第1話|同じ白衣、違う休日
第1話:同じ白衣、違う休日
朝、七時四十五分。 夜勤明けの病院の通用口は、使い古された石鹸と消毒液の匂いがした。 「お疲れ様です」 二人の声が重なり、そしてわずかにズレる。 朝倉恒一は、隣を歩く妻の美咲を見た。同じ白衣に、同じ色のカーディガン。けれど、美咲の視線はコンクリートの地面に向けられたままだ。 「……帰ろうか」 「うん」 短く交わされる言葉は、二十四時間戦い抜いた戦友のそれだった。
バス停までの道のり、二人の間には三歩分の距離が空く。 同じ病棟で働く看護師夫婦。患者からは「理想の二人」なんて言われることもあるが、実際のところ、彼らの生活は薄氷の上にある。 他人のバイタルサインには敏感なのに、隣にいるパートナーの心の波形だけは、どうしても読み取ることができない。
家に着くと、二つの命が二人を待っていた。 玄関を開けた瞬間、弾丸のように飛び出してきたのはゴールデンレトリバーの『ナッツ』だ。恒一の膝に頭を預け、尻尾で床を乱暴に叩く。 「ごめんな、待たせた」 恒一がナッツの耳の付け根を掻くと、熱い鼻息が手のひらに当たった。生気にあふれた、野生に近い温もり。 一方、美咲は無言でリビングの隅へ向かう。そこには、光の当たらないキャットタワーの最上段で、灰色の毛玉が丸まっていた。スコティッシュフォールドの『おもち』だ。 美咲がおもちの背中をそっと撫でると、低い、振動のような喉鳴らしが返ってくる。
二人は、互いのペットに触れているときだけ、深い溜息を吐くことができた。
「恒一さん、ドッグラン行くの?」 着替えを終えた美咲が、カーテンを閉めながら聞いた。 「ああ。ナッツが朝から騒いでるしな。美咲は?」 「私は……おもちと寝る。少し、頭痛がするから」 「そうか。おやすみ」 「おやすみなさい」
リビングの時計が、カチリと音を立てる。 恒一が外へ「吐き出し」に行く一方で、美咲は内へ「潜って」いく。 それが二人の、壊れかけたバランスを保つための作法だった。
多摩川沿いのドッグラン。 恒一は、ナッツが全力で芝生を蹴立てる姿を、ベンチから眺めていた。 太陽の光が網膜を刺す。夜勤明けのハイになった脳に、青臭い草の匂いと、他の犬たちの吠え声が混ざり合う。 「……疲れたな」 ぽつりと漏らした言葉は、誰にも届かない。 その時だった。 ナッツが、何もない空間に向かって楽しげに吠えた。 「どうした、ナッツ?」 視線を追うと、陽炎のような揺らめきの中に、一匹の白い子犬が座っていた。 普通の犬ではない。その体は、まるで陽光を編んで作られたかのように透き通っていて、足元からは、かすかにひなたぼっこの匂いがした。 『外を見てばかりだと、家の中が見えなくなるよ』 声は聞こえない。けれど、確かな思念が胸に流れ込んできた。 恒一が瞬きをすると、その白い影は、風に舞うタンポポの綿毛のように消えてしまった。
同じ頃、遮光カーテンに守られた寝室。 美咲は、おもちの柔らかい腹部に顔を埋めていた。 冷たい空気。静寂。猫の微かな鼓動だけが、自分の心臓と同期していく。 病院で看取った患者の顔、鳴り止まないナースコールの音、同僚の苛立った声。 それらが、猫の毛に吸収されて消えていくのを待っていた。 「苦しいな……」 そう呟いた美咲の頬に、冷たくて柔らかい何かが触れた。 おもちではない。 枕元に、霧のように白い子猫が丸まっていた。 その瞳は月光の色をしていて、美咲を見つめている。 『待ってるだけじゃ、あなたの心は凍ってしまうよ』 ひんやりとした静けさが、美咲の脳裏に響く。 「えっ……」 美咲が手を伸ばすと、その子猫は透き通った足取りで影の中へと溶け込んでいった。
夕方。 恒一が帰宅すると、寝室から起きてきた美咲と廊下で鉢合わせた。 「ただいま」 「おかえりなさい」 二人は、それ以上の言葉を探せなかった。 恒一の服には太陽の匂いが。 美咲の服には夜の静寂が、色濃く染み付いている。
キッチンで並んで手を洗うとき、二人の間に、ほんの一瞬だけ、 光を纏った子犬と、影を纏った子猫が、じゃれ合うように横切ったことに。 まだ、二人は気づいていない。
「……ねえ、恒一さん。今日のドッグラン、どうだった?」 美咲が、いつもよりほんの少しだけ、声を絞り出す。 恒一は蛇口を閉め、濡れた手を拭わずに彼女を見た。 「ああ。ナッツが、変な方向に吠えてた。……それだけだよ」
会話はそこで途切れる。 けれど、二人の足元では、小さな精霊たちが「二人のズレ」をそっと見守り始めていた。
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