空が震えるような - 5

 翌日には、右脚の傷はすっかり良くなっていた。

 痛みも痺れもなく、問題なく動く。まだ傷跡は残っているが、俺の年齢であれば問題なく消えるだろうというのだから、つくづく回復魔法とは大した技術だ。

 この大陸では広く使われているが、俺の故郷にこんな便利なものはなかった。


 今日は俺たちの滞在していた別荘に、グェンが訪ねてきている。

 俺は同席していなかった。バゼラードは護身武器と同じ。信頼できる相手を自分のテリトリーへ迎える時に意味なく同席させるのは、却って失礼にあたるのだという。

 こういった王国らしい機微には、未だに悩まされる。



 ポピーも別荘を出る準備に忙しくしており、手伝いの申し出は断られてしまったので、浮いてしまった俺は応接室の隣の休憩室で待機していた。

 奇しくもそこは、この別荘に来た時に最初に入った部屋でもあった。燭台に地下紙の燃えがらが残っている。


(……ん?)

 それを見て気付いた。

(2枚あるな。片方はここに来た日に焼いたものとして、もう片方はまだ随分新しい……命脈プラーナまで見える)


 地下紙とは、文字通りベレーブックの地下世界で作られる紙である。

 特別なキノコの繊維を用いているとかで、魔力と水分を与えると破れたところから再生する、生きた紙だ。

 一旦破れば繊維がほぐれて燃えやすくなることから、貴族の側仕えはしばしばこれをメモとしてよく使うのだという(アルブレヒトさんも持っていた)。



 俺は拳を閉じ、開き、十指を順番に曲げ伸ばす。

命脈プラーナがあるなら生きている。生きているなら……回復できる)

 何か深い意味のある思いつきではなかった。ただこれからも破須雷ハシュライを使う機会はあるだろうから、その腕試しをしようという、そんな些細な手遊びだ。


 消えかけの命脈を注意深く観察し、支点ヴァルマを探る。支点は命脈同士が交わる点。それを指圧することで、生命の流れを調整できる。

(……ここと……こうか。力は優しく……ねじるように……)

 漫然と拡散し無為に消えてゆくばかりだった命脈を一つに束ねていく。命脈がまとまると、身体は本来以上の能力を発揮する。たとえば血液凝固を速めることで、槍で貫かれた大腿からの出血を止めることができたり。

(地下紙には、再生能力がある。必要なのは……水分か)

 手近に綺麗な水がなかったので、置いてあったシガーナイフで指に小さく傷を付けた。血液が垂れる。炭化した地下紙が血を吸って、わずかに赤くなった。命脈はさらに強まり、地下紙の本来持つ再生力を強化していく。


「……できた」

 試行錯誤すること数分。焼けた地下紙は少し赤っぽくなりながらも、一枚の紙の姿を取り戻していた。

 息を吐き、汗を拭う。不可能とは思っていなかったが、実際にできてみると驚きが勝った。

 今表にしている面には、特に何も書かれていない。復元した紙を裏返す。



 絵があった。

 走り書きのスケッチのようなものだ。元は黒いインクで引かれていた線は、俺の血のせいで赤色になっている。

 描かれているものが何か、すぐに分かった。

(……エリーザ……だよな)

 長い髪をした女の横顔。顔の輪郭や髪の流れは、彼女の特徴を捉えている。ただ、目はない……《天瞳の君》の目を描くことは躊躇われたのか。

 その代わり、というのではないが、髪には薔薇が飾られていた。エリーザが薔薇の髪飾りをつけている所は見たことがない。


 そして、絵の下。流れるような字体で簡素な文章が記されている。


『美しいあなた。エルジェリーザ・ムヌメル』

『私の想いがあなたに届かなくとも』

『あなたの煙を纏うことを許してください』


(……この、文字は)

 情感のこもったその文章に、思わず指を添わせる。見慣れた筆跡の文字列。

(ポピー……?)


