第10話 従属の呪い

 雨の気配は、昼のうちからあった。

 森の上を流れる雲は低く重く、風は何度も向きを変える。

 湿った空気が肌にまとわりつき、葉裏のざわめきは不規則だった。

 ――嵐になる。

 アルトリウスは森の縁から空を仰いだ。

 つい先ほど、魔女に追い返されたばかりだった。

 禁域からは出ろ。

 人間が立ち入る場所ではない。

 正論でしかない。

 本来なら、その命令に従い王都へ戻るべきだった。騎士団長として、それが正しい。

 それでも、足は森から離れなかった。

 木々の奥に感じる気配は、確かに拒絶している。

 だが――その拒絶さえ、懐かしいと思ってしまう自分がいた。

 ――あれは、ルシェルだ。

 確信は、出会った瞬間にあった。

 黒い髪。黒い瞳。

 人ではない空気。

 人に興味がなさそうで、それでも情の消えない声。

 二十年前の少年など、彼女が覚えているはずがない。

 それでいい、とアルトリウスは思った。

 魔女にとって、人の年月の差など誤差にすぎない。

 それでも胸の奥に残る、雷の夜の温度だけは薄れなかった。

 ぽつりと、冷たいものが頬に落ちる。

 雨だ。すぐに数が増え、鎧を叩く音が高くなる。

 遠くで雷鳴が轟いた。

 ――今度は、引かない。

 昔は、森の外へ置いていかれた。

 今度は、置いていかれない。

 アルトリウスは静かに、森へ半歩踏み入れた。



 森は、夜になるほど本性を現す。

 夜にしか咲かない花が淡い光を放ち、長く吸えば意識を奪う甘い香りを漂わせる。

 葉裏から毒霧を噴く植物。

 枝が軋む気配。

 見えない何かが動く、底音。

 禁域と呼ばれる所以が、嫌というほど分かった。

 それでもアルトリウスは動かなかった。

 一本の木に背を預け、剣の柄に手を添えたまま目を閉じる。

 雨の匂い。

 湿った土の匂い。

 魔力の気配。

 ――この森で、彼女は生きている。

 それだけで、足を引く理由はなかった。

「……本当に、しつこいわね」

 雨音を割って、低い声が落ちる。

 顔を上げると、黒い影が立っていた。

 フードを被った細身の女――魔女ルシェル。

「帰れと言ったはずよ」

「ええ」

「なのに、まだいる」

 露骨に苛立ちを浮かべたあと、小さく溜息をつく。

「この森を甘く見ないで。人間が一夜越せる場所じゃないわ」

「承知しています」

「……その顔が腹立つのよ。危機感がないわね、あなた」

 吐き捨てるように言って、踵を返す。

「来なさい」

「……追い出すのでは?」

「このまま勝手にうろつかれて、死なれても困るの。後始末が増えるでしょう? 面倒なのよ」

 相変わらずの理由だった。

 命の心配より、面倒が勝つ。

 ――ああ、そうだ。

 アルトリウスは黙って、その背中を追った。



 魔女の家は、二十年前と何ひとつ変わっていなかった。

 散らかった机。

 棚から溢れる瓶と薬草。

 落としたまま拾われていない小物。

 歩きやすい場所だけ、不自然に片付いている。

 ――これは。

 アルトリウスは一瞬で察した。

 掃除。家事全般。

 壊滅的。

 あの頃と同じだ。

「……相変わらずだ」

 無意識に零れた言葉を、すぐに飲み込む。

「何か言った?」

「いいえ」

 ルシェルは外套を椅子に放り投げ、部屋をぐるりと見渡す。

「連れてきたけど……限界ね、この部屋」

 それから、アルトリウスを見上げた。

「……あんた、その無駄にでかい図体、少しは役に立てなさい」

「掃除、ですか」

「当然でしょう」

 腕を組み、堂々と言い切る。

「助けてあげたんだから、とりあえず私の言うことを聞きなさい」

 一拍。

 思い出したように、指を弾いた。

「――あぁ、そうだわ」

 棚から瓶を取り出し、床にしゃがみ込む。

「あんたみたいな、人の言うこと聞かないやつはね、縛っとくのが一番有効なのよ」

「従属の呪いで縛らせてもらうわ」

「従属の呪い……?」

「そう。勝手に森をうろつかれて死なれても困るし」

 ちらりと視線を投げる。

「私のために働きなさい?」

 命令というより、提案に近い言い方だった。

「あなたは、いまから私の奴隷。

