第8話|一緒に眠る夜

夜勤のない夜の静寂は、かつての二人にとっては「向き合うことを避けるための空白」だった。けれど今夜のそれは、肌寒い空気さえも心地よい、穏やかな幕間に変わっている。


 恒一が寝室の布団に潜り込むと、枕元で待っていたナッツが「待ってました」と言わんばかりに、足元でどっしりと横たわった。ゴールデンレトリバーの大きな体温が、羽毛布団越しにじんわりと伝わってくる。


「ふぅ……」  深く息を吐き出す。精霊のハルはいなくなったけれど、その代わりに、自分の心が以前よりずっと「軽く、広く」なっているのが分かった。


 そこへ、開け放たれたドアの隙間から、音もなく灰色の影が滑り込んできた。  美咲の猫、おもちだ。


「おもち? どうしたんだ」


 いつもなら、おもちはリビングのキャットタワーか、美咲の枕元以外には寄り付かない。ましてや、犬の匂いが染み付いた恒一の布団など、避けて通るのが常だった。  しかしおもちは、迷いのない足取りで恒一の胸元まで歩いてくると、前足でふみふみと毛布を整え、そのまま恒一の腕の中にすっぽりと収まった。


「……えっ」  恒一は固まった。  喉から鳴る「ゴロゴロ」という振動。それはハルのような光の魔法ではないけれど、指先に触れる柔らかな毛並みと、少しだけ高い猫の体温は、現実的な奇跡そのものだった。


「あれ、おもち……? どこに行ったかと思えば」


 パジャマ姿の美咲が、不思議そうに寝室に顔を出した。  恒一と、その腕の中でくつろぐおもちを見て、美咲は驚いたように目を丸くする。


「おもちが、恒一さんのところに行くなんて。……私、のけ者にされちゃったみたい」 「いや、俺も驚いてる。……こっち、おいでよ。おもちも待ってるみたいだぞ」


 恒一が布団の端をめくると、美咲は少しだけ戸惑ったような、照れくさいような顔をして、ゆっくりと隣に横たわった。  同じベッドで、同じ時間に眠る。  それは、夜勤続きの生活の中で、いつの間にか失われていた「夫婦の当たり前」だった。


「……ナッツがいるから、ちょっと狭いかな」 「いいえ。……なんだか、すごく安心する。犬の匂いと、恒一さんの匂い」


 美咲がそっと体を寄せると、二人の肩が触れ合った。  以前のような、緊張感からくる強張りはない。ただ、一日の終わりを慈しむような、柔らかな接触。


「なあ、美咲」 「なに?」 「精霊たちがいた時より、今のほうが、二人の声がよく聞こえる気がするんだ」 「……私も。ユキが喋らなくなってからの方が、自分の本当の気持ちが、喉の奥にちゃんとあるのを感じる」


 美咲の手が、布団の中で恒一の手を探し、そっと指を絡めた。  美咲の指先はまだ少し冷たかったけれど、握りしめるうちに、恒一の熱が彼女へと移っていく。


「私、ずっと怖かった。病院でたくさんの死に触れるたびに、自分の心が削られて、あなたに優しくする分まで残ってないんじゃないかって。だから、猫の静かさに逃げてたの」 「俺も同じだよ。外で元気なフリをするために、家ではエネルギーを切っていた。美咲を支えるための余力が、自分にはないと思い込んでいたんだ」


 暗闇の中、ナッツが夢を見ているのか、小さく「クゥ」と鳴いて足を動かした。  その振動がおもちに伝わり、おもちは面倒くさそうに頭をもたげて、今度は美咲の顎の下に顔を埋めた。


「ふふ、おもちは本当に、いいとこ取りね」  美咲が小さく笑った。その笑い声は、深夜の寝室に心地よく響き、空気をさらに甘く、温かく変えていく。


「……美咲、明日も一緒に起きよう。コーヒー、淹れるよ」 「うん。……パン屋さんのクロワッサン、まだ残ってたかな」 「取っておいたよ。美咲が好きだから」 「……ありがとう」


 会話が途切れても、もう気まずい沈黙は訪れない。  おもちの喉鳴らしと、ナッツの寝息、そして隣にいる大切な人の呼吸の音。  三つの命の鼓動が重なり合い、一つの家族の旋律となっていく。


 恒一は、腕の中の猫と、隣にいる妻の温もりを噛み締めながら、ゆっくりと目を閉じた。  精霊たちが去った後の世界は、決して派手な奇跡に満ちているわけではない。けれど、冷えた手を握り合い、同じ布団で眠るという、この上なく泥臭くて愛おしい「生活」が、そこにはあった。


「おやすみ、美咲」 「おやすみなさい、恒一さん。……大好きよ」


 最後の一言は、溶けゆく意識の中で、温かい霧のように部屋を満たした。  明日の朝、また新しい一日が、同じ色の朝焼けと共にやってくる。


いかがでしょうか。 精霊という「媒介」を必要とせずに、犬と猫、そして夫婦が物理的にも精神的にも一体となる、静かな、けれど大きな前進を描きました。


第9話に向けた、次のステップの提案です:


第9話のプロット詳細を確認する: 穏やかになったからこそ、さらに深く「本音」をぶつけ合う回です。「寂しかった」と「どう支えればいいか分からなかった」という、物語の核心に触れる対話が始まります。


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