不思議の国のやさぐれアリス
@kyomubitq
プロローグ-素晴らしきかなワンダーランド-
不思議の国の朝は、およそ「不思議」という言葉から連想されるロマンチックさとは程遠い。
それは、築五十年の木造アパート『不思議荘』の薄い壁を突き破ってくる、物理的な騒音から始まる。
「お茶の時間だ! お茶の時間だ! ティータイムを過ぎた者は死刑! 死刑だーッ!」
隣室に住む三月ウサギが、毎朝五時に鳴らす拡声器型の目覚まし時計。その怒鳴り声に合わせて、アリスは万年床の中から中指を立てた。それが彼女のモーニングルーティンだった。
「……あー、うるさい。マジで一回、あいつの部屋に手榴弾放り込んでやろうかな」
アリスは、カビ臭い湿り気を帯びた布団から這い出した。
六畳一間の畳の部屋。そこには、二十四歳の独身女性が住んでいるとは思えない光景が広がっている。
畳の半分は、吸い殻が山盛りになった灰皿代わりの空き缶と、飲みかけのエナジードリンク、そして脱ぎ散らかされたジャージで埋め尽くされている。いわゆる「汚部屋」の類だ。
しかし、残りの半分は異様だった。
壁一面に設えられたスチール製のガンラック。そこには、油の匂いを漂わせる数種類の予備兵装と、整然と並べられた給弾ベルト、そして彼女の「相棒」である汎用機関銃が鎮座している。
マシンガン。
魔法と火薬がデタラメに混ざり合うこの国において、最も確実かつ野蛮に「不条理」を解決できる物理手段。
アリスは、寝癖だらけの髪をかき上げながら、部屋の片隅にある小さな冷蔵庫を開けた。
中には、食べかけのコンビニ弁当と、真っ赤な練乳のチューブ、そして最後の一粒になった「最高級いちご」のパック。
彼女はためらうことなくそのいちごを手に取ると、ヘタも取らずに口に放り込んだ。
「……ふぅ。生きてる心地がする」
いちごの甘酸っぱさが口の中に広がった瞬間だけ、彼女の死んだ魚のような瞳に、微かな光が宿る。だが、それも長くは続かない。スマホのバイブ音が、畳を震わせたからだ。
画面には、派手なハートのアイコンが躍っている。
『【重要】ハートの女王より新規依頼:庭園を占拠中のチェシャ猫軍団を物理的に削除せよ。報酬:300,000ワンダー』
「……30万か。あいつら、当たっても死なないから弾の無駄なんだよね。経費引いたら手元にいくら残るんだよ」
アリスは深く、重いため息をついた。
だるい。眠い。働きたくない。
しかし、高級いちごを腹一杯食い、このボロアパートの更新料を払うためには、この不条理な仕事を引き受けるしかなかった。
アリスはのそりと立ち上がると、ハンガーにかかっていた「戦闘服」を手に取った。
それは、部屋の惨状とは対照的な、驚くほど真っ白で清潔な、フリルの付いたエプロンドレスだ。
彼女は、まるで儀式を行う神官のような手つきで、そのドレスに袖を通した。シワ一つない。汚れ一つない。
傭兵として戦場に立つ以上、正装だけは完璧でなければならない。それが、このやさぐれ果てたアリスの、唯一残されたプライドだった。
最後に、マシンガンのボルトを引き、薬室に弾丸が送り込まれる金属音を部屋に響かせる。
カチャン、という硬質な音が、彼女の意識を「生活」から「仕事」へと切り替えた。
アリスは口に煙草を咥え、火をつけた。
紫煙を吐き出しながら、サンダルを突っ掛けて外へ出る。
アパートの廊下に出ると、そこには電動キックボードに跨った白ウサギが待ち構えていた。
「アリスさん! 遅いですよ! 女王様が『五分以内に来なければ、あなたの銀行口座を永久凍結する』って、ネット配信で宣言してます!」
「……あいつ、相変わらずコンプラ意識ゼロだな。で、現場は?」
「新宿御苑風の第三王立庭園です! 早く、後ろに乗ってください!」
「嫌。狭いし、私のドレスがシワになる。……それより、後で報酬、35万に交渉しといて。チェシャ猫相手なら弾丸代の特別手当が出るはずでしょ」
「えぇっ!? 無理ですよ、そんなの! 女王様の機嫌、最悪なんですから!」
「じゃあ、やらない。帰って寝る」
「わ、分かりました! なんとかしますから! だからその物騒なものをしまってください!」
アリスは、白ウサギの叫びを無視して、煙草を深く吸い込んだ。
空を見上げれば、原色のネオンで彩られた巨大な時計塔が、狂った速さで針を回している。
現代的な不条理と、おとぎ話の残骸が混ざり合う、最高に明るくて最低にやさぐれた世界。
「……あーあ。一発撃つごとに、いちごが一個分。……マジで、やってらんないわね」
アリスはマシンガンを肩に担ぎ直し、やる気ゼロの足取りで階段を下りていった。
純白のエプロンドレスが、冬の朝日を浴びて、眩しいほどに白く輝いていた。
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