 掃除が終わるまで逃がさないわよ」

 にやりと笑うその顔は、

 恐るべき魔女というより――

 家事を押しつけるために全力で魔法を使う、ものぐさな女そのものだった。

 ――ずっと、この人はこうだった。



 赤黒い液体が床に円を描き、淡く光る。

「そこに立ちなさい」

 アルトリウスは迷わず、円の中央へ進んだ。

「目を閉じて」

 冷えた指先が額に触れる。

「我、森の魔女ルシェル」

 雷鳴と重なるように、低い詠唱が落ちる。

「ここに立つ人間を縛る」

 魔力が流れ込む。

 重く、強い。

 だが構造は雑で、どこか甘い。

「私の許しなく森を出ることかなわず

 私の許しなく私に刃を向けることかなわず

 私の許しなく――私から離れることかなわず」

 一文ごとに、空気が沈む。

 ――変わっていない。

 アルトリウスは静かに、それを受け止めた。

「従うなら黙っていなさい」

 彼は、ほんの一瞬だけ間を置いた。

 呼吸ひとつ分。

「……承知しました」

 その返事に、ルシェルは満足そうに頷く。

「ま、これで大丈夫でしょ」

 確認すらしない。

「ほら、騎士。さっさとそこ片付けなさい」

 アルトリウスは自分の手を見下ろす。

 何かが変わったのか。

 ――何も変わらない。

 だが魔女は何も言わない。

 こういうものか、と自分を納得させる。

「承知しました。主……」

 そう呼ぶと、漆黒の魔女は満足げに目を細めた。

 主従という、安全な距離。

 再会はしたが、関係はまだ曖昧なまま。

 嵐の夜は、静かに深まっていった。



 床に散らばった物を片付け終えると、部屋は見違えるほど広くなった。

 渡された布で床を拭き上げる。

 騎士団の寄宿舎で、まだ駆け出しだった頃。

 雑巾がけは日常だった。

 生活の場を清潔に保つのは、当たり前のことだ。

 だが、このものぐさな魔女は違う。

 彼が“アルト”と呼ばれていた幼い頃から、掃除も洗濯も整理整頓も、傷が癒えた彼に丸投げしていた。

 この家で生活するなら働きなさい。

 そう言って、小間使いのように使っていた。

 漆黒の魔女――

 姿かたちも、内面も、二十年前と何ひとつ変わらない。

 変わったのは、彼女の身長を優に超えたアルトリウスだけだった。

「騎士、片付けが終わったなら今日はもういいわ」

 でかい図体で目の前をうろつくな、と言わんばかりに、壁側を指差す。

 炉の火が、ぱちりと弾ける。

「濡れたまま座ってると倒れるわよ。人間はそういうところが弱いの」

「ありがとうございます」

「心配してるわけじゃないわ。死なれても困るの。後片付けが……面倒だから」

 アルトリウスは黙って髪を拭いた。

 その様子を、ルシェルはじっと見ていた。

(……従属の呪いを受けた人間って、もっと怯えるものじゃなかった?)

 だが、

「……まぁいいわ」

 考えるのをやめる。

「今日は奥の寝台は使わないで。壁際で寝なさい」

「了解しました」

 逆らわない。

 問わない。

 ただ命令に従う騎士。

 アルトリウスは言われた通り、壁際に腰を下ろした。

 揺れる火が鎧に反射し、淡い光を落とす。

(……二十年前も、ここで火が揺れていた)

 視線の端に映る黒髪の魔女。

 幼い頃、自分を救った手。

 ――あの頃よりも、今の彼女はずっと小さく見えた。



 ルシェルは帳面を開き、数行だけ文字を書く。

 だが、すぐに手が止まった。

 背後に、人間の呼吸音。

 体温。

 濡れた衣が、ゆっくり乾いていく気配。

(……面倒ね)

 そう思いながらも、追い出さなかった。

(どうせ明日になれば、また別の厄介事が増えるんでしょうし)

 魔女は、“嫌いではない静けさ”に身を預ける。

 嵐は遠ざかりつつあった。

 だが、この夜に始まった変化は、簡単には消えない。

 炉の火が静かに揺れ、

 魔女の家には、いつもと違う気配がひとつ増えていた。

 ルシェルは何も考えなかった。

 考える気もなかった。

 ただ、雨と火の音が混じる夜をやり過ごす。

 嵐の夜は、静かに更けていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る