 脳裏に痺れるような感覚が走る。

 最近知ったばかりの、女性の絵を焼く――"女焼き"という儀式を、俺は思い出した。


『女を描いた絵を、盛大に焼く』

『立ち上る煙は、戦士を加護する』


 その儀式で焼かれる絵に描く相手は、誰でも良い訳ではない。



『盛大に焼く』

『絵を』



『愛する女を描いた絵を』



   *   *



「エルジェリーザ。お前らなあ、ヤッてないだろ」


 ティーカップを持つ手が、思わず止まる。

 数秒前まで支持の確認や今後の協力態勢について話していたのに、グェン伯爵は突然そんなことを切り出してきた。


「……ええと、それは」

「寝る、肌を重ねる、褥を共にする、夜伽、情交……ええとあとどんな上品な表現がある?」

「いえ、分かりました。分かりましたから」


 応接室のテーブルを挟んだソファに座るグェン伯爵は、何も悪びれることなく肩をすくめる。目を見れば、揶揄するような気配は……ほんの少しだけ。それよりも、真面目な意図の方がずっと強く見て取れた。

「そっちの風習はよくわかっちゃないが、バゼラードってのはヤってて当然、ヤることヤってるからこそ力を尽くすもんなんだろ?」

「……そうですね。騎士の忠誠へ俸給や領地で報いるように、バゼラードの働きには寵愛を与える。そういう習わし……いえ、制度と言い換えても良いでしょう」

「じゃあなんでヤらないんだ。報酬を渋れば忠義は揺るぐ。あたしだってそれくらい分かるぞ」


「……貴女は私を支持してくれるでしょうから、正直に話します。確かに、私とタスクにそういった関係はありませんが……何故それが分かったのですか?」

「見れば分かる」

 伯爵は丸くなった腹の前で手を組む。

「男なんて単純なもんだ。最初はおっかなびっくりだった連中も、一発ヤれば馴れ馴れしい遠慮なしになる。何発か殴れば反省したフリはできるようだが、それでも根っこの勘違いは変わらん」

「……そう。見れば分かる、ですか」


「伝統派として戦うんなら、バゼラードを愛してやった方が筋は通るはずだ。何かヤってない理由があるのか」

 グェン伯の声は真剣そのものだ。

「タスクのことは好みじゃないか?」

「いいえ。体格は逞しいし、顔つきは異国風ではありますけど……精悍で、良いと思います」

「じゃなんで。……初めては不安か? リーガサの夜香は良く効くぞ」

 苦笑する。貴族の身なれば性交渉は義務であり、そこに個人の感情を差し挟む余地はない。それを乗り切るための様々な手段は、当然クルムヴァルダー家にも伝わっていた。


「……結婚相手が欲しいそうなんですよ」

 私の言葉は、溜息交じりだったと思う。

「十分な働きをしたら、解任の暁には、と。……清純でしょ?」

「清純~? 嫁を用意してもらうのが?」

「ナノエに留まれば伴侶なんて選び放題だったんです。それを避けてそんなことを望む彼に、責務だからと関係を強いるのは、気が進まなくて」

「いいのか? そんなことで」

「もとより肉体関係は互いに強要しない、という契約です。私の身体には最低限慣れてもらいましたし、それで十分かとは思ったのですが……」

 事実としてグェンは見抜いた。一人が見抜いたなら他の誰かも見抜くかもしれない。

 社交界はイメージが事実になっていく場だ。タスクと私の関係がうわべだけのものと広まるのは、都合が悪い。


「舐めているな」

 お腹が重いのか、グェン伯は姿勢を崩した。

「武器に対する憐れみのために、命運を賭けた戦いで手を抜くというのか?」

「そういうつもりでは……ないのですが」

「いいや、そうだ。武器を壊さないように戦うのは分かる。だが、お前は武器を汚さないようにしている。そんなことで戦えるとは、私は思わない」


 手厳しい評価だ。それは支持者からの進言であり、尊敬すべき女主人の助言でもあった。

「少し考えてみます」

「何……そう悪いことでもない。勘違いなんて、させてもしても良いんだ。それが気持ちを支えることだってある。……あたしすらそうだった」

「グェン伯爵も……!?」

「小娘の頃の夢想だよ。だがあんたはまだ小娘だ。現実を忘れなければ、夜くらい夢を見るのも良い」



 なぜ貴族は愛人を持つのか。

 それは婚姻が政治的なものだからだ。配偶者は、家のために選ばれる。それでは満たさぬ心のために、配偶者とは異なる相手に愛を求める。王国においては珍しくもない話だ。

(タスクと関係を持てば、バゼラードの称号は実を伴うものとなり、私自身の支えにもなる……)


