第5話|精霊は“間”に生まれる
朝食の味噌汁から立ち上る湯気が、二人の間の空気を白く濁らせていた。
食卓には、恒一が作った出し巻き卵と、美咲が用意した焼き魚。同じ箸置き、同じ茶碗。けれど、カチカチと時計の音だけが響く空間は、どこか余白が多すぎる。
「……これ、美味しいね」 美咲が、ユキに言われた通り、喉の奥に引っかかっていた言葉を絞り出す。 「そうか。良かった」 恒一は短く応え、箸を置いた。その視線は、美咲の顔ではなく、彼女の背後で朝日を浴びて毛繕いをする『おもち』に向けられていた。
ふと、恒一の視界が歪んだ。 おもちの影が不自然に伸び、そこから銀色の光を纏った子猫――ユキが這い出してくる。同時に、恒一の足元に丸まっていたナッツの影からは、金色の火花を散らす子犬、ハルが飛び出した。
精霊たちは二人の食卓の上で、楽しげに追いかけっこを始めた。茶碗の周りを跳ね、醤油差しの影に隠れる。しかし、その足音が響くことはなく、ただ空間に「ひなたの匂い」と「真夜中の静寂」が混ざり合った不思議な薫香だけを撒き散らしていく。
「恒一さん、見えてる……?」 美咲が、震える指先で空中を指差した。 「ああ。……見えているよ。ハルと、ユキだろ?」
二人は初めて、同じ奇跡を共有していることを認め合った。 すると、ハルが恒一の肩に飛び乗り、耳元でクスクスと笑った。
『ねえ、恒一。君は、僕たちが「君が一人で寂しいから」現れたと思ってる?』 「違うのか? 俺が仕事で疲れ果てて、誰にも頼れなかったから……」 『半分正解で、半分は大間違い』
今度はユキが、美咲の湯呑みの縁に危うい足取りで飛び乗った。
『私たちはね、「孤独」からは生まれないのよ。孤独なんて、ただの空っぽな部屋だもの。食べるもの(エネルギー)がないわ』 「食べるもの……?」 美咲が問い返す。
『そう。私たちのエサは、この部屋に充満している“渋滞した気持ち”よ』
ユキが前足で空をひっかくと、そこには薄い虹色の糸のようなものが無数に浮き上がった。それは恒一から美咲へ、美咲から恒一へと伸びている。けれど、どの糸も途中で絡まり、結び目を作り、相手の肌に触れる手前で力尽きて床に落ちていた。
『「伝えたい」という熱い願い。でも「伝わらない」という冷たい諦め。その二つが激しくぶつかり合って火花が散る。その“摩擦”こそが、私たちの命の源なんだよ』
ハルが恒一の頬を舐めた。その場所が、熱い鉄を当てられたようにジリジリと震える。
『君たちが本当にお互いを見限って、心の底から「一人でいい」と思っていたら、僕たちは生まれてこなかった。君たちの間に“橋を架けたい”という未練があるから、僕たちはここにいられるんだ』
「未練……」 恒一はその言葉を噛み締めた。 仕事中、美咲の後ろ姿を見て、声をかけようとして止めたあの瞬間。 帰宅して、寝ている彼女の肩に触れようとして、手を引いたあの夜。 それらは「無関心」ではなく、あまりにも重すぎる「関心」の裏返しだったのだ。
「私……」 美咲の声が、微かに震える。 「私、あなたが仕事でミスをしたり、落ち込んだりしているのを見るのが、怖かった。同じ仕事をしているから、あなたの痛みが自分のことのように分かってしまう。だから、触れたら二人とも崩れてしまう気がして……。でも、それはあなたを信じていなかっただけかもしれない」
美咲の瞳から、一粒の涙が落ちた。それがテーブルに届く前に、ユキが器用に口で受け止める。涙は瞬時に銀色の真珠へと変わり、精霊の体をより一層輝かせた。
『そうよ。傷つくのが怖いから、透明な壁を作る。でも壁があるから、相手の温度が分からなくて、もっと怖くなる。私たちはその“壁”の中に閉じ込められた熱気なの』
ハルが恒一の頭をポンと叩く。
『精霊は、君たちの“間”に住んでいるんだ。君たちが手をつなげば、僕たちの居場所はなくなる。……寂しいけど、それが僕たちの望みなんだよ』
ハルとユキが、空中で一つに溶け合うように円を描いた。 リビングに、爆発的な「生」の匂いが広がった。雨上がりの土、咲き誇る花、焼きたてのパン、そして愛犬と愛猫の確かな体温。
恒一はゆっくりと手を伸ばした。 テーブルを挟んで、美咲の、消毒液で荒れた指先に触れる。 美咲は逃げなかった。逆に、その指を絡めるようにして強く握り返した。
「……熱いね」 恒一が呟く。 「うん。……少し、痛いくらい」 美咲が微笑む。
二人の手が重なった瞬間、ハルとユキの姿がすうっと透き通った。 まだ消えたわけではない。けれど、その輝きは、先ほどまでのギラギラとした不自然な強さを失い、穏やかな朝の光に馴染んでいく。
「俺たちは、一人になりたくて一人でいたわけじゃないんだな」 「ええ。……二人でいるために、距離を測りすぎていただけ」
絡まった虹色の糸が、少しずつほどけていくのが見えた気がした。 まだ、すべてが解決したわけではない。病院に行けば、また「看護師」という仮面を被らなければならない。けれど、この家の中に溜まっていた「届かない気持ち」の正体を知った今、二人の吸う空気は、さっきよりもずっと軽くなっていた。
足元では、ナッツとおもちが、まるで自分たちの役目が終わったかのように、仲良く寄り添って二度寝を始めていた。
いかがでしょうか。 精霊の正体が「孤独」ではなく「関係性の摩擦」であるという、少し哲学的な、けれど温かい真実を描きました。
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