉さん。
色んな情報が一度に入ってきて、情報を処理し切れない。
この人、一体何者だ?
冷静に考えてみると、この人の経済力は普通じゃない。
家の間取りや二匹の猫との暮らし、そして毎日僕の帰りを待てる時間的な余裕。
見た感じお姉さんは二十代半ばといったところだろう。その歳でこれだけの生活を実現するのは相当な収入がないと難しい筈だ。
「あの、お姉さん」
「ん? なあに?」
猫を抱きかかえながらお姉さんはおっとりした口調で返事をする。
「こんな事を聞くのは失礼かもしれないですけど、お姉さんってなんの仕事をしてるんですか?」
僕は単刀直入に聞くと、お姉さんは質問の意味を図りかねて一瞬キョトンとするから、僕は補足する。
「いやその、お姉さんって若いのに、暮らしぶりがすごい裕福というか、普通の社会人じゃないんじゃないかなぁ、と」
するとお姉さんは、考え込むように黙り込んだ。
え、なにその沈黙は。もしかして、地雷だった?
僕は一瞬、背筋に緊張が走るも、お姉さんは考え込みながら、僕を一瞥して「君にならいいかな」と呟く。僕は怪訝に思いつつ、お姉さんの返事を待つと、やがて真剣な表情で彼女は言った。
「口で説明するより、見せた方が早いかな」
そう言ってお姉さんはリビングの隣にある部屋の引き戸を開き、そこへ僕を案内する。
そこには要塞のようなデスクがあった複数のモニター画面と、液晶タブレット。山積みにされた本や資料。 それを見た瞬間、お姉さんの印象が覆る。今までは漠然と綺麗なOLさんのようなイメージを持っていたけれど、これを見る限りでは会社務めでない事は明白だった。
「ここが私の仕事場。私、漫画家なの」
「え、漫画家?」
「うん。『影踏舞衣』っていうペンネームなんだけど、知らない?」
「すみません、存じ上げなくて・・・・・・」
「そっかぁ。月刊ピクニックで『隣の芝生は藍い』っていう漫画を連載してるんだけど」
「あ、それなら聞いた事あります。それって実写映画化するやつじゃないですか?」
コンビニの漫画雑誌コーナーで見覚えがある。僕は慌ててスマホを取り出し、検索にかける。するとウィキペディアには「影踏舞衣のデビュー作『隣の芝生は藍い』通称『トナシバ』はコミックス五巻で超異例の累計100万部。新進気鋭の新人作家」と書かれていた。
漫画のレビューを見てみると、星はほぼ満点評価で、ささやかな日常を繊細なタッチとこまやかな心理描写で切り取り、キャラクターの造詣に秀でた作品と評されていた。また、ラブコメとしての完成度も高く、男女人気の高さと時代背景にマッチし、SNSでも広がった事が大人気を呼んだ理由のようだ。
お姉さん、売れっ子作家だったのか!
・・・・・・いや待て、まだお姉さんが影踏舞衣と確定した訳じゃない。最悪、影踏舞衣を騙った偽物の可能性もなきにしもあらずだ。
そんな大胆な嘘を吐くとは思えないけれど、にわかには信じ難いのも事実。
「・・・・・・お姉さんが、影踏舞衣本人だっていう証拠は?」
僕は恐るおそる訊ねると、お姉さんは別段、取り乱す事もなく頷いて、パソコンを起動する。そして、ファイルを開いて僕に示す。
「この原稿は来月発売に載る原稿だよ。まだ世に出てないものだから、これが証拠」
画面には、プロ級の線でキャラクターが描かれていた。それはスマホで確認した絵柄と全く同じものだった。
「・・・・・・て事は、本当に」
「信じてくれた?」
「マジですか・・・・・・」
「マジですよ」
そう言ってお姉さんはいたずらっぽく微笑む。
「え、待って? お姉さんは立場ある人なのにストーカーしてたって事ですか?」
するとお姉さんは態度を一変させた。
「ごめんなさい、本当に悪気はなかったんです。本当にすみませんでした・・・・・・」
「や、責めてるつもりじゃないんですけど」
でもお姉さんが本当に売れっ子漫画家『影踏舞衣』なのだとしたら話は変わってくる。
得体の知れないお姉さんの正体が、売れっ子漫画家という金看板を背負っているならば、僕の身はそれなりに保証されているんじゃないだろうか。
てゆうか、これだけの有名人なら最初からそう言ってくれれば安心出来たのに・・・・・・いや、人気絶頂の漫画家がストーカーしてるなんて知れたら連載中止になる可能性は決して低くないし、言えないのは当然か。今ここで打ち明けてくれたという事は、僕の事をそれなりに信用しているという事なのだろう。
衝撃の事実を受けて、僕は驚きと共に一気に安堵感が来る。
そうか、お姉さん漫画家なのか。
「君は私の理想って言ったでしょ? それはね、私の漫画の主人公が君にそっくりだったの」
「え」
「私が漫画で描いた主人公が、そのまま現実に現れたみたいだったの」
「僕が?」
「儚げで影があって、放っておけない感じとか。君を見てると、手を差し伸べたくなるの」
お姉さんは、祈るようにそう言った。ストーカー行為を正当化しかねない発言だという自覚があるから、だからそういう意味で言った訳ではないと、伝わって欲しいという、そうした祈りのように思えた。
「そうだったんですね」
僕は静かに頷く。
お姉さんの異常なまでの執着心、それは彼女の描く漫画の主人公と僕が酷似していたから。