 少しだけ考えて、かぶりを振った。

「……でも、私にはもういるんですよ」

「へえ?」

「もうずっと、私のことを隣で支えてくれている。並び立つような身分ではないけれど……」

 彼女の可憐な、花のような笑みを思い出す。それだけで、私の心は暖かくなる。



「ポピーが、大切な――友人がいますから」



   *   *



 扉を開く音を聞き、俺は慌ててその絵を後ろ手に隠した。


「ここにいたんですか」

 ポピーだ。

 普段通りのメイド服で、普段通りの無感動な表情。事務的な声で、特に仕事中は、俺のことを見ない。今回も、そうだろうか? ……そうであってほしい。


 そして、俺の期待に反して。

「……ちょうど良いです。少しいいですか」

 ポピーは別荘を引き払う準備をするでなく、俺に話しかけて来ていた。

「少し、って」

「あなたが決闘に出る前に言っておいたでしょう。怪我のせいで先送りにしておきましたが……」


 思い出した。確かに何かを俺へ確かめようとしていた。

(どうすればいい……どうすればいい?)

 普段の俺なら諸手を挙げて歓迎していただろう。だが今、俺の頭の中はぐちゃぐちゃになっている。焼かれていた紙の上の、薔薇に飾られたエルジェリーザ。添えられた文章。筆跡。何より、その絵を俺が持っていること。

 全てはあまりにも突然で、俺には何の準備もできていなかった。ポピーはわずかに眉をひそめ、小首を傾げる。


「……良いですか?」

「え? あっ、ああ。構わない……」



 まだ不審げな表情をしていたが、彼女は予定していただろう話を始める。

「喉の動きを見れば、相手が何を喋っているか分かる……と、言っていましたね」

「ん……ああ」

 ヴィルナムの耳打ちの内容を見抜いた件だ。それなら、とポピーは続ける。

「私の喉唱こうしょうも見れば分かるんですか?」

「……そう、だな」

「言い切れるということは、今まで私が喉の中で独り言を呟いていたことも……知っているんですね?」


 口ごもる。

 そんなものは盗み聞きに等しく、機を見て明かすべきだった。申し訳ない。

 そう頭を下げるのが最善なのだろう。


『エリーザ様』『お美しい』

 だが、俺の思考は明後日の方角に向かう。思い出してしまう。

『綺麗です』『エリーザ様』『完璧で』

 熱心なものだと感心していた、彼女の秘めたる独り言を。

『私があそこに』『いられれば』



「知ったんですね?」

 闇を恐れるような、慎重な口ぶりだった。

「私が……」


 言葉が途切れる。

 彼女の視線は、傍らの燭台に向けられていた。そこにあるのは、地下紙一枚分の、燃えさし。ただ一枚分の。

 彼女はもう一度俺を見る……おそらくは、俺が不自然に後ろに回した手を。


(まずい)

 そう思った時には遅かった。いや、多少速く反応できたところで、俺に何ができただろうか?

 ポピーは俺の背に手を伸ばし、赤い地下紙を俺の手から奪った。

 そこに書いてある内容を……そこに書かれていた内容もろとも、燃やしたはずの紙が残っている事実を確かめて、ポピーは。


「……そうですよ」

 低く唸る。

「あなたの想像通りです。タスク……まさか、燃やした地下紙をどうにかして元に戻してまで、証拠を得ようとしてるとは、思いませんでしたが」

「待ってくれ、それは偶然で……」



 いっそ。

 いっそ激怒し、俺を存分になじってくれれば良かった。


「お願いします」


 だが、ポピーはそうしなかった。

 床に膝をついて、深く俯く。小柄な身体を、さらに小さく縮めて。

 表情を見て取ることはできない。だが、震えている。身体も、黒くさらりとした髪も。


「誰にも……誰にも言わないでください。わ、わたしが、誰にも知られぬよう、何を言っていたのか。誰を想って絵を焼いたのか」


 その声音は、もはや命乞いのそれだった。


「この穢れた気持ちを成就したいとは願いません。あなたの邪魔もしません。あなたのことが妬ましくて……辛く当たっていたことも謝ります」


 思い出す。初めてエリーザと会った夜、突きつけられた針。今日に至るまで無用の雑談もできず、厳しく俺にこの国の常識を教えてくれた姿。

 俺はそれが、彼女の自称したように、エリーザの近仕侍女レディメイドとしての使命感によるものだと思っていた。


「だから、どうか……お願いします。もう……わたしがあの人を守る、なんて、あなたが来てしまったから、おこがましいことは言えないけれど」


 エリーザのバゼラード。

 その身を守る懐剣。忠義は寵愛にて報われる。

 そんな俺が、彼女の目にどう映るか。


「エリーザ様が好きで、傍にいたい。それだけです。それだけで良いんです。どうか……許してください。タスク、様……」

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