#2 侵入する絶望

 リビングに戻ると、静はすぐにハンバーグを温め直してくれた。

 デミグラスソースの濃厚な香りが、部屋の緊張感を覆い隠していく。


「さあ、召し上がれ。湊くん」


 静は向かいの席に座り、満足げに微笑んだ。

 俺はナイフを入れ、一口食べる。

 ……美味しい。

 悔しいけれど、梨花の作る黒焦げの料理とは比べ物にならないほど、完璧な味だった。


「……うん。美味いよ」


「ふふ、良かったです。これで湊くんも、ようやく『正しい生活』に戻れますね」


 静は紅茶を啜りながら、玄関の方を一瞥(いちべつ)した。


「あの騒音も、ようやく消えたみたいですし」


 確かに、ドアの向こうからはもう、泣き声も呼びかける声も聞こえなかった。

 梨花は帰ったのだろうか。

 俺の拒絶の言葉を聞いて、諦めてくれたのだろうか。


「意外としぶといかと思いましたが、所詮は子供ですね。自分の分を弁えて撤退したのでしょう」


 静は冷ややかな声で吐き捨てた。

 その言葉には、勝者としての驕りが滲んでいた。

 彼女は計算していたのだ。

 合理的に考えれば、元カレに「帰れ」と言われたら、プライドが傷ついて立ち去るのが人間だ、と。


 でも、俺は背中にへばりつくような嫌な予感を拭えなかった。

 梨花は、そんな「合理的」な人間だったか?

 あいつの愛は、もっとこう……粘着質で、エネルギーの塊のような……。


「念のため、確認してきますね」


 静が立ち上がった。

 彼女は玄関へと歩いていく。


「もし居座っているようなら、警察に通報します。不法侵入とストーカー行為で、社会的に抹殺してあげましょう」


 静がドアスコープを覗き込む。


「……あら?」


 彼女の声が裏返った。


「いない……? いえ、何か……うずくまって……」


 その時だった。


 ガァンッ!!!!


 突然、鉄塊を叩きつけたような爆音が響いた。

 俺はビクッとして箸を落とした。


「な、なんだ!?」

「きゃっ!?」


 静が後ずさる。

 ドアが、外側から激しく揺さぶられていた。

 ノックなんて生易しいものじゃない。体当たりだ。


「湊くぅぅぅぅぅん……」


 ドアの隙間から、地を這うような低い声が漏れてくる。


「開けて……ねえ、開けてよぉ……」


 ドガン! ドガン!!

 衝撃音が連続する。

 ドアチェーンが悲鳴を上げ、蝶番(ちょうつがい)が軋む。


「な、なんですの、あの女は……! 狂ってます!」


 静の顔から余裕が消えた。

 彼女の「完璧な計算」の中に、「理性を捨てて暴れる人間」のデータはなかったのだ。


「開けないなら……壊すね?」


 無邪気な、それでいて凍りつくような声。

 直後。

 バリバリバリッ! という破壊音と共に、ドアポストの金具がねじ切られ、そこから白い手がニョキリと侵入してきた。


「ひっ……!」


 その手は、内側の鍵を探して、手首がありえない角度に曲がりながら蠢いていた。

 爪は剥がれ、血が滲んでいる。

 痛みなど感じていないかのような、異様な動き。


 カチャリ。

 指先が鍵に触れ、回した。


 ゆっくりと、ドアが開く。

 そこには、髪を振り乱し、虚ろな目をした梨花が立っていた。

 その手には、廊下に置いてあったはずの共用部の消火器が握られていた。


「みーつけた」


 ニタリ。

 彼女の唇が、三日月のように裂けて笑った。


 終わった。

 俺が求めた「静寂」は、鮮血の赤によって塗り潰される。

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