消えたレシピの行方
御厨あると
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凡庸な日々、そして消失の秒針。
東京、東中野。古びた木造アパートと、新しく建てられたばかりのマンションが雑然と立ち並ぶ一角に、その定食屋はひっそりと佇んでいた。
かがみ亭。
創業四十年を数えるその店は、昭和の時代から脈々と続いてきた町の中華料理店、というより定食とラーメンが主力の、ごく一般的な食堂だった。しかし店の主、八神陣の代になってからは、客足が目に見えて遠退いていた。
午後九時半。ガラガラと玄関の引き戸が閉まる音に、陣はようやく深い息を吐いた。今日最後の客だったのは、向かいのクリーニング屋の親父だ。常連中の常連で、決まって「生姜焼き定食、肉多め!」と注文する。もし彼がいなければ、今日の売上は赤字確定だった。
厨房の蛍光灯の下で、陣は疲れた顔を晒しながらレジを締めた。売上合計:8500円。
「……今日もしょぼいな、俺の人生みたいだ」
誰もいない店内で、思わず独り言が漏れる。二十七歳、独身。特に夢もなく、ただ「親から継いだ店を潰さないように」という使命感だけでフライパンを振る毎日だ。
陣の料理の腕は、決して悪くなかった。丁寧な下処理。正確な火加減。祖父と父から受け継いだ技術は確かで、なにを頼まれても「美味しい」と言ってもらえる自信はあった。だが、それだけなのだ。
心に響く「なにか」がない。
隣町の人気店のように、全国から客が殺到するような「突き抜けた味」が、彼の料理には圧倒的に欠けていた。すべてが正確で、すべてが凡庸。それがこの店の限界であり、陣自身の限界でもあった。
カチッ、カチッ。
厨房の壁に掛かった古い振り子時計が、規則正しく時を刻む。その単調な音だけが、寂しい店内に響いていた。陣は洗い終えた食器を棚に戻しながら、明日以降の仕込みの段取りを頭の中で組んでいた。
(明日のラーメンのスープは、少しだけ鶏ガラを増やすか――いや、また味がブレるって一花に怒られそうだな)
彼の頭に浮かんだのは、幼馴染であり、唯一の理解者、そして人気料理評論家として活躍する一花の顔だった。彼女は陣の店を心底応援してくれているが、同時に陣の凡庸さも厳しく指摘してくる唯一の人間だ。
「陣の作るラーメンは教科書通りなのよ。完璧だけど、心が震えない。もっとこう、バチッと魂に響くような、究極の味を目指さないと」
つい先日も言われた、一花の言葉が耳に木霊する。究極の味――ね。
陣は無性に苛立ち、手に持っていた乾いた皿を乱暴に棚に戻した。究極なんて、言われて簡単に作れるなら誰も苦労しない。特に、あの「鳳凰」のラーメンを食べて育った世代には、なにを食わせても「二番手」としか思われないだろう。
鳳凰。
それは日本中を熱狂させ、国民食の概念そのものを変えた、伝説のラーメンチェーンだった。豚骨と魚介を絶妙なバランスで組み合わせた「超濃厚スープ」と「特注の太麺」は、日本のグルメ界の頂点に君臨し続けていた。あまりの唯一無二の美味さに、人々はそれを「神のレシピ」と呼んだ。陣自身も幼い頃に祖父に連れられて食べた鳳凰の一杯の味を、今でも鮮明に覚えている。あれこそが、一花の言う「魂に響く味」の極致だった。
(あの鳳凰のレシピさえあれば――)
そこまで考えて、陣は自嘲気味に首を振った。そんな夢物語を考えても意味がない。伝説の鳳凰は、五年前に惜しまれつつ閉店。創業者の急逝により、秘伝のレシピは門外不出のまま、世の中から消滅したのだ。
その時だった。
ブチッ!
突然、厨房の蛍光灯が音を立てて消えた。店内のすべての電気が一瞬で落ち、エアコンの送風音や冷蔵庫の作動音など、すべての機械音が止んだ。
「え?」
陣は反射的に立ち上がり、ブレーカーを探そうとしたが、その場に立ち尽くした。
外も、静かだ。店の前の街灯、向かいのクリーニング屋の看板、遠くの道路の明かりまで、視界に入るすべての人工的な光が、一斉に消えている。
まるで世界全体が、瞬時に巨大な闇の中に飲み込まれたようだ。
「停電? それも広範囲か?」
陣が携帯電話を取り出そうとした刹那――
ドンッ!
なにか硬いものが道路に叩きつけられるような、重く鈍い衝撃音が店外から響いた。
次の瞬間、パッ!
すべての電気が、何事もなかったかのように一斉に戻った。蛍光灯は再び白い光を放ち、冷蔵庫が唸り始め、振り子時計が再びカチコチと時を刻み始めた。
あまりに突然の、数秒間の出来事。
陣は店の外に飛び出した。外は騒然としていた。
「おい、今の停電はなんだ?」
「車が数台ぶつかってるぞ!」
店の数メートル先で、タクシーと軽トラックが接触事故を起こしていた。運転手たちは呆然としている。数秒間の停電が引き起こした混乱。
陣は事故現場を見ながら、なぜか強い吐き気に襲われた。単なる停電や事故とは違う、なにか決定的な「異変」が、この数秒間に起きたような気がする。
漠然とした、しかし確信にも似た不安が彼の胸を締め付けていた。
陣は急いで店に戻り、カウンターに突っ伏した。心臓が早鐘のように鳴っている。
「なんだ、今の?」
身体の震えが少し収まった頃、陣は水を飲みながら、ふとカウンター上の雑誌に目が留まった。それは一花が置いていった最新のグルメ雑誌だ。特集記事のタイトルは「日本が誇る国民食:ラーメンの歴史を紐解く」だった。
陣は何気なくそのページを開いた。日本のラーメンの起源から、醤油、味噌、塩、豚骨といった主要なスタイルが紹介されている。しかしあるべき情報が決定的に欠けていた。
彼の心臓が再び激しく鼓動を始める。
「鳳凰が……ない?」
記事の中には、かつて日本のラーメン界の頂点に君臨し、歴史を変えたはずの「鳳凰」の名前が、どこにも見当たらなかった。
「まさか、たまたま載ってないだけか?」
陣はスマホを手に取り、インターネットでd「鳳凰」「神のレシピ」「超濃厚ラーメン」といったキーワードを片っ端から検索した。
結果は、該当なし。
日本の食文化の象徴であり、誰もが知る「究極の味」であったはずの「鳳凰」に関する情報は、この世界から跡形もなく、完全に消え去っていた。
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