僕はそれが、嬉しい事なのかどうか分かりかねた。でも、何者でもない僕に特別な価値を置いてくれる事は嬉しい、と思う。透明な僕が実態になった気がした。
「君が困ってるなら助けたい。だから、遠慮しないで頼って欲しいの」
「・・・・・・お姉さん」
「そうだ、まだ名前言ってなかったよね? 私は俯見己影。己影って呼んで?」
さり気なく名前呼びを促されたが、ここはひとまず置いておいて、
「僕は佐倉歩夢です」
「歩夢くん、よろしくね」
そして平然と苗字を飛び越え、名前で呼んでくる。まぁ、一緒に暮らすなら名前呼びの方がいいか。
「さて、自己紹介も済んだ事だし歩夢くん、お風呂入っておいで? 煤だらけで気持ち悪いでしょ?」
「・・・・・・そうですよね、すみませんこんな状態で上がらせてもらって」
「気にしないで、と言いたいところだけど、猫ちゃんたちもいるからね」
「ですよね」
猫ファースト。素晴らしい精神だと思います。
「でも僕、代えの下着や服がなくて・・・・・・」
「部屋着は私のを貸してあげるとして、下着類は買ってこなくちゃだね。近くにコンビニあるから買ってくるよ!」
「大丈夫ですか? もう深夜ですし、危ないですよ。僕が行きますよ」
「大丈夫だから、歩夢くんは先にお風呂に入っておいで。あ、今のうちにお風呂湧かしておくね!」
言うが早いか、お姉さん――もとい己影さんはお風呂場に行って湯を沸かすと、財布とスマホを持って家を出る。
「それじゃあダッシュで買ってくるから、お風呂入ってて? 洗剤は好きに使って。それとボディータオルは予備のやつ置いておいたから」
テキパキした口調で言うべき事を言い終えた後、彼女はすぐさま部屋を飛び出した。
「や、ダッシュじゃなくていいんで・・・・・・」
という僕の声は虚しく玄関に反響する。
一人取り残された僕は、居たたまれない気持ちでその場に立ち尽くすも、言われた通り、お風呂場へと向かう。
まず洗面所に入ると、綺麗に整頓された洗面台がある。そこには一本だけ歯ブラシが立てかけてあって、一人暮らしである事が見受けられる。当然だけど、ここに住んでいるのは己影さんだけのようだ。
僕はまず上着を脱ぐと、置き場に迷う。辺りをキョロキョロ見渡していると、ふと視界にランドリーバスケットを捉える。丸形二段のランドリーバスケットには、使用済みの衣類が入っていた。そして二段目には・・・・・・、
「っ!」
二段目には下着類が入っていた。
積み上がった下着の山の一番上に、グレーのブラジャーが無造作に置かれていた。
飾り気のないシンプルなデザインだが、それ故に生々しい生活感を放っていた。そしてデカい。メロンがすっぽり収まりそうなほどのスケール感だった。
「・・・・・・ダメだ、見るな。見ちゃダメだ」
思わず目を奪われたが、すぐに理性を働かせる。
他人の下着をマジマジ見つめるなんて、モラルのある人間のする事じゃない・・・・・・それに、これから居候する身だぞ。邪な気持ちを持ち込むな・・・・・・。
理性の声が頭の中で警鐘を鳴らす。けれど、僕の手は磁石に吸い寄せられるように伸びていた。気付けば、僕はグレーのブラジャーに手を掛けていた。
「ゴクリ・・・・・・」
思わず、生唾を飲み込む。
柔らかい。そして、ほのかにいい匂いがする。
己影さんの事、ストーカーとか言いながら、僕のしてる事も同じ変質者の行いだ。むしろ、己影さんと関係を築いた上でしてる分、モラルを踏み越えてるだけタチが悪い。
あまつさえ、最低な奴だと自覚してるのに一向にブラから手を離さない自分の浅ましさときたら、目を覆いたくなるほどだ。情けない、死ぬほど情けない。なのになんで僕はグレーのブラに夢中なのだろう。
ふと、視線を感じた。
振り返ると、洗面所の入り口で顔を半分覗かせた雪ちゃんが、ジッとこちらを覗いていた。
「わあぁぁぁぁぁぁぁ!」
僕は慌てて、ブラをバスケットに投げ込んだ。すると雪ちゃんは驚くでもなく、僕を憐れな奴でも見るみたいな目で見た後、ソッと洗面所を後にした。
猫にまで憐れまれるとは・・・・・・。
服を脱ぎ捨て鏡を見ると、そこに映っていたのは疲れ切った顔をした僕だった。この一日だけで、随分とくたびれたものだ。
お風呂場に入り、シャワーを浴びて煤を洗い落とすと、一気に脱力感が襲ってくる。
体を洗い流しながら、僕はここで「助かったんだ」と実感する。
やがて湯船が満たされると、シャワーを止めてゆっくりと浴槽に浸かる。
「ふぅぅ」と思わず気の抜けた声が漏れる。
しばらく呆けていると、玄関の方でガチャンと音がして、バタバタと足音が近付いてくるのが聞こえた。
「歩夢くん、下着買ってきたよ。ここ置いておくね?」
「ありがとうございます・・・・・・」
「それと、湯加減どう?」
「いいです、はい」
「そっか。気にせずゆっくり浸かってくれたらいいからね?」
「はい・・・・・・」
己影さんは親切で声を掛けてくれるけれど、扉を一枚隔てていて見えないとはいえ、裸で会話しているのは恥ずかしい・・・・・・。
己影さんがその場を後にして、僕は緊張が解かれる。
己影さんは気にせずゆっくり、と言ってくれたけれど、額面通りに長風呂を楽しむつもりはない。僕はもう少ししたら湯船から上がる事にする。
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